カップ麺
日下部家は、傍から見ても本人達から見ても奇妙な家庭だった。
現在この家には三人住んでいるが、歳が全く違う上に家族としての繋がりも全くないのだ。
――今日までは。
「ってことで、智也さんはこの家出てってくれる?」
本日十八回目の誕生日を無事に迎えた比奈が、笑顔でそう告げる。
「え……?」
小学生の頃に引き取り、それ以降ずっと猫可愛がりをして育ててきた少女が突然言い出した言葉は、智哉には理解の範疇を超えていた。
言葉が解らないわけではない。
ただ、この家は智哉が二十年ローンを組んで手に入れたマイホームだ。
「だから、てめぇは出てけって言ったのが聞こえねぇのかよ。ジジイ」
比奈の隣で不遜な態度でもう一人の同居人である隆吾が比奈と同じことを言う。
もう一度言うが、この家は智哉自身が買った家である。
「えーと……。お二人して何を急に言い出すんですか?」
冗談でしょう、と訊ねる智哉の余裕の表情は比奈が差し出した、たった一枚の紙で崩れた。
『婚姻届』。
その用紙には、間違いなくそう書かれていた。
おまけに既に隆吾と比奈の名で記入済みである。
それを見た瞬間、智哉は最近気になり始めていた白髪が一気に増えた気がした。
「比奈が結婚できる歳になったし。……ま、そういうことだから?」
「いやいやいや!!隆吾くん!?君、何を考えてるんです!!?」
「は?だから、結婚じゃん」
「ねぇ?」
さも当然、と言わんばかりの二人の態度に、智哉だけが慌てふためく。
何をどう間違えて、こんな状況になってしまっているのだろうか。
「隆吾くんは兎も角。比奈ちゃん、君はまだ十八になったばかりじゃないですか」
「うん。だからもう結婚出来るよね」
「いや、うん……。そうですね……」
うん、どこからどう訊けばいいんだろう。
智哉は完全に話のとっかかりを掴み損ねた。
「あたしね、この家が大好きなの。だから、離れたくないの」
「はあ……」
――おかしい。
自分の仕事は、口で相手を言い負かす弁護士ではなかったか。
ここまで言葉が出ないのは、どんな不利な案件でも一度もなかった。
得意だったはずの、仕事用の笑顔も今は作れない。
少しでも落ち着こうと茶を啜る智哉に、比奈は至極真面目な顔で言葉を続けた。
「前に智哉さん言ってくれてたよね?あたしがお嫁さんになったら、この家譲るって」
「……え?」
「言ってくれたよね?」
確かに言った。
けれどそれは、両親のいない彼女が嫁ぎ先で苦労しないように、いっそこっちに婿を連れて来い、ってか同居したい、と言う智哉のささやかな願いが多分に含まれていた。
あと数年で五十に歳が届く智也は未だに未婚で、子供もいない。
自分の娘同様に育ててきた比奈の成長が彼にとっての何よりの楽しみで、結婚などまだ先の先だと思っていたからこそ、そう言ったのだ。
なのに、まさかこんなに早くお嫁に行ってしまうなんて。
「……なんで相手が隆吾くんなんですか?」
「俺じゃ不満あんのかよ?」
「だって、隆ちゃんもこの家に住みたいって言ったから。じゃあ、ずっと一緒に住もうって言う話になったの」
「……それだけ?」
口元を引き攣らせる彼に、二人は仲良く頷く。
智哉は柄にも無く、無性に昔の頑固親父名物のちゃぶ台返しをしたい衝動に駆られたのをなんとか抑えた。
目の前にある大型のダイニングテーブルでは、流石に自分の腰の方が死ぬと思った。
「でな。日下部には悪いんだけど、やっぱ俺ら新婚じゃん?二人で暮らしたいわけよ」
「だったらマンションでも買って住めば良いじゃないですか。大体、二人ともずっと一緒に暮らしてたのに、そんな理由で結婚する必要もないでしょう?」
「それじゃあ、この家があたしの物にならないし、ずっと住めないもん」
「比奈ちゃん……。僕は比奈ちゃんを、そんな独りよがりな考え方をする子に育てた覚えはないです」
「いや、間違いなく日下部の背を見て育ってるから」
今まで智哉に散々からかわれる生活を送って来た隆吾が、ここぞとばかりに突っ込んだ。
「あたし、ずっと本当の“家族”が欲しかったのー」
嬉しそうに隆吾にはにかむ比奈の姿に、智哉は本気で泣きたくなった。
本当の親子ではないが、彼としては自分の娘同然と思ってこの十二年間、必死に育てて来たのだ。
それが、たった紙切れ一枚の契約に負けたこの屈辱感。
「僕は、比奈ちゃんの家族じゃなかったんですか…?」
「だって、智哉さんは親戚の伯父さんでしょ?」
にべもなく突き付けられた他人宣告に智哉の世界は暗転し、一気に奈落の底に落ちた。
「―――と言う、夢を見ましてね。いやー、本当に嫌な夢って、目が覚めてもしばらく生きた心地がしないもんなんですねぇ……」
「おーい、比奈ぁー。日下部の夢、叶えてやろうぜー」
近頃の婚姻届は色んなデザインがあり、WEB上からでもダウンロードが出来る。
冗談で先日智哉がPCで印刷した婚姻届に二人の名前を書いたら、その日の夕飯はカップ麺だけになりました。
「大事な届出書で遊ぶのはやめましょうね!」
「ふざけてプリントアウトしたお前が言うな」