第二部 (六)
ふわりと何かが上に舞う気配がした。
咄嗟に真乃はつねを突き飛ばした。
「逃げろ!このまま南へ走れ!」
叫びながら抜刀した。上から振ってきた刀を鎬で弾く。
相手は弾かれた勢いも吸い込んで、真乃の後ろの地面にふわりと降りたった。
振り向きざま、真乃が切り上げる。
前に出かけていた男は足捌き軽く、後ろへ飛び退いた。……と、何かが立て続けに飛んできた。
真乃は刀で払った。一つはこめかみを掠めた。棒手裏剣だ。
直後には僅か一間ほどの先に刺客がいた。真乃は刺客の鋭い突きを辛うじて鎬でそらし、そのまま突きに出た。
男は軽やかに半身でかわした。と、思いきや、捻り返して刀を振り上げてきた。
真乃は刃を避けるのに後ろではなく横へ跳んで間を空けた。じわじわと通りの端へ追い詰められている感じがあったからだ。
――この男には尋ねたいことがある。倒してしまう前に聞き出さねばならぬ。
「お主を雇ったのは、本多大和守様の御家老か?」
男は動きを止めた。
「……違うとだけ言っておこう」
「では、大和守様の御用人か?」
男は何も言わなかった。だが月明かりに見えた表情は図星という風にも見えなかった。
「お互い長生きはできねぇ性分のようだな」
「他の二人はどうしたのだ?追ってきたのはお主だけのようだな」
「あの屋敷に足止め喰らってるんだろう。あんたと娘を助けたあいつらは何者だ?只者じゃない」
あの二人はあの後も追撃を防いでくれたのだ。
「知らぬ。あそこで助けが入るとは思ってもいなかった。お主も知らない二人なのか?」
「……いや、全く知らないわけではない」
それだけ言うと、男は不気味に沈黙した。
「会ったことはあるわけか。何処で?」
「本当にあんたはあいつらを知らないのか?」
「くどいな。嘘をついてどうする。知らぬと言ったら知らぬ。大和守様の御紋のついた看板を着ていたように思ったが、私の知る限りでは大和守様の中間が私とおつねを助ける道理はない」
「……そうか。やはりそういうことだったんだな」
男は再び沈黙した。考え込んでいるのではなく、隙もない。
真乃は自分の考えを口にするのを躊躇った。目の前の男もそう思っているに違いないと思えたが、口にすること自体が憚られる。しかし、ここは黙っていては、埒が明かない。
「お主のその口の重さからすると、彼らは公儀の隠密だと考えているのではないか。公儀隠密が大和守様御家中に二人も入り込んでいたと……」
――どんな悪事を働いたにせよ、それで御目付方が動いているなら、詰めは近いだろう。
そう考えたところで、真乃はハッとした。背筋に冷たいものが走った。
――今頃になって松三郎とおるいさんの口を封じようとした、そのきっかけは、もしかして御公儀の動きだったのでは……それを秘密が漏れたと……もし、そうなら……なんという……
「一月、いや、もう二月近く前になるだろうな。一体何が起こったのだ?何かが起こったが故にお主達の役目がおるいさん襲撃になったのではないか?」
真乃の問い詰めに、男は薄ら笑いを浮かべた。
「世の中には知らない方がいいこともありますよ、八丁堀のお嬢さん」
使い古しの嫌がらせに乗る真乃ではない。
「命まで狙われたというのに知らない方が良いと言うことがあるものか。それでは火元を絶つことができぬ。お主自身はそう言われて黙って殺されるのか?」
男の薄ら笑いが止んだ。
「もっともだ。虫ケラにも意地ってものがあるよな」
言い終えないうちに男は刀を斜め下から薙いできた。飛び退く真乃にすかさず左手で棒手裏剣を投げる。
間一髪、真乃は首を傾げて棒手裏剣を避けた。
相手の三の手は上段からの斬り付けだった。
真乃は素早く屈んだ。追いかけてくる相手の刀を立ち上がりながら鎬を当ててそらす。
次の瞬間には真乃の刀が男の胸を貫いていた。
しまったと真乃は思った。もう少し急所から外したかった。悔やみながら刀を抜いた。
相手の胸から血が吹き出る。
男は血まみれになりながらニヤリと笑った。
「全てが攻めになってんだな、あんたの剣は……」
笑ったまま、男が崩折れていった。
「お前の主は誰なんだ!」
真乃は何か手懸りが欲しかった。思わず地面に横たわった男を揺さぶった。
「か、家老は家老でも、あ、あんたが思ってる家老じゃ……」
男は言い終えることなく事切れた。それきり動かなくなった。
開いたままの目を真乃は手で閉じた。短く念仏を唱え、手を合わせる。亡骸から目をそらさず、ゆっくり立ち上がった。自分の腕はまだまだ未熟だと悔やんでいた。
駆けてくる複数の足音がしていた。
「青井様!ご無事で……」
足音の方を見ると、つねが番屋の役人を従えて駆けてくる。その後ろには万蔵の姿もあった。
「さっきも思ったが、おつねは足早いんだな」
「虫ケラ」は真乃だけでなく、男自身をも差していたと真乃には思えた。
忍びの技を会得していたあの男は一体何を背負っていたのか。
番屋に運ばれていく男の亡骸を見送りながら、真乃は妙な感慨を感じていた。あの斜に構えた風に、どこか自分と通ずるものを感じたのだ。
そして、あの最後の言葉。真実を告げたのか、最後まで主の家老に忠義を尽くして、嘘を言ったのか。「虫ケラ」という自嘲……考えがまとまらなかった。休息が必要だった。
真乃は八丁堀の青井家の者だと名乗り、用があるなら、本郷二丁目にいると番頭に告げ、つねの手を引いて惣兵衛店へと帰った。
夜遅いので、二人は足音を忍ばせて大貫屋の寮の枝折戸まで来たのだが、るいもかよもみねも、枝折戸を開けた途端に勝手口の引戸を開けて飛び出してきた。三人とも真乃とつねがいつ戻ってくるかと、耳をそばだてて待っていたらしい。
「おつね!」とみねが叫び、「おっ母さん」とつねが駆け寄るのを、るいもかよも目を真っ赤にしながら見つめていた。真乃も良い光景だと母娘の抱擁を眺めた。
「青井様、ありがとうございます。無事におつねちゃんを連れ戻してくださって」
声にるいの方を見ると、真乃に向いて深々と礼をしてきた。
「もしもおつねちゃんの身に何かあったら、ほんとにどうしようかと……良かった……元気に戻ってきて、本当に良かった……」
顔を上げたるいの目からはほろほろと涙がこぼれていた。
「おつねちゃんにもしもの事があったら、もうここにも居られなくなるんじゃないかと……」
「ここにも?前にもいられなくなったことがあるのか?」
るいの顔つきが薄暗がりでも解るくらい一瞬にして変わったが、首を横に振った。
「昔のことです。今から思えば大したことではないんですの」
翌朝、片岡が嘉兵衛、万蔵を従えて大貫屋の寮に現れ、つねが囚われていた屋敷を教えてくれと頼んできた。
武家地は目付方の管轄だが、様子を見るだけだからと、片岡は徒目付に話をつけたと言う。
誰かが確かめに来るのは予想していたことだ。
真乃自身も気になっていたから、昨夜往復した道をまた北へと歩いた。
更には悪い予想も当たった。
問題の屋敷の門は開いていて、昨夜、五人の男がたむろしていた離れはものの見事にもぬけの殻だった。
死体はなく、血痕も残っていなかった。
唯一の痕跡は、門扉下部の刀が突き刺さった跡だけだ。
つねが閉じ込められていた穴蔵は三畳ほどの広さがあり、植木鉢がいくつか置かれていた。昨夜は草木の匂いを感じた真乃だったが、土だけの植木鉢の中に枯木が植わった鉢が一つあるだけだった。
片岡達の近所の武家屋敷への聞き込みによると、その屋敷は一月近く前に空き家になったという。
空き家なら、勝手に出入りできないように竹矢来で門を塞ぐはずだが、何故かそうした対応をしていなかった。直ぐに誰かが越してくるはずだったらしい。
出入りしている者を見かけたことはないかと各屋敷の奉公人に尋ねたが、見かけたという者はいなかった。
昨夜の騒ぎについては悲鳴を聞いた者が何人かいたのだが、怖くて様子は見に行かなかったと、皆、事無かれの対応をとっていた。
「今の世はこうですよ。隣で何が起こっていようと知らぬ存ぜぬです」
「お武家様のお屋敷は町屋と違って広いし、高い塀に囲まれて外から様子が分かりにくいですしなぁ」
片岡と嘉兵衛は聞き込みの結果を渋い顔で真乃に告げた。
門の外にいた二人が頭以外を食い止めたことからして、片付けたのもあの二人か、その仲間と思われた。離れにいた連中の生き残りが血痕を片付けるとは思えない。
あの忍びのような頭がどこの家老の指示で動いていたのか、昨夜の時点では選択肢がありすぎて突き止めるのが大変だと思っていた真乃だが、この見事な修羅場の片付け様に、一気に絞り込めた。まさかという思いと、おののきとともに。
「目付方が片付けたというのですか!そうすると、目付方が公にしたくない騒ぎだったということになる」
「頭だった男が内藤家老以外の家老の配下だったのは間違いありません。昨夜の時点では、大和守様のもう一人の家老、御国家老ということも考えられましたが、大和守様御家中のことなら、公儀がわざわざここまで隠蔽しないでしょう。公儀が放っておけない大物が絡んでいるということですよ」
「厄介なことを申される」
片岡は顔を強張らせた。
「公儀が気にするのは僅かな御家ですぞ。尾張様、紀州様、水戸様。それから御三卿。いずれにしても、我々からは遥かに遠い方々だ」
「……大和守様の御家中は昨春、問題を起こしましたな。そのせいで大和守様は三月程差し控え(謹慎)になったはず」
「ありましたな。なかなか厳しい御採決でございました」
「その取り成しを大物に頼んだということは……」
「間違いないでしょう。頼む相手は御老中辺りになると思いますが」
「そうですね。御三家や御三卿よりも御老中ですね……」
公儀が隠蔽するような人物との結びつきは、あの田安御門の件で始まったと考えるのが、真乃にわかっていることからは一番あり得る話である。
公儀としては、御三家、御三卿に加えて、老中の不祥事も表沙汰にしないだろうから、老中自身が自身の保身に走っているのかもしれない。
いずれにしても厄介である。るいの命など、そんな連中にしたら「虫ケラ」だ。そんな連中にとっては真乃や片岡も「虫ケラ」だ。
頭が言った「虫ケラ」という言葉が真乃の中で大いに引っ掛かっていた。
「万蔵、今日は嘉兵衛親分に助けてもらいながら、本多大和守様御用人の山岸様とその奉公人、特に志水豊之進という中小姓を探ってくれ」
欠伸をしかけていた万蔵は、急に真乃に指図され、しゃっくりのような音をたてて頷いた。
銀蔵の死は、夜のうちに豊之進の耳に入った。銀蔵の仲間、例の家老の配下が夜道を駆け抜けて知らせてきた。
――あの銀蔵が一対一で殺られるとは、八丁堀の女用心棒は、確かに相当な遣い手らしい。
剣士を自負する豊之進の中に好敵手を得たという高揚感が湧いていた。どうお膳立てが成されるかわからないが、自分が引導を渡してやると思った。
「我が上様は手を引きたがっておられるが、あちらの御方がどうにも聞いてくださらぬ。二言目には改易になっても良いのか、だ……」
豊之進の主が泣き言を言っている。この前までの強引な姿勢は何処へ行ったのか。しくじる可能性は決して低くはなく、そうなった時の覚悟をしていたのではなかったのかと、豊之進は呆れた。
――半年前のあの段階ならば、まだ引き返せたろうにな。
愚痴をこぼしている相手は家老の内藤勘左衛門だ。こちらはとうに腹を括っていたようで短い答えは一貫している。
「ここまできたら、乗り切るしかない。最後まで貫き通すしかない」
豊之進は勝之助の顔を思い浮かべた。
――お主は良い主に仕えていたのにな。
予定どおりに事は進んでいる。次の策も既に動いている。今度は豊之進の進言を上つ方が受け入れた。




