第一話
《1》
信じられない話かもしれないが——私は、悪魔を見た。
「彼女」はその二振りの巨大な剣を用いて、私の目の前で暴虐の限りを尽くした。肉を切り裂き、骨を断ち、挙げ句の果てには次元さえも引き裂いた。
彼女は確かに悪魔だった。そして彼女自身もそう名乗っていた。
年端もいかない少女の姿をしていても。
御伽話の赤ずきんのような可愛らしい服を身に纏っていても。
淡い緑色の髪に、ピコンと犬のような獣の耳を生やしていても。
見つめてくる私に向かって、愛嬌たっぷりに微笑んでも。
彼女は間違いなく、血に濡れた悪魔だった。
——あの邂逅を果たしたのが、おおよそ六年前。
そして今、私は高校二年生となり、あの現実味のない思い出は、私の中で擦り切れかけていた。仕方がないと思う。あんな事を人に話したところで、誰にも信じてもらえない。人に話さないということは、自分で思い出す機会が減るということ。
彼女の無邪気なあの笑顔も、掠れて消えかけていた。
「……あの子の笑顔……可愛かったんはずなんだよなぁ……」
私は胸裏を無意識のうちに言葉にしていた。それは微風にさえも溶けてしまいそうな、本当に小さな声だった。
《2》
最近の世の中は随分と物騒になったと、私——望影六葉は切に感じている。とは言ってみたものの、これは私の主観での話であって、社会全体ではそんなことなかったりするのかな、なんてことも思ってみる。
というのも、私が通う《籠目西高校》は全国的に見ても「異常」な学校なのだ。東京都多摩地区籠目市という、一見すると良くも悪くも「何もない」この土地。そこに一つポツンと、世紀末の空気が充満する空間が存在している。
前時代的なヤンキーの巣窟、と言えば、その惨状がイメージしやすいだろうか。制服を着崩した金髪の生徒が平然と闊歩し、教師の言葉そっちのけで乱闘を繰り広げる。それが《籠目西高校》で見ることのできる「日常」の姿だ。
加えてここの生徒たち、特に不良生徒について、彼らがある種の「自治」を保っているという点でも異端である。
その「自治」というのも、己の拳、暴力に意見を代弁させるような、秩序のちの字も見当たらないようなものではない。民主的な決定に基づいた、極めて平等なものだ。もっとも、それらは学校の想定するような学級や学年、あるいは学校単位で行われることはないため、どちらにせよ無秩序には変わりない。
そういった「秩序」——もとい「派閥」が混在し、日夜縄張り争いに明け暮れるのが、この《籠目西高校》の自由な校風である。
しかしながらそんな中にも、学校の想定した「公式」な統率組織は存在する。それは「生徒会」のことに他ならない。実際にこの「生徒会」は「派閥」に並び立つのではなく、それら全てを俯瞰する位置に立ち、全体の秩序を守らんと日々奮闘している。
そして私は、その生徒会——ここでの呼び名に則り、以下の文では《特別生徒会》と呼ぶ——の役員の一人であった。
……などと自らの置かれた環境を振り返る私は、校舎内をパトロールしている最中の身。
(——相変わらずここはうるさいな……「動物園」なんて呼び方も甘っちょろいくらいだよ……あえて言うなら……うーん……「工場」とか?)
夕陽差し込む廊下を、内心ここの環境にうんざりしていることなど絶対に周囲に分からないよう、背筋をピシッと伸ばして歩く。もちろん、制服は規定通りに着こなしている。
それに対して、すれ違う生徒たちのほとんどは化粧をしていたり、制服を改造していたりする。酷い人はそもそも制服を着ておらず、限りなく私服に近い服装をしていた。……最近は「多様性」なんて便利な言葉が登場してきて、そんな無秩序も一部は容認されつつあるが、流石にこれはいかがなものなんだと、私は眉間に皺を寄せた。
「どうしたんだよムツハ。でこにシワなんて作っちゃって」
「……あんたと私の仲でしょ。察して」
ちなみに、私が話の中で触れていないだけで、ずっと隣にいたこの女子生徒は、紫隈杏果という。紫色のアイシャドウと、長大な丈に改造した制服で派手にキメたこの少女は、私の(一応)友達だ。
この学校の中では、かつて一瞬でこの学校の頂点に立った伝説のレディースとして、そしてこの学校で一、二を争う喧嘩の腕前を持つ、実力派の集団《廃悪劣等》の長として名が知られている。
「あんたたち不良って物好きよね。この学校の中でしか通じない名誉のために、必死になって殴り合ってるんだから」
「そうかぁ? アタシからすりゃ、テメェの方が物好きだと思うけどな。そんな生真面目な癖して、この学校に入学してきてんだからさ」
「それはッ! ……それは、私が単に勉強ができなかったからで……」
「ふーん……そういやそうだったわ」
「せめてもっとリアクションしなさいよ!? 私がどんな思いでこのことを口にしてると思ってるの!? めちゃくちゃ恥ずかしいんだからねッ!?」
わかったわかった、と私を諌めるキョウカの顔は、どことなく煽っているようにも見えた。口に出していないだけで、「こんな偉そーにしてるけど、アタシよりバカなんだよな……」などと失礼なことを思っているに違いない。
こんなやつの隣なんて、離れようと思えばいつでも離れられるのだが……それでも私と彼女が友達でいるのには、ある理由がある。
「それで? 例の『悪魔』ちゃんについて、進展はあった?」
そう、これが彼女と私を繋ぐ理由である。彼女は私の『悪魔』に関する話を信じてくれる希少な人間のうちの一人なのだ。
キョウカはこの見た目と立場に加えて、ある特別な力を持っている。《儚く散った恋の花》なんてロマンチックな名前をつけられたその力は、チューリップの花びらのような鍔を持つ、鎖に巻かれた刃のない日本刀として、彼女以外の人間に姿を現す。
なんでも、彼女がこの学校のテッペンを獲るのにも、大きく貢献してくれた力らしい。私もその効果を体感してみたかったが、「テメェみたいなひ弱な女相手には使えない」と一蹴されてしまった。……こんなヒョロい見た目でも、一応荒事に備え鍛えている身なのだけれど。
「……無いよ」
「そっか、無いかぁ」
「仕方ないわよ。最近はテストもあって資料漁れてないし、あんたの言う《ツインズ》? ってやつの目撃情報も、しばらく前から激減しちゃったし」
「あー……なら仕方ないわな。六年前からずっと調べ続けてるなら、そろそろ新しい情報も無くなってくるだろうしな。《ツインズ》の目撃情報なんかは、意図的にそーゆーのを消そうとしてる奴らもいるって話だし」
「そうなの!? ……なんでよもーッ、ただでさえ少ない希望を消しやがって〜! そいつらに会ったら、顔面に拳捩じ込んでやるんだから!」
「おいおい、そういう過激なことはアタシらの特権だろ?」
私たち二人は、そんな談笑(?)をくり広げながら廊下を歩いていた。
しかしこういう穏やかな時間は、いつもブッツリと誰かに途切れさせられる。
「テメェやんのかゴルルァ!?」
「こっちこそやんのかァァァ!?」
「……っ、」
私は目を覆い隠して天を仰いだ。また、この学校のルールに則らず、感情に任せた「コミュニケーション」をしようとする輩が現れたようだったからだ。
「……ごめんキョウカちゃん、私行ってくる」
「おう、気ぃつけろよ〜」
軽めのテンションで送り出された私は、争う声の方に走り出す。廊下にたむろしている連中と肩がぶつかり、攻撃的な視線を向けられたりもしたが、私の腕章を見るや否や、その威勢の良さは首を引っ込めた。
校内の諸派閥と《特別生徒会》の話し合いによって、この学校には校則とは別に、幾つかの罰則付きのルールが設けられている。それはこの学校の「掟」として全ての生徒に共有された、例外無い絶対の強制力を持っていた。
そのうちの一つが、「《特別生徒会》、又は各『派閥』の中核メンバーへの申請無しに、全力の喧嘩をしない」というものだ。これは重度の負傷を伴う喧嘩の、後処理の重大さを疎んだ「派閥」の長による提案によって可決された。言い換えれば、「果し状」無しに喧嘩をしてはならない、ということでもある。
(——今日は申請が少なかったから油断してたのに……救護班のみんな、絶対に仕事は増やさせないからね!)
もし喧嘩で負傷者が出れば、当事者の所属する「派閥」か、《特別生徒会》の救護などなどが動かざるを得ない。当然彼らも「果たし状」システムに従って備品の補充などを行なっているはずなので、もし例外が生じれば——。
「頼む……間に合って……!」
他の学校では御法度とされる廊下全力疾走も、ここでは合法のものとされる。今にも起きんとしている想定外を止めるため、私はありったけの力で屋内を爆走した。
《3》
「ただいま……」
私は後を引く両腕の痛みを引きずりながら、自室のドアを開いた。
結果から言うと、喧嘩を未然に防ぐことには成功した。しかしながらその過程で、私自身が救護班の世話になってしまった。
さっきの私は、見るからに下っ端そうな、上の面倒など考えなさそうな男子生徒二人の間に割って入り、果し状システムを用いて後日決闘を行うよう、二人に言った。
しかしながらそのせいで、二人のバカのお互いに向かっていたヘイトが、全て私に向いてしまった。最終的に私を二人がかりで殴ることによって、二人の喧嘩は不完全燃焼で終わったようだった。
『……テメェ、真面目だからって無理していいってことにはならねぇぞ。ちゃんと自分と自分側についてる奴らのことを考えろ』
私が応急処置を受ける様を、少し遠くから眺めていたキョウカちゃんの、真っ当な言葉が未だに私の胸に刺さっている気がする。
幸い、《特別生徒会》の救護班の世話になる前に、キョウカちゃんの手引きによって、彼女の率いる《排悪劣等》の救護班に応急処置を施してもらえたのだが……迷惑をかけてしまったことに変わりはない。
「……あーあ」
ドアノブを引いただけで、腕の痛みがぶり返す。このザマでは、しばらく生徒会の仕事にも影響が出てしまうだろう。情けないったらありゃしない。
「これで迎えてくれる誰かがいたら……ちょっとは楽なのかな」
ここ《籠目西高校》は、地方からの生徒を受け入れるために、学生の一人暮らしの援助を手厚く行っている。学校には三棟の学生寮が併設され、敷地を出ても、学生を迎え入れる体制を整えた賃貸住宅が数多く見受けられる。
元々は地方の出である私もまた、その制度に助けられているうちの一人だ。……これを「上京」と呼んでいいのかはさておき、私はこのワンルームの寮に一人暮らしをしている。
こんな世紀末な学校のどこにそんな資金があるのかというのが不思議でならないほど、設備の整った部屋だった(ちなみに、運営費は卒業生からの援助で賄っているらしい。大層な金持ちを輩出したものである)。
そんな一人暮らしの寂しい部屋に帰ってきた矢先……私は違和感を覚えた。最初にやってきたのは、嗅覚の違和感。なんとなく不快な臭いが、私の生活スペースの方から弱々しく漂ってくる。ただガス漏れ由来ではないようで、もっとこう、どことなく生物的な感じがする臭いだ。血液とか、汗とか、そういう体液系統の。
「……?」
私は自分の中の警戒レベルをギュンと引き上げた。これらの臭いを戦の場でよく嗅ぐということに加え、以前にも、《特別生徒会》に憎悪を持った生徒が、刃物を持って潜んでいたことがあったためだ。
あの時はたまたま《排悪劣等》のメンバーを連れ込んでいたためことなきを得たが、今回は単身、しかも腕が使えないというハンデ付き。背負っていたリュックを玄関に下ろして機動力を確保すると、私は姿勢を低くして、壁を伝いながらメインの部屋に近づいていく。
徐々に部屋に近づいていくにつれ、今度は別の感覚が「侵入者」の存在に警鐘を鳴らし始めた。——聴覚だ。
(——吐息?)
決して鮮明な音ではないが、「はぁ……はぁ……」と、浅い息遣いが部屋の中から聞こえてくる。くぐもって聞こえてくるということは、相手はどこかに潜んでいると見て間違いないだろう。
「……ッ」
ダンッ! と、私は意を決して部屋の中に転がり込む。予想通り、視界に「侵入者」の姿は確認できなかった。しかしながら、その居場所はすぐに割り出すことができた。
(——これ……血痕……?)
ちょうど正面から部屋に入ると死角になる、クローゼットの扉の下。その隙間から流れ出るようにして、赤黒いシミがフローリングに刻み付けられていた。どうやら「侵入者」は負傷しており、この中で安静にしているらしい。中から聞こえてくる息の音も、心なしかか細い印象を与えてくるようになっていた。
ちなみに部屋全体を見回してみると、ベランダの窓がほんの少し空いており、カーテンが風に煽られていることに気づいた。どうやら「侵入者」は、ここから私の部屋に入ってきたらしい。
「……」
私はこの「侵入者」の正体について、二つの仮説を立てた。生徒会に恨みがある生徒の可能性については、先日《特別生徒会》が発表した、反逆行為への刑の厳罰化が効いていることを信じて除外する。
一つ目は、どこかで襲撃に遭った生徒が、この部屋に避難してきたというものだ。暴力が対話の手段に用いられる以上、それを悪用する輩は当然出てくる。あまり体力の多くない生徒から金品を巻き上げるクズは、《特別生徒会》を悩ませる問題の一つなのだ。
この場合私が取るべき対応は、クローゼットの中の生徒から事情を聴取し、襲撃を行なった生徒を特定すること。もし「派閥」に所属していればその「派閥」の責任者が、はぐれ者であれば《特別生徒会》の誰かしらがその生徒に罰を科すことになる。
しかしながら、私はこの可能性をあまり重要視していない。本丸は二つ目の、喧嘩途中の生徒がここに転がり込んで、反撃の準備を進めているというものだ。
こちらであれば、「侵入者」の負傷、窓から侵入するだけの身体能力の両方にある程度説明がつく。しかしながらこの場合、私が取るべきなのは「侵入者」の鎮圧だ。果し状のない喧嘩は、裏にどのような事情があったとしても止めなければならないのだ。
加えて、相手が攻撃の意思、あるいは殺傷力の高い武器を持っている可能性も捨てきれないため、私個人の身の安全についても考えなくてはならない。
……と、ここまで考えるのにおおよそ十秒足らずの時間がかかったわけではあるが、結局のところ私がまず取るべき行動が、このクローゼットの中身を確認することただ一つであるということには、全く変わりなかった。
一応、リュックから取り出したスタンガンを左腰にリール式キーホルダーで固定して、自己防衛の手段としておく。そして自らの安全をとりあえず一定ラインまで保証したところで、私はクローゼットの頼りない扉の窪みに手をかけた。
「……ふぅ」
一度深呼吸ではやる鼓動を落ち着かせてから、私は一気にクローゼットの戸を引きながら立ち上がり、「侵入者」に自らの姿と左肩の腕章を示した!
「《特別生徒会》役員、望影六葉です! 他人の部屋に侵入した罪により、あなたを《特別生徒会》の名の下に——」
私はそこまで言った後に、思わず息を詰まらせた。たった十秒とはいえ、あれだけ綿密に組んだ予想が、ことごとく外れたからだ。
「侵入者」は、あからさまに学校関係者ではなかったのだ。その姿を見た途端に、私の胸中には、種類の全く異なる三つの興奮が、肺を潰す勢いで込み上がってきた。
一つは、完全な想定外に狼狽し、《特別生徒会》の一員としてどのような対応をすべきなのか必死に考えるべきだという焦燥。
一つは、その「侵入者」の姿と、私の奥底に眠らせようとして幾度となく失敗した惨状がリンクし、過去のトラウマが一気に蘇ってきたことによる恐怖。
そして最後の一つは、目の前の「彼女」との再会という奇跡を目の当たりにした感動。二つが込み上がってきた後、先に挙げた二つを覆い尽くさんという勢いで、それは私の胸の中を埋め尽くした
「ロフィア……ちゃん……!?」
天使のような「悪魔」が、そこにいた。
私は恥ずかしながら、冷静さを欠いていた。ただ目の前に現れた、御伽話の赤ずきんのような格好の、パステルグリーンの髪に狼の耳を生やした小さな少女との再会に、焦り、恐怖し、同時に喜んだ。
——六年。望影六葉、十六歳の人生の実に三分の一の時間を、彼女の手がかりを掴むことに費やたのだから。
「……お……姉ちゃん——」
彼女の私を呼ぶ声が、私に全ての記憶を呼び起こさせた。時間が風化させかけていた、私と悪魔の彼女——ロフィアとの記憶が。
「ロフィアちゃん——っ!」
私はいつもの堅い表情を取り払って、その小さな体を抱きしめた。