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アルセンの方舟 ―repaint―   作者: 不二丸茅乃
first. どんな世界でも愛している人
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2

「申し訳ありません、お気持ちは嬉しいのですが………」


 それはつい最近のことだったように思う。

 その日のアルギンの機嫌は有頂天だった。育ての親である兄の店に自分が愛してやまない酒の銘柄が入荷したこと、仕事で上司に褒められたこと、好きな人の横顔を遠目からでも見られたこと。

 まるで奥手な思春期の乙女のように、惚れた男との距離を詰めあぐねていたアルギンだったが、これはこれで満足していた。

この日までは。


「私には、心に決めた方がいますので」


 人気の無い道を使って執務室に戻ろうととした、それが間違いだったかも知れない。

 話し声が聞こえてきて、それが知ってる声の気がして足を止める。心臓が変な音を立てるのは、その声のせいだ。

 道の隅に人がいた。それも二人。片方は騎士隊『鳥』所属の女騎士だ。アルギンの知人でもあるが、叙勲からあまり良い噂を聞かなくなってしまった。

 そしてもう一人は。


「そんな事言っても、貴方未だに独り身じゃない。お付き合いしてる人の話も聞かないんだけれど?」

「でしょうね、私の片恋なので」


 『月』下級士官ーーー神父、ディル。

 『月』は士官と神父を兼任しているものは珍しくなく、隊長である騎士ダーリャもそうだ。

アルギンは思わず身を隠す。無作法ではあるが、話を聞かずにはいられなかった。

 アルギンは長く、ディルに片想いしていた。

 盗み聞きは悪趣味だなんて、そんな考えは浮かんでこなかった。ただ、二人の会話の内容が気になって。


「片恋?」

「ですので、……貴女の申し出を受けられません。すみません」

「振り向いてもくれるか分からないのに? 今、私にしとけば……良い目を見せてあげられるのに」

「………」

「ずっと下級士官のままでしょう? 取り立ててあげるわ。私にはそれが出来るし、してあげたいとも思ってる。貴方が好きなその女には、そんな事が出来るの?」


 血の気が引いた。かと思えば頭に血が上る。

 そんな取引に立場を使おうなんて、そんなのはアルギンには許せなかった。よりにもよって、そんな甘言を彼に聞かせるなんて。


「……出来ない、でしょうね」


 アルギンの世界が、灰色に固まる。


「でしょう? 私に乗り換えたら、今の生活が変わるわ。だから、ね?」


 出来ない、と言ったか。しない、ではなく。

 彼の為だと言うのなら、あの女に出来てアルギンに出来ないことなど殆ど無いのに。それは、つまり。

 ーーー彼の想い人は、高い地位にいない?


「……地位を見せつければ、私が靡くとでもお思いですか」


 彼の冷たい声が聞こえる。


「え、」

「それとも、はっきり言わないと伝わりませんか? ……お断りします。心に決めた方がいると申し上げています。貴女のように、地位をひけらかさず、真っ直ぐで、守りたくなる可愛らしい方です」


 誘惑もその場ですげなく断ち切る言葉に、惚れ直すと同時に胸の中に立ち込める苦痛を誤魔化すことができない。

 正直、彼の為なら多少の職権濫用も厭わないと思う心の部分は確かにあった。それを見透かされての言葉に聞こえて、アルギンの胸が乱される。

 彼の言うような真っ直ぐな女ではない。守られるような立場にない。そんな可愛い女じゃないことは自分がよく分かってる。

 あの女騎士に投げ掛けられている筈の振り文句が全て、自分宛に聞こえる。


「失礼します。もうお話することは、何もありません」


 彼の足音が、アルギンがいる場所とは逆方に向かっている。思わずその場に座り込んだ。

 あの女と似たような口説き文句を考えたことがない、とは死んでも言えなかった。それだけに、彼の言葉は胸と耳に刺さる。


 恥ずかしくて。

 後ろめたくて。

 馬鹿みたいな事を考えていた自分が。


 だから、彼を避けた。

 今以上側にいたら、自分は彼の望まないことを言ってしまいそうになってしまうから。


 だから、別に。

 彼と彼の想い人の恋の成就を願った訳じゃなくて。




「………アルギン様、そりゃー……無いわぁ……」


 アルギンを見てしかめっ面をしているのは、『風』所属のソルビットだ。

 アルギンの上司であるネリッタは彼女を蛇蝎の如く嫌っているが、アルギンにとってはそこまで年齢の離れていない良い友人だった。飲みの席で彼女がネリッタにやらかしたコトの内容を聞いてドン引きしたのはこの二人の間だけの話。

 そんなソルビットは、アルギンの姿を見てなんとも言えぬ顔のまま。

 今日は、アルギンとディルの約束の日だった。


「……無い、って、そんな酷い?」

「貴女の言葉を借りるなら、有り得ねぇ、って程には」

「だ、だって」


 昨日の事を聞きつけて、なんとまぁ楽しいことになったものだと弾む心を隠さずに宿舎内のアルギンの部屋にまでやってきたソルビット。

 そこで見たのは、その格好のまま仕事でもするんですか? くらいの機動重視の姿。

 何の面白みもない白いシャツ、細い脚の線を出している黒いスラックス。髪はいつものように後頭部でただ結ぶだけ、腰にはこれまた色気の欠片もなく短刀を下げている。細身、悪く言って平坦な胸は性別を疑わせる。男装と言っても差し支えないだろう。……機能性に関して言えば、普段の仕事着と同じだ。そしてトドメのすっぴん。辛うじて薄茶のショートブーツだけは及第点。


「もうちょっと別の服ありませんか。これでは逢瀬を楽しみにしているであろうディルがあまりにも哀れです」

「そんなに酷い!?」

「せめて肌はもう少し出しましょうよ。帯剣も要らないでしょ、何しに行くつもりですか。髪は下ろして編みましょう」

「ちょ、待って、そんないっぱい言われたらアタシ困る」


 ソルビットは無遠慮にアルギンのクローゼットの中を漁る。漁れば漁るほど悲鳴にも似た嘆息が聞こえた。


「色気無し、スカートの一着も無し、なんですかこのパンツうわ本当ひどい」

「見るなぁ!!」

「良いですか、アルギン様。向こうからのお誘いと言っても、受けたからには礼儀があります。ここで選択を間違えれば、お誘いは二度とありませんよ」


 なお、ソルビットは二人の互いの想いについてはそこそこ前から知っていた。面白いから黙っていたが。

 ソルビットが煽る煽る。色恋沙汰で色々なものを転がしてきたソルビットにとって、これは初歩中の初歩。それが分かってない年上の要職付き女は、目の前で動揺する。


「アルギン様、貴女に今足りないのは『油断』です」

「ゆ、ゆだん?」

「隙を見せて、向こうが手を出し易くするんですよ。『美味しそうでしょ、どうぞ食べて(ハート)』みたいな」

「出来るかそんなん! そ、そんなの、期待してるみたいじゃ」

「してないんですか?」


 痛い所を突かれてアルギンが押し黙った。


「それだから処女なんですよ。シスターでもあるまいし守るべき貞節もないってのに、好きな男がいながら消極的故に処女って最悪です」

「そこまで言う!?」

「言いますよ、このヘタレ」


 ずばずば言いたいことを言ってくるソルビットに大層傷ついたアルギンだが、時間は待ってくれない。

 気付けば迎えが来る時間の十分前だった。


「あーもー本当何なんですかアルギン様、好いた男とどうこうなりたいならこういう事態を見越して服くらい買っ……お、」

「……どうした?」


 尚もクローゼットを漁り続けていたソルビットが、何かを手にして広げる。

 それは白生地に黒で花と蝶の刺繍がしてある膝丈のノースリーブワンピースだった。同じ所にアクアカラーのストールもある。これまでまさぐっていた面白味も色気も無いクローゼットの中身は、雰囲気がそこだけ違う。


「これどうしたんです?」

「んん? ………あー、それ前ネリッタ隊長から貰った気がする」

「げぇ、ネリッタ様からの」

「正しく言うと奥様のだな。お下がりだけどまだ綺麗だから、って」

「あー」


 アルギンが言い終わるのを待たずして、ソルビットがそれをアルギンのベッドの上に投げる。


「着替えてください」

「……えええええ、マジで……?」

「マジで。本当に。冗談抜きで。その格好で今から逢瀬って言われたらディルに同情するしかないです。勘弁してください、哀れすぎて泣けてきます」

「本当に何なの? そんな酷いの?」

「求婚するくらい本気の相手が、初めての逢瀬に仕事着みたいな服で来たら完全に脈無しって思わない方がどうかしてます」

「うぐ」

「ご自分の立場に置き換えて考えてみてくださいよ」


 それは、確かに。

 もし彼が今日、小綺麗な格好ではなく普段の神父服だったとしたら。黒が基調で、彼の禁欲的な雰囲気の横顔によく似合っていて、袖から覗く手首が綺麗で、時折見える首元の肌が色っぽくて。柔らかに揺れる背中の三つ編みも、優しい微笑みも、いつも通りというのなら。


「……いや、アリかも」

「馬鹿ですか」

「なんだと」


 ソルビットの溜め息でアルギンが唇を曲げる。しぶしぶ言われた通りに短刀を放り投げて上を脱ぎ、ワンピースを着てからスラックスを脱いだ。それまで着ていた服を畳んでベッドの上に置いた所で、ソルビットがベッドにアルギンを座らせて、自分の服の中、胸の谷間から何かを出す。


「……嫌味みてぇ」

「あたしの最大の武器はこの発育ですから。さ、お顔を拝借」

「拝借って、な、なにすんの?」

「『魔法』を掛けるんですよ」


 その何かは、アルギンの唇の上を往復した。滑るその感覚はこれまで生きてきた中で数度しか覚えは無い。


「……口紅?」

「そーです。……さ、唇合わせて。馴染ませて」


 言われた通りに唇を擦り合わせていると、ソルビットはその口紅を握らせてくる。色は仄かに赤が混じったオレンジ。

 塗られ終えた所で、ソルビットはアルギンの髪を解いた。手近な所にあった櫛と器用な手で、緩く編んでいく。固定に必要なピンは、彼女の髪の中から出てきた。

 その間に、彼女から受け取った『魔法』を小さい鞄の中に納める。鞄に関してはソルビットが一瞥したが、特に何も言われなかった。無地で白の手提げだ。


「変じゃない?」

「鏡見てごらんなさい」


 言われて部屋に置いてある姿見に視線をやる。

 そこにいたのは、普段のアルギンとは似ても似つかない『女性』。簡単そうに見えてそれなりの熟練度が必要な編み込みを、ソルビットは涼しい顔で終わらせていく。


「…………かわいい」


 感想は、普段着飾ることを止めていた筈の自分へのもの。鏡の中の自分が自分じゃない。これはソルビットが用意してくれた、自分の別の姿。


「まだまだ粘りたい所ですが、時間が時間ですしこのくらいが限界ですね。今度一緒に服と下着見に行きましょ」

「し、下着も? なんで」

「アルギン様にゃまだ分からないでしょうが、下着のひとつで心持ちがだいぶ違ってくるんですよ。………噂をすれば」


 ノックの音が聞こえた。途端に心臓が跳ね上がる。

 髪を仕上げたソルビットが部屋の主を無視して、外にいる筈の人物に向かって声を投げた。


「開いてますよー」

「ちょ!?」

「さてさて、奴さんはどんな格好で来ましたかねぇ?」


 言いながらソルビットがアルギンの肩にストールを掛けた。身に付けることなくクローゼットの肥やしにしていたが、品質は上等だ。

 外から咳払いの音が聞こえて、やがて扉が開かれる。


「アルギン様」


 耳に馴染む優しい音。


「お迎えに上がりまし、ーーー」


 声の持ち主は、アルギンの姿を見るなら固まってしまった。同時、アルギンも顔を真っ赤にさせて硬直する。

 彼の服は薄手と思わしき長い丈の黒の上着と、黒のズボン、そして焦茶色の革靴。ほぼ一色しかない服の色調だが、それがよく似合っている。アルギンの視線は自然、その細腰に注がれてしまった。


「………ディ、ディル……?」


 彼は全く動かない。と、思った瞬間、その場に片膝を付いた。


「神よ、感謝致します」

「え、えええ?」

「ちょっとディル、感謝するなら今日は神じゃなくてあたしにしてくれない?」

「……? ソルビット様、いらしたのですか」

「きいいいこの男は! 本当アルギン様しか見てねぇ!!」


 神父服の彼も素敵だが、今の格好はまた違った趣きがあって素晴らしい。二人が何やら喋ってる間に、漸くアルギンの硬直が解ける。

 二人は仲が良いのだろうか。ソルビットは仕事の性質上、協力関係を広く持っているのは知っている。けれど目の前で彼が他の女と話しているのを見ると、心が落ち着かなかった。………これでちょっと前まで彼を諦めようとしてたなんて、馬鹿な話だ。


「アルギン様」


 二人の会話が一段落着いたらしい。急に名を呼ばれてアルギンが身を強張らせる。


「……とても、その、よく、お似合いです。……アルギン様のそのお姿を見られただけでも、今日はとても……幸せです」

「え、…………」

「貴女を、今日一日独占できるなど……夢のようです」


 二人が互いに照れあってる隣で、ソルビットは何か嫌悪感を齎すものでも見ているかのような顔をする。


「……幸せだか夢だかどうでもいいけれど、ディル。その独占できる日和に、いつまで『様』付けて呼ぶつもり?」

「……え?」

「今日ここにいるのは副隊長でもなんでもない、ただ一人の女性だ。丁重に扱えよ」


 そう言ってソルビットは部屋を出ていった。まともに感謝も言えてないのに、そんな事は気にしていない様子で。

 彼もその頃には立ち上がって、アルギンの手を引くために側に寄る。


「……服も、髪も、口紅も。全部、ソルビットがしてくれたんだ」

「通りで。この時間にあの方がいるのが不思議でした」

「っ……だ、だから……。……だから、その、あの」


 二人の手が重なった。


「さっき、ソルビットが言ってたみたいに……今日、名前だけで……呼んで」

「は、……」

「いっ、嫌なら、いいから。無理は言いたくない、でも」


 重なった手を握ったのは、アルギンが先。


「…………アタシが、こんな格好するの、ディルの為だけだから……。だから、その、……せめて今だけは、貴方と、距離を感じたくない、っていうか……、貴方のことが、その、アタシも、っ………………ああああ恥ずかしいなぁ!!?」

「アルギン、様?」

「だ、だからそれ止めて!!」


 思春期は既に通り過ぎた筈なのに、こんなに心を掻き乱される感覚は今までこの男以外に無かった。それが、これ程までに心地良いものとも思ってなかった。

 苦しい。悔しい。納得いかない。

 好きだ。

 大好き。

 愛してる。


「………アルギン、って。……呼んで」

「ーーー」

「……嫌?」


 絡み合った視線。二人の顔は真っ赤だ。


「……………、……あ」

「…………」

「ある、ぎん」


 密やかなテノールが、呼び捨てる。

 それがとても嬉しくて、アルギンの顔がだらしなくにやけてしまう。


「………嬉しい」


 例え今日だけだったとしても、この声はきっとこの先忘れない。

 重なった手は指を絡ませて、真っ赤なままの彼がエスコートする。

 アルギンは彼の導くままに部屋を後にした。

 『魔法』が入った鞄を持って。





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