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アルセンの方舟 ―repaint―   作者: 不二丸茅乃
first. どんな世界でも愛している人
3/9

3


 ーーーごめんな、ちょっと今から呼び出し掛かってんだ


 ーーーあー、うん、……今日は都合が悪いかな


 ーーー悪いけど、今は、ちょっと。先約があって


 ーーー仕事、残ってんだ。だからこれからすぐ戻らないと


 ーーーすまん、無理。……また今度




 そうですか、残念です。いつもお疲れ様です


 ……そうですか。いえ、……残念です


 待っていても、宜しいですか?


 待たせてください


 お願いです、どうか。どれだけ待っても構いませんから




 今からが駄目なら幾らでも待ちます

 今日都合が悪いのなら明日でも構いません

 先約があるのならば私とも約束を取り付けてください

 仕事が残っているのなら可能な限りお手伝いします

 また今度とはいつの話ですか


 お願いです

 お願いします

 何故私を避けるのですか

 声が聞きたい

 話をしたい

 側にいたい

 笑って欲しい

 触れたい

 傍に行きたい


 他の男に

 その笑顔を向けたりしないで


 私は

 貴女を


 気が狂いそうなほど




「ディル」


 昼下がりの僅かな休憩時間に、微睡んでいた彼に声が掛かる。聞き慣れたバリトンで名前を呼ばれ、座っていた日溜まりの席から立ち上がる。


「隊長」


 場所は騎士隊『月』に宛がわれている休憩室の一角。既に仮眠用のベッドがある部屋は他の者が使っていて、空いているのは椅子しか無かった。

 ダーリャは立つ彼を掌の動きだけでもう一度座らせ、空いている彼の隣の椅子に座り、心配そうに顔を覗き込んでくる。


「最近、眠れていますか?」


 ダーリャは人当たりも良く、配下を丁重に扱う。下級士官であるディルに対してもそれは変わらない。昔に戦災孤児となった彼を、自分に縁のあった孤児院に入院させた時から縁が続いているというのもあるが。

 隊長の問い掛けに、彼が俯く。しかし、言葉は裏腹に。


「……ええ。少し寝過ぎで眠いほどです」

「本当に、ですか?」

「………」


 曖昧な笑みを返すことしか出来ない。否定も肯定も出来ないほど弱っていた。当たり前だ、白い目元にそれと解る程には隈が出来ている。表情は暗く、時折溜め息まで聞こえる始末。いつも穏和な笑みを浮かべている彼にしては、その表情はあまりにも痛々しい。


「何かお悩みでしたら、聞きますよ」


 聞く、と言われてディルの表情が更に沈む。この胸の内を聞かれた後の反応が怖かった。相手は自分の隊の隊長で、恩人でもある。隊長に聞かれて、軟弱な男だと思われないだろうか。


「もし聞かれたくない内容でしたら無理にとは言いませんが、話すことで解決策が見えるかも知れません」

「……解決、策?」

「貴方の問題は隊の問題になるかも知れません。貴方が低い士気のままですと、他の者にも影響するのですよ」


 そこまで言われて、ディルの胸に罪悪感が過る。士気に関わる、と隊長から言われてしまえば解決しない訳にはいかない。……そう考えてしまったのは、寝不足のせいか。

 ダーリャは待っていた。だから、口を開く。


「…………想い人が」


 胸が切り裂かれそうな痛みを抑えながら。


「……私を、……避けるのです」


 意を決して口にしたその言葉に、ダーリャは面食らった顔をしていた。


「………想い人?」


 小さく頷く。

 それもそうだ。今までディルは誰かから言い寄られてもその全てを例外無く断ってきた。先日も『鳥』隊の女騎士を振ったと噂が流れていて、禁欲的にも程があるというのがダーリャの評価。

 ディルの頬は僅かに赤い。ダーリャが今まで見てきた表情の中に、その顔は無い。


「……知りませんでした。恋人がいたのですか」

「いえ、こ、恋人という訳では……」

「恋人でない?」

「……私の、片恋です。もう、ずっと以前から……」


 自分の恋をおくびにも出さず今まで涼しい顔をしていたのかと、ダーリャが変に感心する。

 と、なると相手が気になる訳で。


「……どなた、ですかな?」

「……………それは、その」

「シスターですか? そういえば、貴方は孤児院で親しくしていた方がいたと聞きましたが、交流はまだ続いているのですか」

「孤児院……? そこまで仲良くしていた方はいない筈ですが」


 その言葉にダーリャが眩暈を覚えた。この様子だと、そこいらにいる人物は殆ど眼中になさそうだ。昔から少しばかり贔屓を受けやすい外見をしているというのに、好意に気付いていないのだろう。


「『鳥』の方ですかな。『鳥』には貴方に好意を持つ方も少なくないと聞いています」

「さして興味もない方に好意を持たれても、私は別に……」


 反応を見る限りだと外れなのだろう。

 しかしこの発言を聞かれたらどれ程の男が憤慨することか。


「では、『風』? そういえばソルビットとは少しは言葉を交わす仲だとか?」

「あの方は茶々を入れてくるだけです。私に悪戯をして喜んでいるんですよ」

「それはそれは」


 言葉に珍しく若干の嫌悪が見えた。


「同じ『月』の者ですかな? ……ですが、その、言いにくいのですが」

「私に男色嗜好はありません」


 何事もなく返答しているのを見る限り、これも違う。


「では『花』の、………。………………」


 隊の呼称を口にした、それだけで。

 目の前のディルの顔が、頬の赤みを消し再び暗く沈んだ。

 ダーリャではそれだけでは判別が付かなかった。その単語を聞くだけで嫌なのか、それとも、その逆なのか。


「………あー。……えー、……」


 なんとなく。

 なんとなくだが、分かった。

 そういえば一人いたな、と思い出す。『月』の所に来るときに、どこか嬉しそうな顔をしていた女性が。


「………アルギン」

「…………………」

「なの、ですか」


 待てども否定が返らない。

 予想外ではあった。向こうも向こうで恋愛の気配をさせない干物だ。大酒を飲み、潰れ、乱暴に乱暴を返し、それでいて『花』副隊長の席に就く女。穏和なディルとは相性の良くなさそうな粗暴な娘。

 誰とでも朗らかに接し、明るく活発。そんな彼女を?


「……待ってください。彼女が、避けると言いましたか」

「……はい」

「そんな。何かの間違いではないのですか」


 彼女の美徳は『嫌われていない限り誰とでも交友を結ぼうとする』ことだ。それ故に今の『花』は他の隊より幾分も団結力が高い。

 何をするにもお祭り騒ぎ、そんな彼女が誰かを故意に避けるなど。


「……分かりません」


 けれど、ディルの表情は悲痛で。


「分からないのです。私はあの方を傷付けたのでしょうか。何か気に障ることをしてしまったのでしょうか」


 首飾りを握る、その手が青白い。


「………あの方の元に、……縁談が届いていると聞きました」

「縁談……?」

「無理もありません。あの方はお綺麗で、副隊長に上り詰めた方で、私にも優しい。そんな方が今まで独身である事自体が、……有り得ない話で」


 苦痛が、声になる。


「………厭わしい」

「ーーー」

「あの方は、その縁談を断り続けているそうです。しかし、いつかあの方にお似合いの、あの方のお気に召す誰かが名乗りをあげたなら。誰かのものになるあの方を見続けることさえ許されなくなったなら、私は」


 想いが反転する、その危うさをダーリャは感じていた。誰かに執着するこの士官を想像出来なかった。しかしその実物は傍目でも分かるほどに狂気を孕んでいる。

 何か理由があって避けているのかは分からない。けれど彼女には彼女なりの理由があるはずだ。気に入らないから避ける、なんて、そんな不誠実な者ではないとダーリャはこれまでのアルギンとの関わりから感じていた。


「………彼女への、縁談が憎い、と?」


 ディルは小さく頷く。


「……でしたら」


 疲れきった表情で、ディルがダーリャに視線を寄越す。


「………ディル、貴方が縁談相手になればいい」


 そんな表情は見たくなかったダーリャがした提案で、ディルの目が開かれた。


「……縁談、相手?」

「私が話を持ち掛けて来ましょう。曲がりなりにも隊長職を与る私です、即座に断られたりはしないでしょうし」

「ですが、それは」


 ディルの顔には後ろめたさが見えている。分かっていて、続ける。


「彼女だって考えている筈ですよ。幾ら副隊長になったとはいえ、子を成すのは女性の体。男の身では子を成せないが故に、彼女ほど有能な方が後世にその血を引き継がせるのは必須事項だと」

「あの方を、苦しめてしまう」

「貴方が既に苦しんでいる」

「私は、隊長の権力を笠に着てまであの方を、………」


 後ろめたいのは、彼の生真面目な心がそうさせているからで。けれどもう耐えられないのは、見ていれば、聞いていれば分かる。

 彼女の上官であるネリッタも、細君を嫁がせるために無茶をした。そして、それは相手が違えどダーリャも同じ。

 誰かを想う心の前に、理性は呆気なく砕け散る。


「………隊長……」


 ディルの声が弱々しい。震えた声が、想いを紡ぐ。


「お願い、します。私は、駄目です。諦めるなど出来ません。ずっと、あの方を想い続けていました。私は」

「………ええ」

「あの方を、愛しているのです」


 どうか、と繰り返すディルがダーリャに縋った。

 これまで禁欲を貫いて来た彼が、こんなに容易く崩される。恋情の破壊力がダーリャの前に晒されるのはこれで何度目だろう。


「どんな条件が出ても良い。望みがあるのなら、諦められません。ですから、どうか」

「ええ、ディル。お任せを。どうにか何かしらの約束は取り付けてみせますから」

「お願いします、どうか」


 懇願を聞き届けたダーリャは、頷いてその場を去る。






「蜂蜜専門店?」

「ええ、こちらの蜂蜜を入れた紅茶がとても美味しいのです」


 ーーーそのやり取りから四日経ってから。

 城下の七番街には初々しく並んで歩く二人の姿があった。まだ少し早い時間だが、店は続々と開き始めている。この区域は観光地として整備されているのもあり、人通りも多かった。

 ディルが案内した場所は、主だった通りからは少し外れた場所。黄色の看板と蜂の巣の断面図のような飾りがある店だった。どうやらここは喫茶店も併設されているらしい。


「こんな所あったんだね、七番街は来たこともあんまり無いや」

「気に入って頂けると嬉しいです」


 何かしらの専門店というのは珍しくないが、城下で養蜂がされているとは聞かないから天然物か、交易で調達されたものなのだろう。アルギンとしても蜂蜜は嫌いではない。なので興味はあったのだが。


「……ディル、蜂蜜好きなの?」

「ええ、好きですよ」

「そ、そっか」


 この男の口から聞こえる『好き』の言葉に過剰に反応してしまうアルギン。しかし。


「貴女程ではないですけれど」

「っ、……ふへぇ!?」


 とても嬉しそうな表情で彼がそうさらりと言うものだから、アルギンは店の前の段差につまづいてしまった。……その体を、咄嗟にディルが支える。


「お気をつけください」

「っ……だ、だれのせい……」


 顔を真っ赤にして抗議しようとした。そして振り向いた彼の顔がーーー真っ赤だった。


「…………」

「…………………」

「……でぃ、ディル」

「は、はい」

「……入ろっか」

「…………はい」


 言い慣れない口説き文句に自爆した男と、そんな口説き文句に爆撃された女。

 こんな所で固まってては人目についてしまう。一先ず仕切り直そうと、二人は店の中に入っていった。

 店内に入ると同時、甘い香りが鼻孔を擽った。これは蜂蜜だけの香りではなく。


「………うわぁ」


 白塗りの壁と、黄と茶の棚や机で統一された店内。奥は喫茶用の空間らしいが、店が開いたばかりなのかまだ客もいない。

 蜂蜜の入った瓶は勿論、蜂蜜を使ったお菓子が展示されている。甘い焼き菓子の香りが店内に漂っていた。店の隅には化粧品の類いまで置かれているようだ。


「いらっしゃいませ、ディルさん」


 二人の姿を見つけて若い女性店員が近寄ってきた。その人物はディルの隣にいるアルギンを見て不思議そうな顔をする。

 美人、というよりは愛嬌のある顔立ち。優しい人柄が顔に出ているような。そしてこの美味しそうな香りがする店で働いているからか、体つきはだいぶ豊かでふくよかだ。


「……ディルさんのお知り合い、ですか?」

「ええ」

「失礼ですが、以前どちらかでお会いしたこと、………」


 女性から視線を向けられて居心地が悪い。悪意はないのだろうが、こんな格好をしているのが恥ずかしいせいもある。

 やがて女性が思い至ったように驚いた顔をした。


「………アルギン様!? 『花』の副隊長でいらっしゃる!!」

「……はい、まぁ」

「わぁ、本当に!? 私、前からアルギン様に憧れてたんです! 握手、すみません握手してください!!」


 屈託のない笑顔で握手を求められ、ついそれに応じてしまう。彼女の手は温かく、滑らかな肌触りだ。……アルギンの手入れもしていない指とは違って。


「今日はお持ち帰りですか、それともお席をご案内した方が?」

「食べていきます。こちらの紅茶を是非ご紹介したくて」

「まぁ、嬉しい! 奥のお席でいいでしょうか?」

「お願いします」


 そうして案内された席は日当たりも良く、仕切りもあり人目には付きにくい。

 ディルが椅子を引き座らせてくれて、メニューを渡してから店員の彼女が去っていくと、アルギンは漸く人心地ついたように溜め息を吐いた。


「なんか……こんな格好だからか、緊張する」

「アルギン様でも緊張なさるのですね?」

「あ、また」

「……失礼」


 普段の呼び方に戻っていることを言外に咎めると、彼は咳払いをして瞼を伏せる。咎めた方も咎めた方で、それが出来る立場にいられる事に再び頬を染めている。

 なんとも言えない沈黙が続いた後に、ディルがメニュー表を開く。


「……アルギン、その、……何にしますか」

「………お薦めってある?」

「私はいつも、こちらの紅茶を頼んでいます。この欄から紅茶に入れる蜂蜜を選ぶのですが、この中に無いものも注文出来ます」

「そうなんだ」

「あと、こちらのパンケーキも。ケーキシロップが蜂蜜なのです」

「パンケーキかぁ、美味しそう」


 メニューを覗き込むために、無意識にディルに近付くアルギン。


「ね、こっちのクッキーって美味し、………」

「…………」

「ごめん」


 質問の為に顔を上げた時、存外に近付きすぎていてアルギンが真っ赤になりながら椅子に座り直す。対するディルもぎこちなく、視線が四方八方に泳いでいる。


「……アタシ、紅茶とパンケーキにする。蜂蜜はディルのお薦めがいいな」

「分かりました」


 ディルが先程の店員を呼んで注文をして、店員は彼の言葉を注文表に書き取っていく。慣れてるなぁ、と思いながらその注文を流し聞きしていたのだが。


「紅茶の蜂蜜は如何しますか?」

「二人とも、フジの蜂蜜で」

「えっ」


 店員が聞き返したその違和感に、顔を向けた。

 店員の表情がひきつっている。接客中の顔には思えなかったが、その顔はすぐに戻る。ディルにどういう事か聞こうとしたが、彼はまだアルギンを見ない。

 フジの蜂蜜? そんなものあっただろうか、と思いメニューを見ようとしたが、さりげなく彼の指が蜂蜜の欄を遮った。あ、爪まで綺麗。


「……そうなんですね、ディルさん。いえ、その、……本当にいいんですね?」

「ええ、お願いします」

「ちょっと待てどういう事だよ」


 アルギンが聞くが二人とも視線を逸らしてしまった。その間にディルはメニューを返してしまう。店員はそそくさと行ってしまった。

 それを見送った彼はどことなく嬉しそうだった。


「今注文した蜂蜜はですね、東の方のものなんです」

「東? 東ってーと、諸島とかその辺り?」

「そうですね。花自体はこの辺りでも場所によっては咲いているのですが、単花蜜に出来るまではありません。となると遠方から取り寄せるしかないそうなのです」

「………それで、その蜂蜜がなんでそんな意味深長なやり取り挟まなきゃいけなくなるの?」

「さあ?」


 はぐらかすように微笑む彼は、この場では数枚上手だ。自分の領分の中では先回りも出来るようで、これまで彼に上手に回られたことのないアルギンは少しだけ不服だ。

 なるほど、これが『御奉仕』。


「このお店は蜂蜜酒も扱っていますよ。帰りに見てみませんか」

「え、あるの? うわぁ、それは気になる。美味しい?」

「私はお酒が得意ではないので、飲んだことはありません。けれど人気だそうです」

「じゃあ買ってみようかな。美味しかったらまた買いに来よう」

「その時は是非、私もご一緒出来れば」


 さりげなく次の約束まで繋いでこようとする彼に、なんとも言えない感情を覚える。これまでこんなに積極的に来られた事なんて無かった。

 今までは偶然擦れ違って、言葉を少し交わして、笑顔で離れるみたいな、そんな関係だった筈。そんなやり取りを心待ちにしていたのは否定出来ないが。

 ………そう、そんな関係だった筈なんだ。一番最初の出逢い以外は。


「……ね、ディル」


 問い掛ける自分の声がやけに乙女で嫌になる。


「何でしょう?」


 返ってくる声の優しさに鼓動が静まらない。


「……ど、どうしても、先に言っておきたいことがあって」

「言っておきたいこと?」

「あ、アタシさ、ほら、……模擬戦であんなことになったじゃんか。……まさか、ディルに負けるなんて思ってなかった」

「ああ」


 何を言われるかと少し嬉しそうにしていた表情が、次第に曇りを見せていく。確かに、無理矢理無効試合だと捻じ曲げられたその勝利は彼が正攻法で勝ち得たものの筈だった。

 アルギンとしても、あそこまで手酷く負けたのは初めてだった。力量不足が招いた結果であるのは自分がよく解っている。


「昨日は全力でネリッタ様を呪いもしましたが、今日貴女とこうしていられる事自体は嬉しいので……。また再度模擬戦が行われるなら、その時は……どうぞ、お覚悟を」


 再度、の言葉にアルギンの頬が忙しなく染まる。

 今更どんな覚悟をすればいい? また野次馬達の目の前で負ける事? 今度こそ全力で戦う事? ……彼に嫁ぐ事?

 そんなものを覚悟と言っていいのだろうか。アルギンの中にあるものは、彼より弱い自分に対する諦めと、彼が注いでくれる想いへの期待なのに。


「ううん。………もう、模擬戦なんてしない」


 その二つが綯交ぜになって、口から零れ落ちる。


「ーーー何故」

「仕方ないじゃん、負けた前例が出来ちゃった。もし隊長が再戦どうのって言ってきても断るつもりだし、それに」


 唇が、震える。それを見られたくなくて、固めた拳で唇を隠す。


「っ………、最初から、縁談相手がディルだって知ってたら。あんなまどろっこしい事なんてしてなかった、よ」

「………そ、れは」

「名前隠すんだもん。分かんないよこっちは。誰が縁談相手か、分かってたなら……アタシは」


 真っ赤になってしどろもどろなアルギンを、悲しそうな目で見つめるディル。


「……では、何故。……アルギンは、私を避けていたのです?」


 漏れた呟きは、彼の苦痛。


「避け、って」

「話しかけても、引き留めようとしても、貴女は去っていく。私は貴女に何か無作法をしましたか」

「そんな、ことは」


 気まずい。まさか『貴方が告白されていたのを盗み聞きしてました』なんて言える筈もない。

 言葉を濁していると、注文していた紅茶とパンケーキ二人ぶんが運ばれてきた。二人の前にティーポットとカップ、それからミルクピッチャーのようなものに入れられた蜂蜜が並べられる。店員はカップに紅茶を注ぐと、二人の話す内容を察知して注文表を置いてすぐに去っていった。


「……先に、食べちゃおう」

「アルギン、答えてください」

「後からにして」


 蜂蜜入りのミルクピッチャーを手にしたアルギンが、それを鼻先に近付ける。『花』の名を冠した隊に所属していても、実物の花には詳しくない。

 フジの蜂蜜、と言ったか。これまで嗅いだことがあるような蜂蜜の香りではなかった。甘く華やかな、それでいて落ち着いた香りが感じられて、不思議な感覚になる。

 香りを楽しむアルギンの様子に不満そうにしながらも、ディルは口を挟まなかった。話が再開されるのはアルギンがそれを再度テーブルに置いてから。


「……ごめん、あれは……アタシが悪かった」

「何故、あのような事を?」

「今はまだ言いたくないかな。でも、うん、アタシが悪い」

「お聞かせ願えませんか」

「聞いたら、ディルはアタシのこと嫌な女だって思うかも知れない」


 蜂蜜を入れずに、紅茶のカップを手にした。


「………馬鹿だよねぇ、アタシ。いつだって嫌な女なのは変わらないのにさ、今更取り繕ってディルに好かれようとしてる」

「そんなこと」


 何も入れない状態で、アルギンが紅茶を口に含む。熱いそれをいきなり大量に口に含むことは出来なかったが、香りが分かるくらいには飲み込むことが出来た。

 特に何の変哲もない、普段飲んでいるような、ただの紅茶。口を離してソーサーに置くと、口を付けた所に口紅が残ってしまっていた。


「ねぇ、ディル。蜂蜜はこのまま入れちゃっていいの?」


 話を変えるために、アルギンが蜂蜜の話題を切り出す。彼も切り換えのための質問だと解っていて、無言で頷いた。

 蜂蜜がカップに注がれる。金色の液体を全て注ぎ終わってから、アルギンがスプーンを手にした。それで中身をくるくる回す。

 蜂蜜を入れたことで、紅茶の色が変わった。若干黒ずんだが、それさえも面白い変化だと思ってスプーンを取り出しカップを持ち上げた。

 口に含んだ紅茶から、花の香りがする。


「……わぁ」


 感嘆の声。紅茶に足された甘さと香りは砂糖よりも独特だ。けれどその味がとても好ましい。飲み慣れた味の紅茶が、贅沢になったような。

 続けて二口目を口に含んだところで、ディルの笑顔が目に入った。


「お気に召して頂けましたか?」


 子供のようにがっつく姿を見られていたのが恥ずかしくて、堪らずカップを下ろす。このまま飲んでしまっては、パンケーキと共に楽しむ紅茶がなくなってしまう。


「お代わりはありますから、どうぞ召し上がってください」


 そう言って彼はテーブルの上のポットを示す。心の内が読まれてしまったようで居心地が悪かった。お代わりがあろうと、蜂蜜は使いきってしまったのに。

 黙ったまま、次はパンケーキに手を伸ばす。果物とクリームが乗ったもので、とろりと蜂蜜がかかっている。視界で甘さを堪能できるようだ。

 小さめの一口分に切り分けて、それも口に運ぶ。蜂蜜はフジのそれとは味も香りも違ったが、これはこれで美味しい。そして甘い。


「~~~………」


 アルギンの頬が勝手に緩む。色々な事で疲れていた心身が癒されるような甘さに、恍惚の溜め息さえ零れた。

 食べ物で癒されるのなんてどれくらい振りだろう。成人してからは酒に癒しを求めていたが、これはこれで病み付きになりそうだ。


「おいしー……」


 紹介したい、と言われるだけある味だ。既にこの時点で緩んだ顔を見られる事になんの抵抗もなくなっている。そんなアルギンを、彼は自分の紅茶もパンケーキも二の次で笑顔のまま見つめている。


 二人の皿とカップが空になる頃には、店は満席になっていた。











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