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試合は回を進める度に、大多数の予想を裏切る形となって現れる。
優勝候補大本命のカリオンの勝利は順当なものだったが、優勝候補二番手の者が二回戦で三撃のもとに敗北した。静まり返る観戦席の反応を見るに、今日もどこかで非合法の賭けでも行われていたのではないか。
しかもそれが御前試合参加者の中でも最弱と目されていた『月』隊員の下級士官の手によるものだったので、その試合中は審判のサジナイル以外誰も一言も発さないという状況。
静かな会場での試合終了後、涼しい顔をしたディルはいつもアルギンに向かって笑顔で礼をする。
その回数が四回を越える時には、もう周囲は夕暮れに包まれていた。
「………どーなってんのよあの似非神父。虫も殺さない顔してえげつないじゃない」
ネリッタが最後の休憩時間の時に運ばれてきた麦酒片手に呻く。
アルギンの頭上に置かれたマーガレットの花冠は既に萎れてしまっていた。そんなアルギンはもう緊張で顔が真っ青だ。
次が漸く決勝戦。僅か十分の休憩を挟めば、そこから始まる試合は『月』のディルと『鳥』のカリオンの対決。……言葉を信じるなら、カリオンはアルギンを娶るつもりはないそうなので、この時点でディルとの結婚は決まったようなものなのだが。
それでも決勝戦は行われると聞けば、アルギンの心境は最悪だった。相手は独身騎士の中でも最強を誇るカリオンなのだ。これまで試合の相手をした者の中には骨を数本折られている者もいるとの噂。一番大事な男がそんな相手と対決するのだ。これが余裕ぶっていられようか?
「あっはっはー、話にゃ聞いてましたがすっげぇわディル。これまでよくあたし殺されなかったな、もう弄らんどこ」
「ソルビット、お前さんディルにそんな事してたのかよ」
「そりゃ階級はアタシのが上ですもん! いつまでもアルギン様に手ぇさえ出せなかった男ですよ、そりゃ弄るでしょ!!」
ソルビットはアルギンに対しては悪びれる様子を一切見せない。そんな彼女を無視して、天を仰いだ。
アルギンとしてももう祈るしか出来ない状況だ、しかし何に祈ればいいのか分からない。死んだ両親か、それとも信じてもいない神か。
緊張が行きすぎて吐き気を催して来た頃、会場に二人の姿が現れる。
『月』下級士官、ディル。
『鳥』上級騎士、カリオン。
アルギンの顔が強張る。それは見慣れ、焦がれ、愛した男の姿の筈だ。
なのに今試合に向かうディルの顔は、アルギンの知らない顔だった。穏和な笑顔でも、柔和な微笑でも、言葉に詰まった無表情でもない。
冷たささえ覚える無機質な表情だ。まるで彼自身に触れたら切れてしまいそうになる、冷酷な表情。そんな彼を、ディルを、知らない。
「……生意気。いい顔すんじゃないのよぉ」
「あー、本当あたし駄目。ああいう顔する男って絶対転がされてくれないんですよねぇ、ちょっかい出さないで良かった」
くすくす笑うアルギンの両隣を無視して、アルギンはひたすら一人に視線を送る。
黒が基調の神父服、三つ編みにした背中までの髪。それらは良く知っているはずなのに携えた剣と表情だけは知らないものだ。
アルギンが顔を覆って下を向く。
「ど、どうしたのアンちゃん!?」
「大丈夫ですかアルギン様!」
両隣はアルギンの様子をすぐ伺うが。
「………むり……」
アルギンは小声で零すのみ。
「む、無理? 何がですか? 今のディルがですか? そりゃ無いですよ、ディルが今誰の為にあんなことしてると思って」
「そうよぉアンちゃん。あ、それともディルがカリオンと戦うのが無理? でもコレディルが望んだ事だからぁ。そんだけディルはアンちゃんを想って」
「ちが、う」
その耳は真っ赤だ。
「ディルなんであんな格好いいの? いつものディルだってそりゃちょっと頼りない所も見せてるけど他の芋みたいな連中より何倍も格好いいのに何あれアタシそんなディルの顔マジで知らないよアタシよくあんな顔の造形の男正面から見てたモンだよアレ惚れるなってのが無理な話じゃん本当アタシディルの婚約者なのどういうことなのアタシの婚約者格好良すぎだろいやでもいつものディルだって本当に優しくて格好良くて大好きで最近毎日一緒にいるけど全然飽きないって思ってたらこの期に及んであの顔とかアタシの心臓そろそろ持たないしディルがこの先もアタシ見て笑顔見せてくれるとかってなったらもう駄目だよ一生側にいたいのに心臓どうにかなったらディル置いて死んじゃうかも知れないじゃん性格も大好きってのに外見までアタシ好みってどういう現象なのいつもの優しくてほわわんなディルどこ行ったのアタシの為にあんな顔してるって何なの胸が苦しいのに嬉しいし本気で心配してるのも事実だけど女冥利ってこういう事を言うんだって今なら分かりすぎて辛い御前試合には怨みしかないけどディルのあの顔見られたそれだけでもう不本意ながら感謝しかないディルのご両親ありがとうアタシ何があっても彼と結婚して幸せにします可愛い子供産んで大事に育てますからどうか心配しないでね」
「そろそろ正気に戻って頂戴アンちゃん」
「うわぁ……」
垂れ流される言葉を聞いて、ネリッタの表情は無になりソルビットはドン引いている。
今のディルとアルギンはともすれば共依存であるとも言えるので、それから更に惚れ直すともなった状態は色々と危うかった。幸せそうでなにより、とは言えない。
「んー、アンちゃんが恋を謳歌してるのはアタシとしちゃ嬉しい事だし、相手がアイツってのを差し置いても素晴らしい事だとは思うんだけどぉ。……最近のアンちゃんってちょっと危険よねぇ」
「……へ?」
「忘れた訳じゃないんでしょ、アタシらは騎士ってこと。陛下や王家の命令次第で命を投げ出すのよ」
「ーーー……」
命を投げ出す。
それは分かっていた事だし、実際何度かそういう目に遭った時もある。
騎士としての生き方に疑問を持った事もあるにはあるが、案外順応してしまったので嫌では無かった。上司と、配下と、仲間と、国の為に死んでやるかと威勢の良い言葉を吐いたこともある。
「守るものがあると、強くなる人と弱くなる奴がいるけれど………アンちゃんはどっちなのかしらねぇ?」
アルギンの拳が膝の上で握られた。ネリッタに値踏みされるような視線を投げられて、体が小さく震え出す。
死ぬのを恐れる自分に気付いてしまった。ディルと想いを交わし、愛されて、それで幸せになってしまった。人並みの幸せという毒が、既に全身に回っている。
それに今更気付いても、アルギンはもうどうする事も出来ない。
「始め!!」
サジナイルの決勝戦開始の合図が、夕暮れに響いて溶けた。
一撃目、二撃目、剣戟の音が響き渡る。
野次を飛ばしている者なんていなかった。二人の姿は、まるで規格外。
その剣で、短剣でなしに、どうしてそんな動きが出来るか並の騎士では分かりはしない。上段から下段の切り返しが互いに鮮やかで、まるで事前の打ち合わせがあったが如き躱し方。カリオンの避け方は流麗な柳を思わせる身のこなしだが、ディルの避け方は纏わり付くような神父服で出来るとは思えない素早い動き。
互いに当たらない剣戟は、何回めかの鍔迫り合いでも膠着する。
動きが既に剣のそれではない。木の棒でも振り回すかのような軽快な動きは、それが刃を潰しただけの本物の剣であることを忘れさせる。
「雌猫、どっちに賭ける」
ネリッタが戯れに呟いた言葉。
「アルギン様の側でよく言えますねネリッタ様」
「……ごめんなさい」
ネリッタの言葉は殺意を以て睨み付けるアルギンの視線に撤回された。無いわ、と追撃で呟くソルビットの言葉で、熊のような大男の肩が窄まる。
アルギンの顔は再び真っ青だ。最初は二人とも小手調べだったようだが、互いの剣がぶつかり合うその音は回数を増す度に重みを増していくようで。
……だから、それは油断ではない。
ディルの頭部を、カリオンの剣が掠めていったのは。
「っ、あ」
その声はアルギンの口から出ていた。
ほんの少し掠っただけの筈。刃だって潰してある筈。
なのに、それはディルの側頭部の皮膚を割った。頬に伝い落ちる赤い血は、少量ではあるが地面に落ちていく。
反撃のディルの一撃は、カリオンの横っ腹に横凪ぎに入る。しかしそれは手甲で防がれてしまった。
「っ、ぐ!」
アルギンが居る場所からでも聞こえる程に鈍い音がする。重い一撃は全てを防ぎきれずにカリオンの体を薙ぎ倒した。しかしカリオンは地を転がり体勢を立て直す。ーーーカリオンは、口元だけで笑っていた。
この程度では試合終了の合図を出すに満たない。ディルの追撃は、カリオンを目掛けて繰り出される。それを剣で受け止めたカリオンが、今度は蹴りでディルの体を吹き飛ばした。
「っーーー!!」
長身が後部に向かってよろめくが、戦闘続行の意思を見せている。攻守が交代された状態で、今度はディルが剣を受け止める側になる。
「………も、だめ、見てらんない」
アルギンが泣き言を漏らすが、視線を逸らそうとするその顔を捕まえたのはソルビットだった。
「しっかり見てください、アルギン様。あれが貴女を求めた男の姿ですよ」
「ソルビット、お前さんっ……」
「勝とうが負けようが、あいつはあんだけ貴女に本気なんですよ。嫌でも見るんです、それが愛されてる側の礼儀です」
こんな姿を見るために、求婚を受けた訳ではない。けれどソルビットの言葉の意味も分かる。傷を追っても、これだけの戦闘をしてでも、それでもいいと思ってくれているなら。
「目を背けるな、アルギン。これは隊長命令だ」
今まで戦場以外で聞かなかったネリッタの冷たい声がアルギンの耳に届いた。
隊長からもそう言われては、涙が浮かんでも目を逸らす訳には行かない。
好きな男が傷付くのは見たくない。でも、それを見守らない妻がいていいものか。
「………見る」
男としての矜持が掛かっているのは分かる。もうアルギンには、その言葉を返すしか出来ない。
だから見てしまう。
カリオンの一撃を受け損ねて、左腕に直撃を喰らってしまうディルを。
「っ!!!」
衝撃に地面に転がるディル。痛みを堪える声が聞こえた。
アルギンの視界が真っ暗になりかける、と同時に白く霞む。
それ以上は駄目だよ、ディル。助けを求めるようにネリッタを見るが、その視線は逸らされてしまった。
会場にいるダーリャとサジナイルを見た。しかし彼等はアルギンになど目もくれない。
なんで。どうして。もういいでしょ、止めてよ。これ以上は無理だよ。
アルギンの声にならない訴えは、ディル自身が立ち上がることで拒絶される。
直撃を受けた片腕が、ぶら下がっている。無事な利き腕でディルが再び剣を構えた。もう誰も、ディルを嘲笑ったりしていない。
「………降参、した方が良いんじゃないかな」
カリオンの声が聞こえた。
しかし息の荒いディルの返答は。
「……お断り、します」
「片腕で続行するつもりかい?」
「……お言葉を、返しますが。……片腕、くらいで……諦められるものなのですか。……妻にと、望んだ想い人が………誰かのものになる姿を、見ていられますか」
アルギンの瞳からは涙が溢れている。ディルの声が届いているから。
力の差は、もしかしたら僅かだったかも知れない。けれどその均衡は崩れ去った。勝ち目は薄いのに、それでも立ち向かう彼に何を言える。
「っ……ディル……」
もういいよ。
違う。
見てられない。
これも違う。
無理しないで。
……そんなことをアルギンが同じ立場で言われたらブチキレてしまう。
だったら、言うべきことはひとつしか残ってない。
「ディルっ、勝って!!!」
愛しい人の勝利を願うことだけだ。
次の瞬間、ディルが地を蹴る。一気に詰める距離、しかしそれも読まれていたようで片手の剣は防がれる。
祈る相手は神ではない。心から愛した男に祈る。
どうか。
どうか、勝って、と。
不信心者が祈るには、余りにも不利な状況だった。
膝を先に付いたのは、ディルの方。
それに到るまでのディルは、片腕は折れて片足も引き摺っている。頭からは血を流し、腹部にも刃の直撃を二発受けた。並みの騎士ならばとうに耐えきれず降参していただろう。
それでも尚歯を食い縛るディルの姿に、ダーリャが手を挙げる。
「そこまーーー」
「お待ちください!!!」
終了の合図を遮ったのもディルだった。絶叫に似た声が谺する。
「まだ、私は………負けていません」
「……もう無理だ、落ち着けディル」
煙草を吸っていたサジナイルが、そんなディルに言葉を投げる。
「片腕、片足。そんな状況で逆転させてくれる程カリオンは甘くねぇぞ」
「………諦めろ、と、仰るのですか……?」
立ち上がろうとする体が震えている。もう立つことも難しいのに、それでも尚。
「……血反吐を、吐いてでも。泥水を、啜ってでも。愛する人と、一緒に居たいと……、その、願いを、自ら、捨てろと」
ディルの足が、立った。
「……諦められる、ものか。……アルギンは、私の、妻だ。他の全てを奪われても、彼女は、渡さない……」
立った姿は満身創痍で、誰の目から見ても勝敗は明らか。アルギンは泣きじゃくりすぎて、嗚咽しか出ていない。
殆どの観客は悲痛な顔をしていた。そんな状態で、誰も彼が勝てるとは思わない。実力も運も足りていないというのに、それでも、まだ剣を向ける意思を捨てていない。
「………も……う」
一人だけ、声を発した。
「もう止めてえぇっ!! 止めてよぉっ!!!」
この場で声を発する権利を持っているのは、アルギンだけだ。
「止めてよディルっ!! お願いだからっ、もう止めて!! それ以上傷付かないで!!!」
愛する男を案じての声が、その場に響く。
「サジナイル様、止めてよぉ!! ダーリャ様も、もう無理って分かってるでしょ!? このままじゃっ、」
サジナイルが、不快感を隠さない顔で煙草をその場に投げ捨てた。
「このままじゃ、ディル死んじゃうっ!!!」
アルギンの悲痛な声を聞き届けて、サジナイルの腕が上がる。
「そこまでだ!!」
戦闘終了の合図は、『風』隊長であるサジナイルの声で告げられた。
途端、呆然としたディルがその場に力を失ったように再び膝をつく。持っていた剣も投げ出された。アルギンは堪らずその場から駆け出し、ディルの側に走り寄った。涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、満身創痍の体を抱き締める。
「っば、か、ばかっ……! やだよ、ディル、そんなにボロボロになってまで、アタシ置いて死ぬつもり!?」
「………アル、ギン……」
「担架! テメェらボサっとしてんな、ディルを担架で医務室に運べ!!」
噛み付かんばかりの顔と声で、周囲の者に声を掛ける。しかし、周囲の者の視線は二人には無かった。
「勝者、カリオン!!」
サジナイルの声が、無慈悲にカリオンの優勝を告げる。
沸き立つ会場。
既に二人を、誰も見ていない。とある二人を除いては。
「アルギン様」
担架を担いで、ソルビットがやって来た。
「本っ当、ここまで無茶されるなんて愛されてるわねぇアンちゃん。この男殺し」
その近くを、ネリッタが手ぶらで歩く。
アルギンは担架を受け取ろうと手を伸ばし掛けるが。
「………いかないで」
か細いディルの声がしたのと共に、体を片腕で掻き抱かれる。
「ディル、?」
「すみません、勝てませんでした。ごめんなさい、愛しています。行かないで、お願いです、行かないで」
「ディル、アタシは離れたりなんかしないよ」
「行かないで。私の、そばに、いてください。愛しているんです、愛してる。貴女がいなければ、私は」
顔を首に埋められ、服にディルの血がついた。こんな重傷を負っても縋り付かれる、最愛の夫の背を撫でて。
その間にソルビットが地に担架を広げた。
「行かないよ。行かないから、ディルは治療を受け―――」
「アルギン様」
アルギンの背に、男の声が掛かる。
アルギンはその声に振り向き、ディルの腕には更に力が入る。
―――御前試合優勝者、カリオンだ。
「……形式的なものなので、ご容赦ください」
「……………」
アルギンはカリオンを射殺さんばかりの瞳で見ている。幾ら御前試合とはいえディルをここまで手酷く痛め付けたのはカリオンだ。片腕と、義足でない方の足は暫く使えないだろう。
カリオンは二人の目の前で片膝を付く。本物の騎士がするそれは様になっていた。
「アルギン様、優勝したのは私です。優勝者には、貴女を妻にする権利も付いてくる」
「………………………」
カリオンは分かってる。
分かって言ってる。
アルギンがディル以外と結ばれる気がない事、そして、こうしないと御前試合の結果の落とし所が無い事を。
「この手を、取っていただけますか?」
アルギンは、ディルの背に回していた腕を解いた。
その一瞬だけで、ディルの表情が絶望に揺らめいた。声にならない慟哭が、今口を衝いて出ようとした、その時。
乾いた音が、カリオンとアルギンの間で交わされた。
アルギンが、差し出された手を振り払ったのだ。
「………アタシの愛しい旦那様をここまで傷付けてくれちゃって、ぶん殴りたいけどこれで我慢してやるよ」
「……恐れ入ります」
カリオンの苦笑は、打たれた手を押さえながら浮かんだ。
立ち上がるカリオンを、話が見えないといった顔で見上げるディル。
「優勝の副賞は辞退致します。互いに反りが合わないらしいので」
カリオンの一言に、会場がどっと沸いた。
その言葉に続いたのはダーリャだ。
「となると、権利は準優勝の彼に渡りますな?」
「まだアタシ副賞扱いなの!?」
アルギンの一言で会場が更に沸く。
「さ、ディル。如何しますか」
ダーリャの問いよりもずっと前に、ディルの答えは決まっている。
「………本当は、優勝で、貴女を妻に迎えたかった」
ディルは泣きそうでもあり嬉しそうでもあり、感情入り乱れる表情で呟く。
その続きを、誰もが無言で待っていた。
「私と、結婚して頂けますか………アルギン」
アルギンの答えも、もうとっくに決まっていた。
「死んでも離れないよ。………喜んで」
口付けしたのはアルギンから。
会場は祝福の声で、更に歓声が上がる。
「………婚姻届、……すみません、明日以降になりそうです」
「大丈夫だよ。こんだけ証人がいるんだ、もう誰が文句つけてきたって、アタシ達は夫婦だよ」
抱き合う二人。
しかしそれを引き剥がしにかかったのはソルビットで。
「はいはい離れる。ディル、大人しく担架に乗りな、歩けないでしょ」
ダーリャとネリッタが引き剥がされた後のディルを手際よく担架に乗せる。その隣に付いて、アルギンも医務室に移動し始めた。
移動の間も、二人の手は離れなかった。
「………今更、痛みが出てきました」
「当たり前でしょ!? 多分折れてるよ、もう本当無茶して!」
会場を離れていくアルギンの背中の向こうで、カリオンの優勝を宣言するサジナイル。
終幕の儀式は、滞りなく進む。
喧騒が離れていく。
十日後、病院の個室。
「まー、てな訳で。分かってたと思うけどぉ」
ディルの身柄は医務室で応急処置を受けたあと、即座に王立病院へと運ばれた。複数箇所に至る骨折と腹部への打撃で損傷著しく、下手をすれば死んでいたとの話だ。
三日間生死の境をさ迷って、国にも殆ど居ない回復魔術使いの手さえ借りることになったディルは、一週間後に面会謝絶が解かれた直後にアルギンの怒号を喰らってしおしおになっていた。
今も流動食さえまともに食べられないディルだが、アルギンが持ってきた蜂蜜掛けすりおろし林檎はなんとか食べられる。
ほぼその食事の間だけになってしまった夫婦の時間に割って入ったのはネリッタとダーリャだ。
「ディルは復帰後、騎士として受勲する為の式が待っています。それから適性を見つつ、上級騎士としての素質があるようでしたらそのように。今はまだどうなるかは分かりませんが、行く行くは更なる地位にも付いてもらうかも知れませんな」
すりおろし林檎の入った器と匙を持ちながら、アルギンがその通達に嫌な顔をする。
「……本当、極端すぎ。ディルが強いって分かったら皆して掌返して。ディルはいあーん」
あーん、の指示にディルが口を開ける。まるで鳥の雛への給餌のようだが、言うとアルギンの怒りを買うので言わない。
「カリオンもあれでいて骨が折れてましたからな。御前試合は殺し合いの場では無い筈ですが」
「カリオンもあれから大変よぉ? クソザラフは退任するって言い始めたし、後任はベルベグじゃなくてカリオンだって言うし。コンディ家とコトフォール家でまたぎくしゃくしてるらしいし、国内でも揉め事起こすような御前試合だったわね」
ディルは両腕と義足ではない方の足に包帯をぐるぐる巻きにされて身動きが取れない。感覚はあるので二度と使えない訳ではないだろうが、ほぼ初めて感じるような激痛には耐え難いものを感じていた。
―――アルギンが傍にいるから、耐えていられる。
「本当、誰ですかねーこんな御前試合開催して要らん軋轢残した上にアタシのディルにこんな酷い目遭わせたのって。誰が得したんでしょうねー誰も損しかしてないじゃないですかねぇー?」
「……………………………………………………………」
アルギンの瞳はネリッタを見ていたが、ネリッタは全力で視線を逸らしている。
「………これで、私の想いが伝わったなら安いものです」
ディルにとっては本心だったが。
「自分の命安売りしてどうするの!? 一回死にかけただけじゃ足りないの!!? アタシにどんだけ心配かければ気が済んでくれるの!!!?」
「………すみません」
アルギンの怒声を浴びて即座に謝罪する。
「まー、その手じゃ暫く文字は書けないでしょうから、正式な結婚の手続きは後回しになるわねぇ?」
ネリッタが悪びれもせずそう言うと、アルギンからの冷たい視線が即座に飛ぶ。
けれどディルは分かっていた。もうネリッタには、二人の仲を邪魔する気はないということに。
「骨くっついたら早めに戻って来なさいな。その間アンちゃんの周りの害虫掃除はしといたげるから」
「よろしくお願いします」
ネリッタとダーリャは用件を伝え終えるとそのまま帰っていく。
再び二人きりになったアルギンとディルは、互いに視線を交わしていた。
「………厄介なことになっちゃったね」
「厄介?」
「ディルが騎士になって、更にその上も考えられてて。……これで良かったのかなぁ」
匙で林檎を掬いながら呟いた言葉に、ディルは複雑そうな表情を浮かべた。
「………あまり、そう言われるのは……好きではありません」
「え」
「私の想いが疑われているようで。………貴女と共にいられるのなら、私はその手段を問わない。私はやっと、愛しい貴女を堂々と妻に迎えられるというのに……貴女からそう言われるのは、悲しいです」
重い愛の言葉に、アルギンが言葉を飲み込んだ。
愛しているのはアルギンだって一緒だ。だからこそディルの気持ちが心配だっただけ。
「ご、ごめん。アタシ、悪気があった訳じゃ」
「……………………さい」
「?」
小声のディルの声。
「………証明、してください。貴女が私だけのひとだと、今此処で」
その要求は抽象的で、けれど恨めしげな視線と引き結ばれる唇は、それ以上を語ろうとしない。
ええー、とアルギンの口から声が漏れた。年下の夫の我が儘を初めて聞いたのだ。
その我が儘は可愛くて、けれど、重い。
「……証明って言ったって」
前からだ。この夫の愛が重いのは。
その重さに時々怖くなるけれど、アルギンだってディルを深く愛しているし、世間一般のような理性的な愛しかたをしてるつもりも無い。
「………今は、これで我慢して……?」
林檎の入った食器を置いて、立ち上がって病床に手をついた。
ゆっくり屈んで、ディルの額に口付ける。
額から頬、それから唇へ。
重なった唇は、それだけでは終わらない。舌を絡めて、互いの間に熱い吐息が漂う。
「アルギン、………もっと……」
「駄目」
蕩けた声で先をねだるディルに、アルギンがやや冷たく強い口調で拒否した。
「絶対安静って言われてるでしょ。これ以上アタシに心配かけるの? ディルに何かあったら泣くのアタシなんだよ?」
「そんなっ、……生殺しです」
「……………………………。アタシだって、同じ気持ちだよ……」
顔を赤に染めて、ディルに不満そうに言う表情は『女』だった。発情したような表情を見て、ディルもこれ以上何も言えなくなって口を閉じる。
互いが互いを愛しているのには間違いがない。けれどアルギンはディルの身が一番大事だからこそ、名残惜しく体を離していく。
「こ、これ以上傍にいたら変な気起こしそうだからアタシ戻るね」
「………私としては起こしてくれた方が嬉しいのですが」
「今日の分の仕事終わったら戻ってくるから。……起こして欲しかったら早く退院してよ」
すぐ戻れるようにするね、と再びアルギンの唇が降ってくる。
いってらっしゃい、と呟くディルの声は不満そうで。個室の扉はアルギンを廊下に送って閉まる。
「…………………………」
一人きりになった病室で、ディルは大人しく枕に頭を預けて天井を見上げる。
「ふふっ」
去り際の妻が可愛くて、つい口許が綻んでしまった。いつでも愛らしくて、素直で、優しくて。
愛を囁かれる度に、欲しくなる。
肌に触れる度に、求めてしまう。
看病されるだけの今も、そこまで悪くないなと思い始めた。