7
「あんの隊長マジで信じらんねぇ!!!!!」
酒の入ったジョッキでカウンターを殴り付けるアルギンは、控えめに言って物凄く荒れていた。
両隣でディルとソルビットが苦笑を浮かべている。二人とも良く知るアルギンの飲み姿よりも強烈な醜態を晒しているが、事が事なので仕方無いと割り切っていた。
ソルビットの前には鮮やかな赤色をしたカクテルとつまみのカルパッチョ、ディルの前には紅茶とスープパスタ。アルギンの前にはトマトサンドとクラッカー、それからジョッキ。
「本当にネリッタ君には困ったものだねぇ……。でもアルギン、それは本当にネリッタ君が言い出したことなのかい?」
グラスを拭き上げながら、ダークエルフが笑って聞いた。……ソルビットはその顔から視線を逸らしている。ソルビットにしてみれば、その目が笑ってるようには見えなかったからだ。
エイス・エステル。アルギンの育ての親でありながら『兄』と呼ばせる、ダークエルフの男。そしてーーー後ろ暗い『勅命』を王家から任されている。
アルギンは酔っているからかその目に気づかない。据わった瞳で皿の上のクラッカーを見つめ、それから手に取り口に運ぶ。
「知らなーい。もー隊長なんて知らないもーん。かわいいって言い続けた副隊長をそんな簡単に景品にするような人だとは思わなかったもーん」
『ごめんなさい本っ当ごめんなさい何でもするから許してびええええ!!!』と言った、ネリッタの雄叫びが耳にこびりついている。
………ネリッタの話だと、御前試合は二ヶ月後。その優勝者への景品として、アルギンとの結婚が付与される。
ソルビット情報だとその触れが出されるのは明日になる筈だ。そして既に参加が確定しているのは今のところディルのみ。
自分の婚約者が景品にされていると言うのに、ディルの表情が荒れているようには見えない。それがまたアルギンとしては悲しい事で。
「………ディル、平気なの」
「何が、です?」
「アタシが景品にされる事」
これはただの八つ当たりだった。言ってから、失言だったと思ってジョッキを口に運ぶ。飲み下す酒は今日に限って全然美味しくなんてなかった。
「私は、その参加者の中に入らせて貰えるだけ有り難いと思っているんですよ」
「……なに、それ」
「………勝てばいいのですから」
その言葉に、ソルビットとエイスの周辺の空気が固まる。
「………本気で言ってる?」
アルギンは、二人には出来なかった問い掛けをその場で返した。
「勝たねば、貴女を奪われるのでしょう? 私に選択肢はありませんよ」
「……アタシ、ディルが負けたら国捨てて逃げようかな」
「その時は、ご一緒に。駆け落ちも悪くはないかも知れませんね」
「かー、この色ボケ夫婦は本当にもう。エイスさん、お酒お代わり」
「はいはい、ちょっと待ってて」
ソルビットは早々に二杯目を要求している。アルギンもそれに続いてお代わりをせがんだ。
ディルはディルでノンアルコールでその光景を楽しんで見ている。この三人は、閉店の時間の後もその場を占拠していた。
三人以外の最後の客が帰り、人避けにエイスが閂を掛ける。それからだった、エイスが本題に入るのは。
「……ええと、ディル君、だっけ。私の妹によくもまあ惚れてくれたものだ……と言いたい所だけれど。前々からアルギンを通して話は聞いていたよ」
「噂?」
「お、身内からの暴露話。言っちゃえ言っちゃえ」
「ああああああああ兄さん止めてお願い止めて」
懇願を、今度はする側にアルギンが回る。
「この子は浮ついた話が無くてね。かといって恋愛が出来ない訳でもない。君のこと、ずっと前から好きだったんだよ」
「止めてって言ってるだろぉ!!?」
「私の、ことを?」
「もう帰ってくる度に君の話が多くてね、副隊長になってまで一体いつまで片恋してるのかとモゴ」
「やーーーめーーーてーーーーー!!!」
エイスの口を塞いでアルギンが絶叫する。ディルは嬉しそうに、僅か頬を染めて微笑んでいた。それが昨日の反応とは違ってアルギンが口を曲げる。確かに躰の隅から隅までとことん知ってしまっては、もう初々しさなど無くなるのが当たり前なのだろうが。
「………でも、君は知らないだろう話があってね。多分私は、今日それを君に聞かせなくちゃならない」
エイスが切り出したその前置きに、ディルの顔が僅かに強張る。
「覚悟はある?」
「……あります。何を聞いても、私はアルギンを愛しています」
「本当だね?」
その瞬間、空気が凍り付くような寒気を覚えた。アルギンが顔をしかめるのは、これがエイスの『魔法』だと知っているからだ。
エイスは氷属性の魔法を使用できる。……こっそり言うと、店の食品系統の在庫はこれで鮮度を保っているのだ。
しかしその魔法を使う先が生き物相手となれば話は違う。その魔法は体を凍結させ、身動きすら取れなくし、呼吸さえ阻害してじわじわと息の根を止める。それ以外の魔法の使い方もあり、エイスはそれを得意としていた。
そしてそれは今、脅しに使われている。
「どちらにせよ、聞いたら私が君を逃がさない。この先君には何があってもアルギンと契って貰うし、一人で逃げたら私が君の心臓を抉る。他の好い人を見付けても八つ裂きにする。アルギンから離れると聞いたらその瞬間に脚をもぎ取る。アルギンに無体を働いたら同じ傷を倍にして負わせてから首を飛ばす。そしてその時にはアルギンは泣くだろうけど、その程度の男だったと言い聞かせて別の男を選んで貰うよ」
「兄さん!!」
その余りな物言いに、アルギンが声を荒げる。ーーーしかし、当のディルはといえば。
「………契らせて、頂けるんですね……?」
とても。
とても嬉しそうに笑みを浮かべていた。
「……驚いた。私の凄みが効かないなんてね」
エイスは面喰らっていた。これまで脅して来た相手が、最後までそんな笑顔を見せていた事はない。これはーーー堕ちてるな、と、エイスが困ったように笑う。
「良かったねアルギン、君の想い人には躊躇いが無いよ」
「………兄さんも酷い。隊長よりゃマシだけど。酷い。アタシの恋路を邪魔しくさって」
「これで逃げる男なら見切りを付けられて良かったろう? 尤も、逃がさないのは私じゃなくて彼かも知れないけれど」
えぇ? と、アルギンの頭にまた疑問符が浮かぶ。その頃にはもうアルギンのジョッキも四杯目を数えていて、視界が安定していない。
ソルビットはもう何も言わなかった。強いて言うなら肌寒い。色々な意味で。
「まぁ、アルギンが幸せなら私としては何でもいいよ。最悪何処で暮らしてもいい、ただ幸せにはならなきゃ駄目だよ」
「分かってるー、大丈夫だよ兄さん。アタシはディルがいるならそれだけで幸せだからえへへへー」
「全く。その酒癖、気を付けないとディル君も気が気じゃないだろうにねぇ?」
べろべろの状態のアルギンは、今日も自分で歩いて帰れるか分からない。そんな彼女を置いて、エイスはディルに話し始めた。
この酒場の成り立ち。
何故裏ギルドを運営するようになったのか。
裏ギルドが何を見て何を聞いて、何を『手に掛けて』いるのか。
ディルの顔は変わらなかった。その変化のない表情にソルビットが魔法ではない寒気を感じる。理解していないのか、それとも、理解したからこその表情なのか。
「……まぁ、以上がこの酒場の話だ。恥ずかしい私の失敗も聞かせてしまったけれど、簡単にでも理解してくれたら嬉しい」
「はい。アルギンが育った家のことです、忘れません」
しまいにはカウンターに突っ伏してでろでろと「うーん、たいちょー、かくごしろー」などと寝言を垂れ流し始めたアルギンの頭を撫でながら、ディルが優しい笑顔を浮かべた。
またアルギンは起きた時に、醜態を晒したなんだと苦悶の表情を浮かべるのだろう。それが愛らしい姿であるのはディルがよく知っている。
そんなディルを見て、珍しくエイスが声をあげて笑った。
「っ……ふふっ。あははははっ! 良い顔をするねぇディル君。この子にそんな本気の情を向ける男なんて今まで殆ど居なかった。居てネリッタ君くらいかな? まぁあの人は父親っていうか母親の目線だよね。毎回二人がここに呑みに来てはだいたいアルギンがおぶられて帰っていくんだよ」
「知っています。……私はネリッタ様であるなら嫉妬の感情を抱く事はありませんでした」
「今度から、それは君の役目になるんだね」
「……お許し頂けるのであれば」
上機嫌なエイスが煙草を出した。お、とソルビットが意外な顔をする。この男が煙草を吸う所など見たことが無いからだ。
「お許し? ……ふふ、白々しい事を言うね」
「………。それは、どういう意味ですか?」
「意味も何も、そのまま。君は『凶悪』だ。アルギンは気付いているのかなぁ? だって君、本当は滅茶苦茶強いだろ? 私が許しても許さなくても、実力行使できるくらいには」
途端、ディルの表情が無機質なものに変わる。まるで精巧な人形のように、感情の無い顔。
ソルビットが思わず息を呑んだ。その空間に、エイスの紫煙が舞う。
「一応ね、ここも王国直轄なんだよ。情報はそれなりに入ってくる。アルギンを模擬戦で一方的に負かしたんだろう? ……身内の欲目だが、アルギンだって簡単に負けるほど弱くはないよ。でもそれを圧倒的に、しかも手を抜いて勝てるなんて有り得ない。……有り得てはいけなかったんだ」
「……買い被り過ぎです。私は、ただ無我夢中で」
「無我夢中って言葉で誤魔化されるヒューマンの相手は大層楽だろうね? もとから『悪意』で出来てるダークエルフを誤魔化そうなんて出来ないよ、ディル君」
喉を鳴らすように笑うエイスの姿を、ソルビットは見たことが無い。
「君はヒューマンよりも、ずっと私達に近い。弱い振りをしたらアルギンが構ってくれて嬉しかった……とか、その辺りじゃないか?」
「ーーー。………………ふ、ふふふっ。……エイス様は……とても想像力が豊かですね。ギルドマスターと店主を兼業されて、この上作家まで目指していらっしゃるのですか?」
「作家は一時期考えてはいたかな、若い頃の話だ。若気の至りだよ、でも未来の弟に誉めてもらえるなんて嬉しいな」
ソルビットは今日ディルを連れてきた事を後悔している。いや、アルギンを誘えば絶対付いてくるであろう事は予想出来たから、これはソルビット自身が来なければ良かったのか。
『凶悪』と評したエイスの言葉が今なら分かる。どこまでも猫を被り、弱い振りをしてみせ、それで今までずっと過ごして来れたのなら。
「……ディル君、もう遅い時間だ。悪いけど妹を宜しく頼みたいが、いいかな?」
「勿論。……お支払いは幾らですか」
「今日は良いよ。君達が久し振りに来てくれたんだし、結婚の挨拶が聞けて嬉しいからね」
「ありがとうございます」
エイスの言葉に笑顔を浮かべたディルは、寝ぼけるアルギンを横抱きにして連れていく。ソルビットは躊躇いがちに金貨を置いていった。
「ソルビット? 別に君もいいよ」
「……いや………なんか………払わないといけない気がして。あたしは二人の結婚に直接関わってる訳でも無いし、付き添いだから」
「大丈夫だよ、ソルビット。……どうしてもって言うなら、今度呑みに来るときの前払金として受け取っておこうかな」
「なら、是非そうしてください」
三人はそうして酒場を出る。酒場に背中を向けて歩きだしたところで、再び閂がかかる音が聞こえた。
アルギンは分かってるのかいないのか、ディルの首に腕を回して幸せそうに眠っている。それを満更ではないどころか至福の笑みで見つめるディル。……この男は城までの長い道をこのままの体勢で帰るつもりなのだろうか。もうこの時間ともなると人は外を歩いていない。だから恥ずかしさはないだろうが。
「………ディル、明日はアルギン様借りるから」
「借りる? ………ちゃんと返してくださいね」
「借用書でも書こうか? ……まぁ冗談として。明日服買いに行くの。好みあるならそれとなく選ばせるから、どんなのがいいか聞いておこうと思って」
「服、……。………………」
ディルの顔が真っ赤に染まる。しかし暗がりだからかソルビットには見えにくい。……それを教えてくれたのは月明かりだった。
盛大な溜め息がソルビットの口をついて出る。
「そんなにあの下着はお気に召したかい」
「っ!!!!?」
「いーのいーの、その為に用意したんだから。アルギン様は文句ばっか言ってたけど、結局着たしねぇ」
「そ、そ、そそそそんな私は、そのような」
「ディルがむっつりってのはよく分かったし、透けるの選ばせるかねぇ。あ、それとも布面積が狭いほうがいい?」
「…………………………どちらでも……」
異論が無いのか性癖が露見するのが恐ろしいのか、ディルはそう言って俯いた。
腕が塞がっていて顔を隠せないディルのその胸で、アルギンが身動ぎをする。んー、と小さな声を漏らしながら、ゆっくりと瞼が開いていく。
「………でぃるぅ……?」
寝起きの、まるで子供が甘えるような声。
「もう帰り道ですよ。じきに隊舎に着きますから、まだ寝ていて大丈夫です」
「そぉ………んー、でぃるのにおいがするぅ……」
すりすりと胸に頬を寄せるその姿は、普段がさつで粗暴なアルギンとは似ても似つかない。ディルも困ったように視線をさ迷わせているが、ソルビットとしては『どこ』が困った事になっているのか丸分かりだ。幸運なのは、『そこ』がアルギンに隠れて見えないことか。
「アルギン、その……今は外ですので」
「………えー」
アルギンはきっと寝ぼけているのだろう。
「……じゃあ、かえったら……きのうの……また、いっぱい、して……?」
でなければ人一倍羞恥心が強いこの女がそんな事を言う筈が無いのだから。
ソルビットが勢いよく噴き出す。ディルが真っ赤になったまま震えている。アルギンは再び寝に入ってしまった。
「ディル、あんた昨日何したの」
「わすれました」
「アルギン様にいっぱい何したの」
「わすれました」
「で、帰ったらまたいっぱいするの」
「…………………………ご勘弁ください……」
ディルの足が速度を増す。羞恥に耐えられないのか、それともその『いっぱいして』とやらの願いを叶える為なのか。
アルギンを抱える彼に追い付くのはさして難しくない。その背をわざとゆっくり追いかけながらソルビットが意地悪く笑う。
「あたしもその口説き文句使ってみようかなぁ」
「どうぞお好きに!」
「アルギン様直伝! これで禁欲を貫く聖職者も性色者に☆」
「もう止めてください!!」
ディルの声が悲壮だ。一生もののからかいの種を得た気分のソルビットはげらげら笑い続ける。
日付が変わるより前に、三人は隊舎に着いた。ソルビットは最後まで「じゃーいっぱいしてやりなよー」とからかう調子を止めない。
やっと解放されたディルは、アルギンの私室まで向かう。手狭な場所のそこは二人が夜だけ過ごすには丁度良い。これでもう少しだけでも広かったら、ディルは本当に転がり込んでしまいそうになるから。
早く二人だけの住居を構えたい。仕事で疲れたアルギンを一番に癒したい。休みの日は遅い時間まで色々な事を話していたい。待ち合わせも迎えの時間も不要になったら、早い時間から一緒に出掛けられる。同じ家に帰れば、一人だけの帰宅の寂しさに身を切る思いをせずに済む。……声を殺すアルギンの嬌声を、もっと聞ける。既に邪な思いしかないディルが、腕の中の女を寝台へと下ろす。
「アルギン」
返事はまだ無い。
「……アルギン、えっと、……起きてください」
「んー……」
うっすら開く瞼。
瞳が動いてディルを見つめる。
「着きましたよ」
「んー」
「……このまま、お休みになりますか」
寝る女性を好き放題するのはディルの趣味ではない。例えそれが、将来を誓った相手でも。だからこのまま寝るなら、それでもいいと思った。昨晩はだいぶ無理をさせたようだから。
けれどアルギンは、酔った顔のまま笑顔で腕を広げる。まるで昨日のように。
「でぃる、きて」
「…………本当に、貴女という人は」
「やなの……?」
「そんな訳、」
ーーーない。
流される自分を自覚しながら、その誘いに乗った。最愛の人から注ぎ込まれる甘い毒が全身を支配する。
もう止まらない。
止められる筈がない。
衣擦れの音が、口付けの濡れた音と一緒に聞こえる。