ホットミルク
多分に不本意なことではあるが、夜中に泣きそうな声で起こされるのに随分と慣れて来た。
遮光カーテンを引いた真っ暗な部屋。
屋外の微かな明かりすらも全て拒否した暗闇の中で、隆吾には比奈が何処にいるのかすぐに分かる。
比奈が家に来た最初の夜、智哉と売り言葉に買い言葉の勢いで彼女と一緒に寝たのがそもそもの間違いだったと、今でも青年は後悔している。
それ以降、比奈は毎晩隆吾のベットで寝たがるのだ。
一人寝が寂しいなら日下部の部屋に行けと、一度追い払ったこともあるのだが、泣かれてしまって呆気なく隆吾が折れた。
比奈は両親を亡くした後、親戚中をたらい回しにされる生活を送って来たのだから一人を嫌がる気持ちは分かる。
しかし、何処でどんなフラグが立ってこんなにも懐かれたのか、隆吾自身でさえも分からない。
そもそも暗いのが怖いくせに、なぜ敢えて全く明かりを点けない隆吾の部屋で寝ようとするのか。
子供特有の高い体温を抱いて寝るのは非常に心地良いので取り敢えず付き合っているが、このままでは身がもたない。
何度か夢にまで不安な顔をしている少女が出てしまうのは、末期症状ではないだろうか。
「リュウちゃん、お願い。起きて……」
「あー、……トイレか?」
隆吾は半分寝ぼけながら、か細い声で呼ばれる方に右手を動かした。
視覚に頼らず小さな頭に手を置くと、それが上下に動く。
「一人で、……行けるわけねぇよなぁ」
また頭が動いた。
隆吾は深く息を吐いて、それから勢い付けるように上半身を起こした。
部屋の温度にぶるりと体が震える。
もうじき初夏の筈だが、今夜は一段と冷え込んでいる。
「……リュウちゃん、ごめんね?」
「いいから、とっとと行くぞ」
部屋に明かりを点け、うんざりした声で隆吾は自分はそのままに、比奈の肩に上着を掛けて手を引く。
暗闇を怖がる比奈のために、階段や廊下の明かりも全部点けて一階のトイレの前まで付き添った。
「ちゃんとそこで待っててね?」
「……待ってる待ってる」
「ぜったいだよ?置いてっちゃヤダよ?」
「置いてったことねぇだろ」
心外な言われように隆吾の機嫌はますます低空飛行になっていく。
寒いし眠いし、最悪だ。
本来ならこんなことは比奈を連れてきた日下部の仕事の筈なのにどうして自分が、と悪態を吐きたくなる。
「リュウちゃん、いる?」
不安が嫌でも伝わってくる声で、ドア越しに所在を問うのが煩わしい。
つい裸足で来てしまったので、直に感じるフローリングの冷たさが地味に辛い。
壁に背を預けて片足立ちで比奈を待っていると、Tシャツ越しの背中に壁の冷たさまで浸透し始める。
比奈への返事は、くしゃみで返した。
途端に階段の明かりが、ふと消えた。
次いで、ぎし、ぎし、と誰かが降りて来る音が聞こえてくる。
「日下部か?」
暗闇に声を掛けるが、何も返って来ない。
「おい」
廊下の照明が静かに落ちた。
家に点いている明かりは、最早比奈のいるトイレの中だけだ。
ドアの隙間から漏れてくる光だけでは、ろくに周りが見えない。
異変を感じて比奈がトイレの中から隆吾を呼ぶが、騒がれるのも面倒なので何でもないと答えた。
二階から降りてきた足音がこちらに近付いて来る。
そういえば、さっき寝る前に観たホラー映画にこんなシーンがあったな。
ふと思い出してしまって、寒さ以外のものに体が少し震える。
誰もいない真っ暗な部屋で主人公に近寄る足音が不意に消えたと思ったら、後ろの壁から女の手が突然襲って来るのだ。
所詮は作り話。
そう思って観ている分には別に怖くも無いが、こうして自分がその立場にあると心臓が早鐘を打ち始める。
映画と同じように、すぐ近くまで来ていた足音が止んだ。
「ばぁ…っ!」
「ざけんなっ」
やっぱりかと、隆吾は思いっきりローキックを放った。
暗闇の中、突如目の前に浮かんだ生首は、一瞬だけ苦痛の顔を見せてすぐに闇の中に消えた。
同時に何かが倒れる音と共に、廊下に懐中電灯が転がる。
「いたた……」
「本気で馬鹿だな」
「本気で蹴らなくてもいいじゃないですか」
腰を擦りながらも懲りずに声の主は懐中電灯を手に取り、ばあ、と己の顔を下から照らした。
生首のように浮かんで見えるのは、間違いなく智哉の顔である。
「……こんな夜中に何がしたい?」
「いやー、だって今日はいつもより肌寒いじゃないですか。上手く寝付けなかった所に、隆吾くんたちが一階に降りるのが聞こえたから、つい」
「マジで死ね」
ばっさりと切り捨てる隆吾に、智哉は悪びれもなく笑った。
ようやく比奈がトイレから出てくると、家中が真っ暗なことと智哉がいることに不思議そうに首をかしげた。
「トモくんもおトイレ?」
「はい。今夜は寒さがぶり返してますからねぇ。比奈ちゃんも、ちゃんと温かくして寝ないと駄目ですよ?」
「ヒナはリュウちゃんと一緒だから、あったかいよ。だから平気」
言った途端に、可愛いくしゃみが聞こえた。
リビングに明かりが点いて、三つのマグカップが並ぶのはそれから十五分後。