序
人権という考えがなく、男尊女卑の身分社会であった日本の江戸時代が舞台。育ちも生き方も違う女二人が、守る者と守られる者として出会い、降りかかる火の粉を払いつつ、巻き込まれた企みの謎を解いていく中で、身分を超えた友情を育んでいくお話です。(江戸時代は対処が大変だったであろう、女の宿命にも当然のこととして触れています)
日本刀による斬り合いがあること、お妾さんが第二の主人公であること、陰間/遊女がチラリと出てくるので、R15にしました。
屋根船の右舷から星空を見上げていた若者が、ふっと振り向いて笑顔を見せた。男が自分を見ているのを確かめたようだった。
ゆったりとした水音と船の揺れが眠りを誘う。
両国の花火はとうに終わり、大川の水面に今も揺られている屋根舟はこの舟だけになっている。
「そろそろ帰るか」
「御意のままに」
「その言い方は止めろと言っているだろう」
「わたくしは旦那様に仕える身ですから」
「お前は俺の奉公人ではない。……伴侶だと思っている」
奉公人を雇える身ではないと、男は内心自嘲しながら言った。
若者は男の心を揺さぶるほどの艶やかな笑顔を見せた。
背丈は五尺七寸(約170cm)近くにもなり、とうに元服していて不思議のない年齢だが、若衆髷がよく似合っている。それどころか、島田すら似合うような、性を越えた美を見せ続けている。この日は敢えて藍鼠の単に灰色の袴と地味な色を着せたのに、その渋みがまたいっそう肌を輝かせていた。
綺麗どころを見慣れているはずの今宵の船頭も暫く見惚れていたくらいだ。
若衆髷に後差しにした桜の平打ち簪のなんと似合っていることか。
姉と慕う女への贈り物にしたいと若者が小間物の屋台で手にした簪を、男はふざけて若者の髪に差したのに、似合い過ぎていて笑えなかった。
若者はその時も今のような笑顔を見せ、男は人目を忘れて抱き寄せそうになった。そのような気持ちが起こるとは思っていなかった。
男は思わずその笑顔から目を反らした。頭の中に昨日の会話が甦る。
「猶予はならぬ」
なんと身勝手な。そう思いながら、男はその命令に逆らいはしない。
男は膳の上の酒に手を伸ばした。同時にさりげなく左手で腰の脇差に触れる。
夜も更けてきたというのに、川風は生暖かった。
同じ頃、とある町家の垣根の影でも腰の差料に触れる男がいた。ほろ酔い加減の女の声が近づいてくる。
――やっとお帰りか。結構なご身分だな。
男は昼間のうちに確認した女の姿を思い浮かべた。いそいそと囲われている旦那と両国の花火見物に出かける様子に、初めて見た相手なのに男はむかむかと腹が立ったものだ。
――この仕事、引き受けて良かったぜ。
その時心底からそう思った。
こっそり相手を下見した後には飯屋へ行き、腹拵えをしてから再びここへ戻ってきた。
それからもう一刻(約2時間)近く経っている。
獲物がこの屋に戻ってきたところで仕留めるつもりだった。
それにしても蚊が集まってきて煩い。ここに潜み始めてからというもの、顔の前をうろつくのは掴み殺し、腕や足を刺してきたヤツは力を入れて口が抜けないようにしてたっぶり血を吸わせた上でピシャリと叩き潰すということを延々繰り返している。
さすがに我慢も限界に近づいてきた頃に聞こえてきた女の声だった。
――前金三両、後金三両。
まじないのように今夜の仕事の報酬を唱える。
女が一人でないのは予想通りだったが、一緒に戻ってきた相手は「旦那」ではなかった。路地に見えた連れの身のこなしは明らかに若い。昼間旦那の後ろに付き従っていた手代のようだ。
「ちょっとだけ飲み直しましょうよぉ。旦那様なら大丈夫だからぁ」
女が甘えた声を出している。
「ですから、また今度に……」
若い男の声は戸惑っている。
「今度っていつよ?」
声も姿も次第に大きくなってくる。
手代の持つ提灯の横揺れが大きい。
女はかなり酔っていて足元が覚束ず、手代に寄り掛かって歩いているのだ。
男はそっと鯉口を切った。
「あんたが旦那様のお供をするなんて、めったにないじゃないの」
「めったにということは……」
「さぁ、着いたわよ」
女が手代に凭れかかったまま枝折戸を開けた。その直後、手代が女の手を止めて叫んだ。
「そこにいるのは誰です!」
手代が言い終えないうちに男は抜刀から女に斬りつけた。
だが斬ったのは提灯だった。
手代は素早く女を庇いながら枝折戸の中へ移動していた。
抜刀で女を、二刀めで手代を斬るつもりだった男は手代の動きに面食らい、二刀めを出すのに一瞬間が空いた。
「ど、泥棒!誰か!誰か来てぇ!」
女が叫んだ。
男はしくじったと思ったが、ともかく先にこいつを……と手代に斬りつけた。
手代は微妙に男の刃を狂わせ、またしても仕留められなかった。しかも手代は肩を斬られながらも懐に入り、男の手首を掴んできた。
「お前、命が惜しくねぇのか!」
意外な手代の動きと力の強さに思わず男も叫んでいた。
「泥棒だって?」
「奥の大貫屋さんの寮だよ」
寮の目の前にある長屋の住人が起き出したらしい。複数の声と物音がした。
男は慌てて手代の顔に肘鉄、腹の辺りに蹴りを立て続けにくらわせ、手首を掴む手が緩んだところで更に激しく蹴りを入れた。どこに蹴りを入れたかもわからなかった。
手代は動かなくなった。
男は後ろも見ずに垣根を突き破り、長屋とは反対側へ逃げた。そこに聳え立つ表店の塀に沿って狭い路地を走った。
「弥吉!弥吉ぃ!誰かお医者様を呼んでぇ!弥吉が大怪我を!」
後ろで女の声が響いていた。
頬被りしているから、提灯の灯り程度では男の顔はよく解らなかったはずだ。
男は教えられた逃げ道をひたすら音を忍ばせて走った。
このしくじりでは前金も返さないといけないのだろうか、このまま江戸をずらかろうと男が思ったのは、隠れ家に辿り着いた時だった。
ともかくここに朝までいようと引戸を開けた。中に人が潜んでいることに男は気づかなかった。
無理もない。相手は気配を消すのを得意としていた。
男が日の光を見ることは、もはやない。




