第二部 (二)
それから二日後の昼下がり、蛎殻河岸近くにある本多大和守上屋敷の潜り戸を叩く町人の二人連れがあった。
中から響いた誰何の声に
「総州屋の善作でございます」
小柄な方が答えた。
「おう、善作爺さんか。待ってたぜ。おもしれぇのは入ったかい?」
そう言いながら潜り戸を開けた門番は、善作爺さんの頭の後ろに積み上がった貸本が見えないのに首を傾げた。もう一人の人物に気づいたのはその後だった。
貸本は善作爺さんの背中ではなく、もう一人の頬被りしている人物の背にあった。
その人物は門番と同じくらい背が高かったが、門番の視線に腰も低く頭を下げた。
「誰だ、そいつは?」
「真吉といいます。あたしの甥っこです。女房の妹の子で。二日前に腰を痛めましたので、昨日からこいつに手伝ってもらってるんです」
「腰をやっちまったのかい。それだけの貸本を背負って毎日歩き回ってるんだから、無理ねぇな。年だしな。養生しなよ」
気の良い門番である。
「ありがとう存じます。枕本の新しいのが入りましたから、後でお見せしますね」
「お、絵師は誰だ?」
「俊成でございます」
「俊成かぁ。ま、贅沢は言えねえな。待ってるぜ」
潜り戸を入って敷地の奥へ向かう善作爺さんと甥の後ろ姿に門番が感心して言った。
「顔だけじゃなく、体格も良い甥っ子じゃねぇか。これからずっと荷物持ちしてもらいな。稼ぎが増えるぜ、きっと」
二人は門番へ半身に振り向き、会釈を返した。
「こんなにあっさり入れるとはな。番をしてねぇじゃねえか」
重たい貸本の山を背負っても真乃の歩きはしっかりしている。歩きながら小声で呟いた。
この日は町人髷に結った頭に頬被りをし、脚には浅黄の股引と黒の脚絆を付け、紺縞の単を尻端折りにしていた。るいに借りた眉墨でいつもより濃いめの眉にしているから、一段と男に見える。
「更には誰も見張りについて来ない」
念のため、さりげなく振り返ってみたが、後ろをついてくる者はいなかった。
そもそも敷地内にあまり人がいないようである。
中へ入れなかった場合の策も考えていた真乃だったが、あまりに簡単に入れて拍子抜けしていた。
「いつもこんな感じなのか?」
「はい、だいたいこんな感じですよ。この前と変わった風は特にありませんね」
悪事を働いているにしては無用心過ぎる。だが見せかけかもしれない。
真乃は初めて見る大名屋敷の様子に好奇心でキョロキョロしている風を装いながら、冷静に敷地内の様子を頭に入れていった。
大和守上屋敷出入りの草子問屋兼貸本屋、総州屋の寄子で外廻りをしている善作爺さんのことは広瀬から教えてもらった。
五年前から十日に一度、大和守上屋敷に出入りしているという。
会って尋ねてみたら、あっさり内藤家の家臣に真壁という侍がいたと認めた。案ずるより産むが易しとはこのことか。
しかし一月ほど前からいなくなっているとは知らなかった。
「お見かけしたことが何度かあったくらいで、ご利用いただいたことは、一、二度あったかどうかでございますよ。あたしのお客様はもっぱら女子衆でして。はじめは門を入ってすぐの所で店開きしてたんですが、女子衆が多いということで、今は内藤様の勝手口で店開きしとります。男衆向けには前とおんなじで門脇の縁台ですけども」
それを聞いた途端、真乃は善作爺さんと一緒に上屋敷へ入ろうと決めた。真壁勝之助のことだけでなく、藩邸内がどんな様子か自分の目で確かめたいという気持ちもあった。
「勝手口で店開きということは、内藤家の御女中が始終見張りをしているな?」
「お吉さんという御女中が仕切ってくださってます」
「それは好都合だ」
真乃は女中の吉から内情を知ろうと決めた。るいにご息女を「誑かす」などと心外なことを言われたからではない。家臣のことだけに、十五歳の娘よりも女中の方がよく知っていると考えてのことだ。善作爺さんは一刻ほど店開きしているというから、怪しまれずに色々聞き出せそうだ。
善は急げと真乃は即座に善作に話をもちかけた。
善作爺さんは重たい貸本を背負わなくていい上に、駄賃までくれるというのだから一石二鳥と、真乃の提案にすぐに応じた。
小藩といえども譜代の本多家が拝領している敷地は三千坪近くある。町地ならば町一つ優に入る大きさだ。
この日の目的地、定府家老、内藤家の拝領屋敷は、敷地のほぼ真ん中に建つ藩主とその家族が暮らす御殿の脇に位置する、間口十間ほどの庭と冠木門付き平屋だった。
家老と言っても一万石の小藩だから、内藤家の録高は、青井家と同じ二百石である。
しかしながら、三崎藩では通常より高い割合の六割を年貢として納めさせている一方で半知借上が行われているため、実際の収入は六十石ほどでしかない。
善作爺さんによると、内藤家の奉公人は男が用人、中小姓、中間に下男一人ずつに、女中一人、下女一人いるはずなのだが、爺さんがよく顔を合わせるのは女中の吉、下女と下男だけとのことだった。
――中小姓が一人ならば、『能勢豊』は内藤家の用人なのだろうか?
その真乃が考えた可能性は、これまた善作爺さんにあっさりと今度は否定された。
内藤家の用人はこれまでに数度会っただけだが、かなり年配の侍だというのだ。そして、「とよ」という名のつく長身の侍に善作爺さんは上屋敷で見覚えがないという。
それにしても、六十石でそれだけの数の奉公人は多すぎる。所帯は火の車ではないかと真乃は思う。
しかも家老という立場は、見栄をはらなければいけないこともあるだろう。状況だけならば悪事を企んだり、良からぬことに加担しても不思議はない。
善作爺さんは慣れた足取りで内藤家の裏へと回った。
「総州屋の善作でございます」
裏門の外から声をかけると、「待ってましたよ。すぐに開けますから」と小さく声がした。
裏門がまだ開かないうちに、目敏い女達が近くの長屋から次々と現れてこちらへやって来る。
真っ先に駆けつけた十三歳くらいの娘は二間ほど近くまで来たところで急に立ち止まると、呆然と真乃の顔を見つめた。
真乃は会釈した後で軽く微笑んだ。
娘の頬がみるみる赤くなり、さっと下を向いた。
「おみき様、今日は前々からご所望の本をやっとお貸しできますよ」
善作爺さんは馴染みの客にいつものように声をかけたのだろうが、客はいつもと違った。返事はなく、俯いたままだった。
その間に善作爺さんと真乃、もとい真吉は、老若の女達、二十人程にすっかり囲まれていた。
武家の女達とあって騒ぎ立てる者はいなかったが、誰もが明らかに『真吉』を気にしている。妙な熱気があった。
「あっしの甥っ子でございます」
善作爺さんとしたことが異様な雰囲気にのまれたのか、暫く無言でいたところから、やっと連れを紹介した。
その声に被るように内藤屋敷の裏門が開く音がした。真乃が裏門に目を向けると四十くらいの女中が現れた。
真乃はお吉さんだなと、女に一礼をした。
「あら、大変な熱気だこと。今日は一体どうしたんです?」
言い終えてから、女は『真吉』に気づいたようで、目を見開いた状態から動かなくなった。
「お吉さん」
善作爺さんの声に我に返った吉だったが、直後に別の方向から威圧的な男の声がした。
「内藤様の邸内に入れるのは善作だけだ。真吉とやら、お前はすぐに門の外へ出ろ。そこで善作を待っておれ」
声がした方に目を遣ると、女達の壁の向こうに四十くらいの侍の渋い顔が見えた。
「この荷物はどうするんでやすか?今の叔父には担げねぇんですよ」
真乃はいかにも困ったという顔で返した。
「ここにいる市蔵がお前の代わりに門まで担ぐから、安心しろ。そこに荷をおろして、こっちへ来い」
侍の斜め後ろには善作爺さんより少し若いくらいのがっちりした体格の中間が立っていた。
真乃は「へい」とおとなしく荷をおろした。
――ま、そうはなんでもうまく事は運ばないか。
「原田様、今さらそのようなことを……」
善作爺さんと『真吉』を取り囲んでいた女の一人が言った。
「善作さんの甥御さんですし、人相からも悪い人ではございませぬよ」
「原田様も善作さんが来られるのをいつも楽しみにしておられるではありませんか。俊成さんをご贔屓になさっているとか」
原田の嗜好を暴露したのは裏門に立つ吉だった。
「お疑いでしたら、原田様も中へお入りになり、お見張りになるとよろしゅうございますわ」
吉の提案に女達の大半が頷いたようだった。
原田という侍の渋い顔が一段と渋くなった。
「敷地内でこのような騒ぎを起こす輩を見過ごすことはできぬ」
原田の言葉に女達は全員ムッとしたように見えた。
予想していた展開の一つとはいえ、真乃も女の「端くれ」としてムッとした。
勤番侍も外出に色々制限はあるが、それでも女達より気軽に外出して息抜きしやすい立場にある。
月に数度の貸本屋の訪れに少々騒いだところで一体何の問題があるというのか。
しかも実際のところ、いつもより一気に人が集まり、いつもと違う熱気があるかもしれないが、いたって静かである。
この程度を騒ぎと呼ぶなら、大声を出しただけで戦だ。
やはり何かあるからだろうかと真乃は考えた。
「真吉、すまねぇな」
そう言った善作爺さんの顔は心配そうだった。そうして、さりげなく指を二本立てた。
真乃は僅かに頷いた。
「一刻近くかかるよな?外で一服してるよ」
真乃は善作爺さんの肩を安心させるように軽く叩き、原田の方へ歩き出した。
女達は黙って道を開けたが、名残惜しそうな目で真乃、もとい、真吉を見つめている。
近づいてみれば、原田は真乃より少し背が低かった。
「お前のような奴は油断ならない。わかっておるのではないか」
原田の決めつけに真乃は呆れた顔を返した。
「お言葉を返して申し訳ありやせんが、そう簡単に決めつけられるってのが、あっしにはわかりやせんね」
真乃は原田へ一礼して門へと歩き出した。原田が慌てて後を追ってくる。
「こら、待たぬか」
原田の声に真乃は歩みを止めて振り向いた。
「すぐに門から外へ出ろと仰ったではありやせんか」
「すぐに」を強めに言った真乃に原田の顔色が赤くなった。
真乃の持論では腹を立てた侍ほど処しやすい。我を忘れるほどの立腹で刀を抜けば、腕に自信のある真乃にしたら、こっちのもの。そこまでの立腹でない場合、大抵はそれ以上墓穴を掘りたくないと思い、喧嘩両成敗も恐れて、それ以上の関わりを断とうとするのだ。
原田も関わりを断つ方を取った。
「確かにそう申した。二度と当屋敷へ入るでないぞ。さぁ、さっさと門へ行け。儂はここで見ておるからな」
待てと言った直後に今度はさっさと行けときた。日頃ならば一言言い返したくなる真乃だったが、今は思惑がある。
原田に再度黙礼をして、門へ大股に歩いて行った。
あと少しで門に着くという時、背中に張りついている原田以外の鋭い視線を感じた。そちらをさりげなく見ると、門に続く長屋の前で三人の中間が立ち話をしていた。
視界に入った時にはこちらを見ていなかったが、真乃は三人のうちの誰かが自分を見ていたに違いないと思った。
最初は無用心に見えた大和守上屋敷だったが、目端のきく奉公人がそれなりにいるようだ。




