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第二部 (八)


 抱え席の御家人、元町奉行所与力の娘である真乃が訪ねることのできる御目付はただ一人、神保半左衛門(じんぼはんざえもん)だ。

 半左衛門は四十過ぎのがっちりした体格の、みるからに武芸に秀でてそうな人物で、真乃の剣術の師匠の弟弟子になる。その縁で半左衛門と真乃は知り合い、半左衛門は真乃の剣術の才を師匠同様に愛でていた。

 めったに訪ねないが、訪ねれば鷹揚な半左衛門はいつも気さくな物言いで真乃と剣術談義に花を咲かせる。


 半左衛門は大和守御領分の一件に関わりがないかもしれないが、目付方が動いているならば全く知らないとは考えにくい。糸口はそこしかなかった。

 もちろん、目付の探索をただ教えてくれと頼んで教えてくれはしない。なんらかの証しか、確証に基づく推量をぶつける必要がある。

 昨日から今日にかけて起こった出来事で、真乃の頭に今回の企みの構図が見えてきたからこそ、訪れる甲斐があるのだ。

 そして、大きな手掛かりとなったのは、あの忍びあがりらしい男の言葉だ。

 ――『虫けら』の最後の意地だったか……


 ただ、神保屋敷に着いた時点では、あの男が仕えた家老がどこの家老か、まだ真乃に絞りこめてはいなかった。

 御三家と御三卿の中では見当をつけられたのだが、老中、若年寄といった公儀の重役側が全く絞り込めない。

何かと賄賂を求めてくるという話を聞く御仁が何人かいるが、別の言い方をすれば、黙っていてもあちこちから賄賂が入ってくる立場なのだ。わざわざ仕掛ける必要がない。といって、絶対に企みに関わらないとは言いきれない。


 真乃がおよそ一年ぶりに神保屋敷を訪ねると、半左衛門は下城直後だった。若党にいつもの座敷で待つように言われた。

 半左衛門を待つ間に奥方が自ら茶と干菓子を持って現れた。

 実は半左衛門の奥方は小太刀の名手で、真乃と武術談義ができる。真乃に教えを乞うてきたこともある。

 半左衛門からも頼まれたため、真乃はこの屋敷の庭で半刻ほど立ち合いながら小太刀を教えたことがある。なかなか筋がよかった。

 夫婦揃って剣術の腕は確かだ。


 着流し姿で現れた半左衛門に真乃は不躾ながらと、これまでに自身が見聞きしたこと、経緯をまとめたうえで、本多大和守に関わる目付方の動きについて端的に尋ねた。

 半左衛門は少し考えた後で真乃の目を真っ直ぐ見つめながら答えた。

「儂の管轄ではないが、動きがあることは承知している。そなたの推量どおり、目付も迂闊に動けぬ御家が絡んでいる。相すまぬが、これ以上は儂の口からは言えぬ」

 昨夜の出来事の後始末ぶりから推測したとおりである。真乃は心身を引き締めた。

 そして、半左衛門は「御家」と言った。

 老中や若年寄といったお役目についている御仁が絡んでいるならば、「御家」とは言わないだろう。

 この時、真乃は相手を絞り込めたと思った。


「御目付方は迂闊に動けぬ御家に対して、どうなさるおつもりなのでしょう?まさか見逃すつもりはございませんでしょうね」

「もちろんだ。表沙汰にはしないと思うが、きちんと始末はつけさせる」

「大和守様はいったいどちらの御家の何に巻き込まれたのでございますか?何か手懸りを教えていただくわけにはまいりませぬか」

 半左衛門は湯呑みに手を延ばした。次いで小皿の上の落雁を摘まんだ。

「ほれ、そちも食べぬか。この落雁も白雪羮(はくせつこう)もうまいぞ」

 半左衛門は美味しそうに湯飲み片手に干菓子を次から次へと口に入れた。

 半左衛門の甘いもの好きは本物である。神保屋敷を訪れる度に真乃は嬉しそうに甘いものを頬張る半左衛門を見ている。

 真乃も砂糖をたっぷり使った干菓子は大好きである。しかも目の前にあるのは色目からして、高い白砂糖を使った落雁と白雪羮だ。だがここで一緒になってパクパク食べてしまっては、誤魔化される気がして控えていた。

「これからわたくしが申すことをお聞きください。もしも間違っていたら、違うと一言、仰せ願います」


 半左衛門は部屋のすぐ外に控えている若党を呼んで小声で何か命じた。指で湯呑みと小皿を指していたから、また茶と落雁を持ってくるようにと言ったのだろう。それからゆったりと真乃に向き直った。

「そう急くな。新しい茶と落雁が来るまで待て」

「事は急くのでございます。これまでは命を狙っていたのです。思惑があって連れ帰ったのでしょうが、その思惑が済めば……」

「拐かした連中は大和守様の御家中だと考えているのだな?」

「殺された二人の斬り口から、そう考えます。御目付様も迂闊に手が出せない御家中は、引き続き後ろに控えていると考えております」

「あくまでも大和守御家中の騒ぎにするため、だな」

 半左衛門はため息をついた。

「いったいどちらの御大家が大和守様の後ろに潜んでいるのか、すぐには絞り込めませんでした。御老中のお一人かとも考えました。しかしあの騒ぎが起きた場所に、御屋敷、御領分の所在地から、ある御家が頭に浮かびました」

 そう、あの御家は例の騒ぎを起こした御門近くに上屋敷があるだけでなく、下屋敷は大和守上屋敷の近くにあり、播州の領分は三崎領分の近くにあるのだ。しかし、ただそれだけなのかと言われれば、それだけだ。真乃も確信はもてずにいた。


 半左衛門は脇息(きょうそく)に肘をついた。

「それ以上は申すな」

 半左衛門は苦笑いを浮かべた。

「御家としては、そちの推測は当たっている」

 半左衛門のこの一言に、真乃はここへ来て良かったと、自身の判断の正しさを心底から喜んだ。

「但し、そこの御屋形様(おやかたさま)が指図したわけではなさそうでな。そちも知っていると思うが、その御家中に長くお仕えしている者はおらぬ。なかなか難しい内情がある」


 若党が戻ってきた。今度は小皿に落雁だけでなく綺麗な色をした練り切りも三つずつのっていた。

 さすが千石の御役につく御家である。色味からして、その練り切りも、国産の太白砂糖ではなく、高価な白砂糖を使っていると思われた。

 五年くらい前から白砂糖の値段が高騰し、真乃には全く手が出せなくなっている。高騰の大きな理由は白砂糖を運んでくる阿蘭駝船の来航が国許の戦乱で途絶えたためと聞いていた。

 この時代、白砂糖は国内でまだ生産できず、真乃やるいが口にする砂糖はもっぱら薩摩産の黒砂糖、たまに讃岐、阿波で生産される黄色味のある太白砂糖だ。

「おお、これは()()()の練り切りではないか。こんなものを隠しておったか」

 半左衛門は練り切りに目を輝かせ、若党が前に小皿を置くやいなや、練り切りの一つに手を伸ばし、パクリと口に入れた。


 真乃は今度は練り切りに話を折られたと思ったが、焦っても仕方がないと自分に言い聞かせた。

 大きな情報は得られたのだ。これ以上半左衛門から聞き出すのは、半左衛門の立場を危うくするかもしれない。

 ではご相伴と、真乃も小皿に手を伸ばした。

 久方ぶりの練り切りだ。添えられた竹楊枝で四半分に切って口に入れた。黒砂糖と違ったすっきりした甘さが身体に染みた。どっと疲労を感じた。

 だが大事なのはこれからだ。疲れている場合ではない。

 練り切りを二口、三口と食べるうちに砂糖の甘さが疲れを癒し、頭がすっきりしてくるのを感じていた。

 ――薬種問屋が砂糖を扱っているのはこういうことだな。

 砂糖専門の問屋が出てくるのはこれより十数年後の天保に入ってからである。

 視線を感じて目をあげると、半左衛門が優しい目で真乃を見つめていた。


「うまいだろう?これも食べなさい。相当疲れているようだ」

 半左衛門が身を乗り出し、自身の小皿を真乃の方に差し出してきた。真乃は慌てて手をかざして断った。

「とんでもございませぬ。そのようなことはできませぬ」

 すると、半左衛門は更に膝行で近づき、真乃がかざした手を掴んでその手に練り切りをのせた。不思議に思ってその練り切りを見ると、上部に文字が刻まれていた。「ねごろ」と読めた。


 はっとして真乃は半左衛門を見返し、練り切りを押しいただくと、そのまま丸ごと口に入れた。噎せそうになり、急いで茶を口に含む。

 半左衛門は元の上座からにこにことそんな真乃を見守っていた。そうして真乃が練り切りを胃の腑に流し終えたところで、笑みを消した。

「真乃、くれぐれも気を付けるのだぞ。そちの剣術の腕が素晴らしいのはよく承知しているが、もしも多勢に無勢、権勢ゆえの攻めを防ぎきれないと思ったならば、すぐにこの屋敷へ駆け込むのだ。それから水際に気を付けてな。よいな。決して無理するでないぞ。それは決して逃げではない。無茶や無謀こそ愚か者のすることだ。儂に約束してくれ」

 半左衛門の目は心の底から心配していると告げていた。

 真乃は教えてくれた内容の重さといい、自分を気にかけてくれる心持ちといい、言葉で感謝を表しきれないと思った。両手をつき、無言で長く深く頭を下げた。

 相手の大きさ、多勢に無勢は既に痛感していたことだが、半左衛門の目に相手の大きさが更に一回り大きくなった。同時に真乃の肚も据わった。


「さぁ、今宵は夜食に付き合ってくれ。奥もそちが訪ねてくるのを待っていたのだ。今頃張り切って料理の指図をしているぞ」


 半左衛門自身は決して口にしないが、本音をいえば、真乃を手元に置いておきたいらしい。剣術の指南役といった、剣術に生き甲斐を見いだしている真乃が望む形で、である。前に訪ねた時に奥方が真乃に打ち明けた。

 ありがたい話だが、双方にとって良い結果にならないと真乃は思う。

 出る杭は打たれる世の中だ。ましてや真乃は女である。必ず家中に波風が立つ。

 半左衛門もわかっているから、じかに言ったことはないのだろう。


 半左衛門が口にした「水際に気を付けてな」が真乃の中で大きく膨らんだのは、奥方も同席しての夜食を急いで食べ終え、神保屋敷を辞して早足で下っていた黐木(もちのき)坂の途中だった。




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