第5話 東西冷戦 -日本南北戦争- 第2節
1月1日、国連軍と自衛隊は横須賀に奇襲上陸した。国連軍は戦闘機からの日本海軍駆逐艦を上空から爆撃した。国連軍戦闘機17機による攻撃で停泊中のソ連太平洋艦隊までも攻撃した。
「総理、緊急です。横須賀奇襲攻撃の際、ソ連の駆逐艦まで攻撃してしまったとの報告を受けました。どうなさいますか?」
「現在我が国は一部の外交権はGHQが持っている。ソ連の参戦を食い止めることは不可能だが交渉しなければならないな・・・」
その後、吉川総理はGHQの外交部と共にソ連大使と面会した。ソ連大使は抗議をした。
「日本政府と国際連合による我が国の太平洋艦隊に対する攻撃は決して許されるものではない。本国の返答次第では貴国と戦争を行う覚悟がある」
第二次世界大戦終戦から10年もしないうちに日本とソ連の関係は新年早々悪化してしまった。吉川総理は何としてでもソ連との戦争を回避するため吉川は何度も交渉を行った。一方、横須賀のソ連太平洋艦隊は大湊に移動していた。また、国連軍による横須賀上陸は無事成功した。
1月3日、ソ連政府から通達があった。
「我が国は日本国との戦争を回避するため和解要請を応じる。今後、警戒心を持って行動してもらいたい。また、我が国は日本両国の内政干渉を行わないことを約束する」
吉川はソ連との武力衝突を回避することに成功した。吉川は会談終了後安堵に胸を撫で下ろした。
「ふぅ、何とかなったな・・・」
一方、その頃横須賀基地では国連軍による作戦が続いていた。
「ハーパー大隊長、無事上陸できましたね!」
「あぁ、しかし油断するな。ソ連と中国の参戦もあり得る。気を付けろ」
「了解。浜松方面と東京方面へ向かう」
その後、国連軍は自衛隊と共に東京方面と浜松方面への攻略を開始した。国連軍の計画書には3月下旬に攻略を終了する予定である。ここからはダイジェスト方式で日程を進めていく。
1952年
1月1日 国連軍・自衛隊 横須賀攻撃開始
1月3日 横須賀基地占領
1月6日 横須賀市制圧
1月10日 国連軍 日本軍と横浜市内で交戦開始
1月13日 国連軍 厚木基地制圧 日本軍投降
1月17日 中国軍 新潟に到着
1月22日 日本軍 中国地方完全掌握
1月23日 米英軍、下関から上陸開始
1月25日 国連軍別動隊 大阪上陸
1月28日 日本民主共和国 核兵器使用をソ連に再要請
2月1日 ソ連 日本民主共和国の核兵器使用再要請を拒否
2月6日 国連軍 横浜制圧
2月9日 日本民主共和国政府機能を仙台へ移転
日本軍部隊、仙台に撤退
2月13日 日本海軍駆逐艦「鳳凰」 海上自衛隊護衛艦2隻を日本海で撃沈
2月18日 国連軍 東京千葉同時攻略開始
2月20日 中国軍 東京方面へ移動開始
2月23日 国連軍 大阪奪還
2月26日 日本国政府 日本民主共和国に和平要請
3月2日 日本民主共和国 日本国政府の和平要請を拒否
3月8日 国連軍 東京占領
3月10日 国連軍 静岡・山梨・長野各市町村制圧
3月14日 航空自衛隊 仙台を空爆
3月15日 ソ連太平洋艦隊 大湊出港
3月18日 陸上自衛隊 広島奪還
3月26日 国連軍 山口・広島・島根解放
日本南北戦争開戦から9か月、新年が幕を開けて以降日本国側の反転攻勢が続いている。吉川総理はその間にも何度も徳原委員長と国連軍警戒の元会談をし続けている。
吉川総理は徳原委員長に何度も和平要請を行うも拒否を受け続けられてきた。また、戦闘が長引いているため年内に終わるかどうかは不明だが戦う他に選択肢はなかった。以下からは今後 の動きを描いていく。
3月31日 中国政府 国連安全保障理事会にて国連軍の行動自制を呼び掛け
4月3日 韓国軍 国連軍活動終了を表明
4月7日 台湾軍 国連軍活動終了を表明
4月8日 日本軍 各地で投降開始
4月14日 海上自衛隊 仙台攻撃
4月19日 米軍特殊部隊 仙台投入
4月22日 ソ連空軍 航空自衛隊機撃墜
4月27日 日本国政府 29日から一週間の停戦要請
4月28日 日本民主共和国 日本国政府の停戦要請を受諾
5月5日 ノルウェー軍 5月11日から国連軍参加表明
5月7日 自衛隊 中国地方解放
5月10日 国連軍 関東地方制圧
5月14日 中国海軍駆逐艦「王」 福岡砲撃
5月20日 国連軍 仙台近郊制圧
5月21日 中国軍 国連軍に砲撃
5月27日 中国軍 福島解放
6月1日 ノルウェー軍 東京に到着
6月6日 両国死者3万人到達
6月9日 日本国政府 米国政府に核兵器使用要請
6月10日 米国政府 日本国政府の要求に断固拒否
6月14日 米軍特殊部隊 徳原委員長を拿捕するも偽物と判明
米軍 仙台制圧
6月17日 日本民主共和国 首都機能を札幌に移転
6月23日 中国軍 関東地方再解放
6月25日 ソ連軍 太平洋艦隊を日本海に展開
開戦から1年が経過した。ここまでの両国の被害規模は日本国側が2万人、日本民主共和国側が9500人となっている。民間人を含めると6万5000人に膨れ上がった。
「開戦から1年となった今日この日、我が国は何とか耐えている。どうせなら引き分けで決着をつけたいものだ」
吉川総理は一日一日を大切に過ごしていくなか、停戦も手に届くところまで来たと実感した。しかし、中国軍が介入してきたことにより一気に戦況は変わっていく。