オムライス
その日は、夜の十時を過ぎるまで家には少女しかいなかった。
珍しく隆吾が遅くまで出掛けると言うし、子供一人で火を使うのは危ないので、智哉は一人分のオムライスを作って冷蔵庫に入れてから、仕事に出掛けた。
今日は智哉も仕事で帰りが遅いため、夕飯の時間になったらレンジで温めて食べるようにも伝えている。
なのに智哉が帰って来た時、冷蔵庫の中にはまだオムライスが入ったままだった。
「比奈ちゃん、どこか具合が悪いんですか?」
リビングのソファの上で小さく膝を抱えたまま、比奈は首を横に振った。
こちらを一切見ず、一言も喋ろうとしない少女の様子に、智哉は内心不安を抱く。
小さな子供の面倒など、今まで見たことはない。
まして女の子ともなれば、扱い方などさっぱりだ。
親族達の比奈に対する扱いを不憫に思って衝動的に彼女を手元に引き取ってしまったが、智哉だって悩みもするし接し方に戸惑うこともある。
「どうして晩ご飯食べてないんですか?」
「ごめん、な、さい……」
叱るつもりはなかったが、つい口調が責めているようになってしまった。
比奈の小さな肩が一瞬跳ねて、またすぐに小さくなる。
智哉は小さく深呼吸をした。
ゆっくりと彼女の隣に座り、意識をしながら出来るだけ穏やかな声を掛ける。
「お腹空いたでしょう?ご飯食べませんか?」
優しく頭を撫でてやると、比奈は小さく首を振った。
縦ではなく、横に。
普段の比奈はとても聞き分けが良いだけに、彼女の態度に智哉の不安はますます高まっていく。
「どこか痛いんですか?」
違うと、比奈の頭が揺れる。
「じゃあ、どうして?今日は隆吾くんもいなかったから、寂しかったんですか?」
少女はどの質問にも頭を振るばかりで、智哉にも焦りが見え始める。
体調が悪いようには見えないし、かと言って一人で留守番をさせてしまったことに拗ねている様でもない。
どうしたものかと、とりあえずオムライスを温め直して比奈の前に差し出してみた。
「比奈ちゃん、一口でいいから食べてくれませんか?きっと美味しいですよ」
スプーンを比奈に手渡してみるが、彼女は迷いながらもその手を動かそうとはしない。
理由が全く分からず心底頭を痛め始めた頃、ようやく隆吾が帰って来た。
この時ばかりは智哉は悪ふざけではなく、本当に彼にすがりつきたくなった。
抱きつこうと近寄った途端、ウザいと蹴られたのはご愛嬌。
「うぅ……。隆吾くんは冷たいなぁ」
「日頃の行いを見直せ。……腹減った。何か食うもんねぇ?」
「隆吾くんより先に、比奈ちゃんに食べて欲しいんですけどねぇ」
「あ?比奈、飯食ってねぇの?」
「食べてくれないんですよ」
言って、智哉はまだ手のつけられていないオムライスを隆吾に見せる。
すると彼は、比奈の前に行儀悪く胡坐をかいて座った。
「比奈ー。食わないなら俺がこれ食うぞ?」
隆吾は困った顔をしたまま返事をしない比奈の手からスプーンを取り、それでオムライスを半分に割ってみせる。
「何で食わねぇんだ?腹でも痛いのか?」
鶏肉と細かく刻んだ野菜がたっぷり入ったチキンライスが、比奈に食べて欲しいとばかりに美味しそうな匂いと共に姿を見せた。
すると、少女のお腹も食べたいと小さく唸る。
恥ずかしさに顔を真っ赤にさせて、比奈は俯きながら隆吾を見上げた。
「腹減ってんじゃん。食えよ」
「……だめ」
「何で?」
聞きながらも、彼はそのオムライスを一口、口に運んだ。
腹が減っているのは、隆吾も同じだ。
「隆吾くん、それ比奈ちゃんの分なんですけど」
「もう一つ作れよ」
男の小さな抗議を聞く耳は持たない。
目の前で次々に隆吾の口に運ばれていくオムライスに、比奈の腹の虫が訴える。
「比奈。ほら、なに意地になってんだよ。日下部の飯が不味くて食えなくなったか?」
オムライスをのせたスプーンを比奈の口元に向けた途端、彼女は今にも泣きそうな顔を横に振った。
そうして、ようやっと食べない理由を話してくれた。
「だってね…。ヒナ、いつの間にか寝ちゃってて、晩ごはんの時間……すぎちゃったの」
「は?」
「時間守れなかったら、ごはん食べちゃだめなの……」
比奈の思いがけない告白に、隆吾と智哉は互いに顔を見合わせた。
二人が予想していた以上に、彼女の生活はあまり良いものではなかったらしい。
「なぁ。飯の時間過ぎただけで食えないって、どんな家だ?」
「それは、えーと……。僕も予想外でした」
比奈が来るまでずっと不規則な生活を送り続けてきた夜型人間の隆吾にとっては、あまり理解できない家庭である。
むしろ、育ちざかりな子供にとっての食事抜きは、躾の度合いを超えているのではないだろうか。
智也の脳裏に、最近まで比奈を預かっていた親戚夫婦の顔が浮かんだ。
「隆吾くん。会社の若いのを何人か、借りてもいいですかね?」
「俺に権限ねぇよ。親父に言付けぐらいはしといてやる」
溜息混じりに青年はもう一度、比奈の前でオムライスを食べて見せる。
「ひーな。俺だって晩飯の時間過ぎてるけど食ってるぞ。それでも日下部は怒ってねぇだろ?食っても良いんだって」
「むしろ困ってますけどねぇ。明日やろうと思ってて、今日はご飯炊いてないんですよ。僕も隆吾くんも外で済ませてくると思ってましたし」
「はぁ?なら、比奈の飯は?」
「隆吾くんが食べてるじゃないですか」
隆吾は気まずそうに、三分の二ぐらいにまで減ってしまった皿の上を見遣った。
「あー……。よし、比奈。一緒に残りを食おう。な?」
少し焦った様子で、隆吾は大きめの鶏肉を乗せたスプーンを比奈へと向ける。
「……リュウちゃんと、一緒に?食べてもいいの?」
「おう。一緒に食うぞ」
その言葉にようやく納得したようで、比奈は隆吾の差し出したスプーンを口に入れた。
やっと食べ始めた少女を眺めながら、知らず智哉の肩からも力が抜ける。
「日下部ー。米なくても、他に何かおかずはねぇの?」
「はいはい。ちょっと待ってて下さいねー」
我が侭な子の方がよっぽど気楽だ。
結婚もしたことがないのに、智哉はそう実感した。