ある鍛錬施設の事務員の話
晴れやかな空の下、私は今日も仕事場へと向かう。
その名も、〈鍛錬場〉。冒険者だけでなく、一般市民も利用できるトレーニング施設である。
ここの施設の主であるボリスさんは、とても癖の強い人物であった。普段は受付係を、裏では経理などの事務仕事を担当している私にとっては、雇い主にあたる人であり、また悩みの種でもあった。
なぜなら、彼はほぼ毎日のようにトラブルを引き起こすからだ。
仕事場である〈鍛錬場〉の敷地に足を踏み入れる前。私は、一呼吸置いてから入るようにしている。
さて、今日は一体どんなトラブルが待ち受けているのだろうか。
「おはようござい――」
「レベッカー! おはよう! そして助けてくれー!」
私は、愕然とした。すでに事は起こっていたのだ。
正面から入ってすぐのところで、それは起こっていた。毛一つない輝かしい頭に、赤い物体――タコとかいう魔物であり、常連客であるカイルさんの従魔であるマリネさんを貼りつけたボリスさんが、奮闘している姿があった。
◇◇◇
生まれ故郷の〈サントリナ〉は、賑やかな町だった。
王国の首都なのだから当然、と思われるかもしれないが、祖父母が住んでいた漁村〈ロディオラ〉とはまた違った空気が感じられた。様々な店が立ち並び、一般市民と貴族の姿が同時に見かけられるのは、首都ならではの光景ではないだろうか。
私がそんな町にある施設、〈鍛錬場〉に勤めだしてから、もうじき五年がたつ。
この国は、『冒険者』になる人に対する支援が厚い点で、他国からも一目置かれているそうだ。年齢制限も性別によっての制限もなく、「なりたい」と思った者は誰でもなれる。当然、食っていけるほど稼ぐためには色々必要になるのだが、その中でも必須なのは、鍛錬を積んで体と技術を身につける点だ。
私が勤める施設――〈鍛錬場〉は、まさにそのための施設であった。
施設の主は、脳筋――否、筋肉自慢の元冒険者のボリスさん。職種は格闘家だった人だ。かつては〈闘技場〉の剣闘士で、一人で複数の魔物と熱戦を繰り広げていたとかいないとか、珍妙な噂がある人物だ。
私が彼と出会ったのは、二十三の頃。父に、絶対に行き遅れるなと強く勧められた見合いで知り合った男性が、実は借金まみれだった事実が発覚し、破談になった直後だった。
当時――否、今でもその気風はほとんど変わらないのだが、「女性が働く」のは、なかなか厳しい世の中であった。男性が働き、女性は養ってもらいつつ家を守る。そういう考えが定着しているからだ。
したがって、女性が職を得るには、自分で店を開業するか、貴族のお屋敷で召使いになるか。極端な話、その程度であった。
結婚相手が見つからなければ、貴族の家に奉公に出るしかない。それは、嫌だ。そこで私は、〈労働者ギルド〉の扉を叩いたのだ。
「そうだねぇ。君、若いし……ここなんてどうかな?」
女に仕事なんて、とあからさまな態度を崩さない窓口の職員に紹介してもらったのが、その〈鍛錬場〉の受付係の仕事だった。
「うちで働いてくれるのかー! そいつは助かる! まぁ、色々頼むわ!」
面接とは名ばかり。その場で即採用された。
経歴もなにも調べようとしないので、本当に大丈夫なのだろうかと当初はとても不安だった。しかし、働いているうちに、彼の人となりを知って、その不安はなくなった。
ボリスさんは、とにかくまっすぐで、当たって砕けても何度でも立ち上がってまた砕いて、まさしくボルノイのごとく猪突猛進なタイプであった。なかなか強くなれないと悩む冒険者になりたての少年に、つきっきりでアドバイスしたり、年配のお客と張り合ったり。負けたら落ちこんで、面倒な状況になるのだけれど、基本は元気で、心身ともに強い人だった。
そんな人に振り回されつつ、私はいつしか、ここの事務員が自分にとって天職なのだと思うようになった。今でも、その気持ちは決して変わらない。
「聞いてくれよ、レベッカ! こないだ来てたガキんちょ、昇格試験クリアしたぞ!」
人の成長を、我が子のように喜ぶその姿に、惚れたのも事実。もちろん、仕事仲間として、だ。
そんな気持ちがあるからこそ、この仕事を続けてこられたのだ。おそらくは、これからもずっと。
◇◇◇
――現実は、このとおり厳しいのだけれど。
「レベッカ、聞いてる!? なぁ助けてくれって!」
つい現実逃避したくなって、自分の過去を回想していた。最近、日に日にそれをする回数が多くなってきたように感じる。
「むぎゅ……っそんな、引っ張らない、でくださ、いいっ」
頭に貼りついたマリネさんが、どこか苦しそうな顔をしているのを見て、荷物を放りだして駆け寄った。
「ボリスさん、無理に引っ張らないでください。マリネさんがつらそうです」
「そんなこと言ったってよお!」
ボリスさんは、無理矢理引きはがすつもりで、マリネさんの腰――否、足の付け根のすぐ上あたり、と言うべきか――を両手でつかんで、何度も引っ張っている。
めまいがしそうな頭を押さえつつ、私は踵を返して倉庫へと走った。その中にある、武器の手入れに使う油の瓶をつかんで、再び戻る。
「ボリスさん。手を離してもう少し屈んでください」
「お!? お前も引っ張ってくれんのか!?」
「違います。いいから、手を離してください」
ボリスさんがようやく私の話を聞いて、腰を曲げてこちらに頭を突き出すような体勢になったところで、持ってきた油をその頭にかけた。
「ぐあっ!? なにしてんだお前!」
「あ、すみません。目を閉じてください」
「もっと早く言って!?」
垂れてくる油が目に入ってしまったようだが、人体に害はないはずなので問題はないだろう。
そうして、滑りがよくなったおかげか、マリネさんの足は一本、また一本と外れていき、最後にはつるりと音がしそうな勢いで、床へと落下した。
「とれた……! ありがとうございます、レベッカさん!」
「いいえ。うちのボリスさんがご迷惑をおかけしました」
マリネさんと言葉を交わしつつも、油まみれになった床に目がいく。これは、掃除が面倒だ。
私がそう思ったのを察したのか否か、マリネさんが掃除を手伝ってくれた。「当事者なので」と、言って。
人間としては奇抜な人種にあてはまるボリスさんに負けず劣らず、彼も珍妙な生き物だと思う。見た目もそうだが、どこか人間味が感じられる性質も。
「マリネさんが気にやむ必要はありません。なにがあったのかは……想像できるので」
目を細め、ボリスさんを見る。途端に彼が、ぎくりと体を震わせた。
「な、なんだよ。なにも見てなかったお前になにが分かるってんだ?」
「カイルさんがいつもマリネさんを肩に乗せているのを見て、自分も真似してみたくなった。最初は同じように肩に乗せようと思ったけれど、重心が傾くのが気になったので、頭に置いてみた。その結果こうなった……どこか間違っていますか?」
「いやいや、別に真似してみたくなったわけじゃ――」
「合ってます! すごいですね、レベッカさん」
ボリスさんの否定の言葉を、マリネさんが手――前足とでも言うべきなのか――を叩きながらばっさり切り捨てる。その無邪気な姿に、さすがのボリスさんも反論できない様子で、「うぐぐっ」と、意味不明な擬音語を発していた。
その後、マリネさんはトレーニングを終えたカイルさんと一緒に帰っていった。
カイルさんに気づかれないようにこっそりと、油の代金を渡してきたマリネさんを止めるのに、少し苦労した。
「いーいコンビだよなぁ、あいつら。俺とレベッカみたいだよな!」
「はぁ」
どの口が言うのか。
そう思いつつも、不思議と悪い気はしなかった。手にしていた空の瓶を見つめ、考えてから口を開いた。
「……さっき使った油の費用、きっちりボリスさんの給金から引かせていただきますからね」
「なんで!?」
今日はまだ、始まったばかりだ。




