第二部 (四)
善作爺さんを総州屋裏の長屋に送り届けてから、真乃は大貫屋の寮へと帰った。
わかったことは多いのに、却って肝心のるいと松三郎が叶屋で見た頭巾の武家が誰かわからなくなったことに頭に霧がかかった気分でいた。
そんな気分のまま惣兵衛長屋の木戸口を入ろうとした時、貧相な浪人とすれ違った。
驚いたことに、『能勢豊』が住んでいた長屋を尋ねた時に見た浪人だった。肩をいからせながら、悠々と表通りへ出ていった。頬被りした町の若い衆がるいの用心棒だとは気づかなかったようだ。
るいに会いに来たのかどうか確かめねばと思いながら路地奥に向き直ると、ちょうどみねが自分の店に入ろうとしていた。
顔色が良くないように感じた真乃は、町の若い衆姿のまま気軽に声をかけた。
「おみねさん、顔色が良くないようだが、具合が悪いのか?」
みねは文字通り飛び上がった。真乃を見返った顔は真っ青だ。
「驚かせて悪かった。こんな格好をしているが、紛れもなく青井真之助だよ」
真乃の言葉にみねは心安まるどころか、更に顔をひきつらせた。
「ま、まぁ、あ、あ、あお、あお、青井様でしたか。どこの男前の町の若い衆かと……」
声も震えている。
「どうした?何があったのだ?」
「い、いえ、大したことは……ちょいと暑気あたり起こしたみたいなんで、うちのが帰ってくるまで少し横になろうかと……」
「それはいかんな。弦好先生を呼んでこようか」
真乃の気遣いにみねは激しく首を横に振った。
「お医者さまなんて、とんでもない!しばらく横になってれば、治りますんで。それじゃ」
最後は真乃の方を見ずに店に入ってピシャリと戸を閉めた。
日頃の愛想の良さからあまりの違いである。腑に落ちない。
るいかかよが事情を知っているかもしれないと、真乃はみねの店の前を通り過ぎ、一番奥の店の引戸を声をかけながら開けた。
今日は真乃がるいとは別行動で外出するため、八代に昼間の用心棒を頼んでいた。
八代は人柄も剣術の腕も楠田より頼りになる。真乃は良い相棒を得たと思っていた。
真乃は土間に立ったまま、八代に留守の間の様子を尋ねた。
八代は大貫屋の主人がやって来ただけだと答えた。
今ここを貧相な浪人が通らなかったかと尋ねると、
「確かにここまでは来ましたが、すぐに引き返したのですよ。隙だらけだから、刺客ではないと思いつつ、一応警戒はしたのですがね」
るいに会いも話しもしていないと八代は断言した。
「あの男にも気をつけていただきたい。襲撃してきた連中とは別口だと思いますが、何か企んでいる風があります。きっとまた来ますよ」
真乃の言葉に八代は承知したと頷いた。
まもなく楠田がやってきて、八代と交代する。
真乃は明日も出かけることになりそうだから引き続き昼間の用心棒を頼むと八代に別れの挨拶をし、やっと大貫屋の寮の枝折戸を開けた。
台所からるいとかよの楽しげな話し声が聞こえていた。
声に釣られるように真乃は勝手口を覗いた。
「お帰りなさいませ」
同じ言葉を発しても、明るい表情のかよと違い、るいの顔は無愛想だった。
「本当にお吉さんに会っただけでしたの?」
最初にそんな質しがくるとは思っていなかった真乃である。
「いや、それが……きさ殿にも会った」
るいの目が厳しくなった。
「やっぱり……始めからそのおつもりだったのでしょう?」
「そんなつもりは毛頭なかったよ。吉殿から必要な話が聞けると思っていたからな。屋敷奥に案内されて、大いに面食らった」
真乃はざっと経緯を話した。
「そうなんでございますか」
るいは一段と無愛想に返してきた。目が疑っている。
「それで……何かおわかりになりましたの?」
「わかったことで、謎が増えた」
「あたしのような者にもわかるようにお話くださいません?」
「真壁勝之助は内藤家の人たちに心から信頼され頼りにされ、いずれは用人に取り立てようとまで思われていた中小姓だったが、供をしていたのは内藤家老だけではないのだ」
真乃の端的なまとめに、るいも足湯を持ってきたかよも面食らっていた。
「大名としては小さいとはいえ、家老の御家だから、まさか家臣を使いまわしているとは考えていなかった。我ながら頭が固かったと悔いたが……固かったのは私だけではなかったようだな」
真乃は目の前の二人の顔つきに最後の方はにやりとした笑いが出た。
「あたしが叶屋でお見かけした頭巾のお侍は内藤様ではなかったと仰いますの?」
「それがわからなくなったのさ。内藤様だったかもしれないし、内藤様でなかったかもしれない。松三郎の旦那が内藤家の家臣でないことだけははっきりした」
るいが一瞬息を止めた。胸元に手をやってから、口を開いた。
「では、一体どなたの?」
「確かめるのはこれからだ。本多大和守様の御家中ではあるだろう」
色々な思いが駆け巡っているのだろう。るいは口を引き結び、じっと真乃を見つめてきた。
「ところで、おみねさんが店に戻るのを見かけたが、随分具合が悪そうだった。医者を呼ばなくて良いということだったが、何か聞いてないか?」
「ですよね。顔色悪かったですよね……あたし達も気になってどこが悪いのか尋ねたり、弦好先生に診てもらったらと言ったんですけど、一晩ゆっくりすればよくなると言い張って……おつねちゃんがおみねさんのご実家に行ってるというから、それじゃあ夜食の用意はあたし達がやりましょうと言ったら、もう用意は済ませてる、で……そうそう、おみねさんが田楽のお味噌を持ってきてくれましたのよ。夜食は茄子とお豆腐で田楽にしましょう。お酒がすすむわね」
るいは表情をくるくる変え、臨場感たっぷりに語った。
「おつねがいない?」
「ええ。おみねさんも自分で言ってたけど、こんな時に具合が悪くなるなんて、ついてないというか、間が悪いというか……」
「おつねはいつおみねさんの実家へ行ったのだ?おみねさんの実家はどこだ?」
「え?今朝って言ってました。おみねさんの実家は、確か砂川の方ですよ」
「昨日おつねに会った時、そんな話は出なかったがな……もうすぐまた籠りだと言っていただけで」
「おつねちゃんはまだはっきりしないけど、たぶん三十日ごとですから、次の『お客』が来るのは二日後ね。なんでも急に行くことになったらしいですよ。親戚の法事を忘れてたから、おみねさん、自分の代わりにおつねちゃんに行ってもらったって。無理しておみねさんが行ってたら大変なことになってたから、おつねちゃんを行かせてよかったのよねぇ」
最後はかよに同意を求めたるいだった。
「……まさかな……まさか……」
真乃は腹の底から浮かんできた不安を打ち消そうとした。なにかと悪い方に考えるのが悪い癖だと、自分に言い聞かせた。
いつもの髪型と着流し姿になったところにるいが呼びにきた。夜食には少し早いが、真乃が気にしないならば、焼きたてを一緒に台所の上がり框で食べようというのである。
元来きさくな真乃である。気の張らない相手となら、上がり框でも土間でも庭でも断らない。
真乃が上がり框に座ると、かよが焼きたての豆腐にみねが合わせたという味噌をたっぷり付けて小皿に乗せて出してきた。
「まずは青井様から、どうぞ」
「ありがとう」
そう言って口許まで豆腐を持ってきた時、真乃の嗅覚が異常を感じ取った。
口には入れず、味噌の匂いを嗅ぐ。
微かだが、味噌や山椒とは異なる刺激臭がある。
ほんの僅か、舐めてみた。微かにピリリときた。
――間違いない。
真乃に続いて食べようと待ち構えていたるいが、真乃の様子にきょとんとしていた。
真乃は厳しい目でるいとかよを見た。
「この味噌を口に入れてはならんぞ。おかよさん、急いで弦好先生を呼んできてくれ。もうすぐ万蔵が来るな。おみねさんは万蔵に呼びに行かせよう」
万蔵に店から引っ張りだされたみねは、真乃、るい、かよ、弦好を前に倒れ込むように土下座し、泣きながら叫んだ。
「すみません!すみません!おるいさんにもおかよさんにもこれまでなにかとお世話になったのに、こ、こんなことしでかして……でもまさかトリカブトとは知らなかったんです!本当です!少し具合が悪くなる程度だって書いてあったから……」
みねは号泣し、言葉は続かなかった。
弦好も真乃と同じ結論だった。
味噌の中には猛毒のトリカブトが入っている。
弦好と真乃が話すのを聞いて、るいもかよも言葉が無かった。号泣するみねを前にしても、二人はまだ信じられないという顔つきをしている。
わぁわぁ声をあげて泣くみねの肩に真乃はそっと手を置いた。土下座したまま、みねがびくりと肩を動かした。
「おみねさん、おつねはどうしたのだ?本当におみねさんの実家なのか?」
真乃の声は穏やかだった。みねの方はがたがた震えている。
「この期に及んで隠しだてはやめなさい。すべてを打ち明けるのがお前とおつねのためだ」
みねは土下座して俯いたまま、呻くように言った。
「おつねは……おつねは拐かされたんです!」
みねの告白に真乃だけが驚かなかった。
「と、十くらいの子が文を持ってきて、その中におつねの着物の切れ端と粉の入った包みが……」
「文には、娘を返して欲しくば、同封の粉を味噌に混ぜて大貫屋の寮へ持って行けい、といったことが書いてあったのだな?二、三日具合が悪くなる程度の薬だ、と……」
みねは顔を伏せたまま頷いた。
「一体どうして、おつねちゃんを……あ、あたしのせいなの?そんな……そんな……そうなら謝らないといけないのはあたしの方じゃない!」
るいが思わず出した甲高い声に、真乃がしっと口に人差し指をあてた。
「我々が相手にしているのは相当なワルだ。稀にみる冷酷な悪党だ。こちらも策を練るんだ」
「策って、どんな?おつねちゃんを探さないと!こうしていられないわ!そんな冷酷な連中に囚われているなら、どんな目に遭ってるか……」
勢いよく立ち上がったるいを真乃は手で制した。
「策とは、おつねを早く取り戻すための策だ。連中の手先がきっと近くで成り行きを窺っている」
真乃は土間にいる六人を見回した。
「それを利用するんだ」
それから間もなく、万蔵が慌ただしく大貫屋の寮を出た。
その直後には弦好が沈痛な面持ちで出てきて楠田がいる寮の手前の店を覗き、なにやら短く声をかけた。楠田は弦好と入れ替わるように寮へ入っていった。
それから半刻程たった頃、今度は大貫屋忠兵衛が手代二人を連れ、やはり沈痛な面持ちでやってきた。
忙しい夕暮れ時にも関わらず、長屋の住人が何事かと大貫屋の寮を覗き見る。
だが勝手口も障子も全て閉められていて、濡れ縁にも人影はない。
そうこうしているうちに、中年の僧侶が妙に艶かしい若い坊主を引き連れ、やってきた。
やがて大貫屋の寮から読経が聞こえてきた。耳の良い人は読経に混じって「あ痛っ!」という声が聞こえたかもしれない。
惣兵衛長屋の住人たちは何があったのか、誰が亡くなったのかと小声で囁きあった。
そんな路地にたむろする住人の向こう、路地の入り口に、この界隈には見慣れぬ男が立っていた。町に溢れている藍色の縞の着物を尻端折りにした男は、静かに路地に入り込むと、長屋の住人の一人に声をかけた。
「何がありやしたんで?」
声をかけられた女は振り向きもせず、小声で答えた。
「奥の大貫屋さんの寮で誰かがお亡くなりになったみたいなんですよ。でも一体誰だろうねぇ?今日の昼間は元気な声がしてたんだからねぇ」
「するってぇと、急な病ですかい」
「そうなんだろうねぇ」
「流行り病でなきゃいいんですがね」
「ちょっと、怖いこと言わないでおくれよ!」
女はそこでやっと男に振り向いた。
「おや、見かけない顔だね?」
男は女の言葉に肩をすくめた。
「たまたま前を通りかかったもんでね」
男はすぐに惣兵衛長屋の入り口へ戻り、周囲を見回した。それから軽い足取りで大通りに出ると北へ歩き始めた。
その男の後ろ、五間程離れて後をつけ始めた男がいた。万蔵である。
御天道様は西に沈んだが、まだ明るさが残る町中は開いている店が多く、追跡は楽だった。
男をつけている間に西の空が茜色から濃紺、漆黒へと変わっていった。
途中で万蔵はちらと空を見た。満月に近い月が昇っているのを見て、安心したように頷いた。これなら灯のない場所に入りこまれても追跡できると思ったのだろう。
男二人は無言で中山道を北へと歩き続けた。
先を歩く男は、時々屋台に目を遣りながらも何処へも寄り道せず、淡々と歩いていく。
突然、前を行く男が左に曲がった。
万蔵は慌ててその角まで行き、そこから先を覗き見た。男の姿が消えていた。
「しまった!」
思わず大きな声が出て、万蔵は自分で自分の口を押さえた。
道の両側は武家屋敷だった。御先手組の大縄地だ。
うろうろしていると見咎められかねないが、万蔵は両側に気を配りながら奥まで進んだ。
例の男の姿が何処にも見えない。呑気に歩いているようで、つけられているのに気づいていたのだ。
「真さん、すまねえ!けど、真さんも後をつけてたはずだよな。真さんは巻かれてねぇよな……おいらとは違うからさ……」
ぶつぶつ独り言を言いながら、万蔵は惣兵衛長屋から後をつけてきた男と、自分の後ろからつけていたはずの「真さん」を探し続けた。




