卵焼きと味噌汁
時刻は午前七時過ぎ。
夢と現の境界線を彷徨いながら、隆吾は体を揺すられる感覚にうっすらと瞼を上げた。
「リュウちゃん、おきてー。朝だよー」
ぼんやりと瞼を開けると知らない少女が笑っていた。
しかも比喩ではなく、本当に目と鼻の先の近距離で。
眠りの培養液に浸されていた脳が、一気に目覚める。
隆吾は反射的に息を詰めてしまった。
こんなに誰かを間近で凝視したのはいつ振りか。
一瞬で背筋が冷たくなる。
動いてもいないのに、暑くもないのに、汗が流れるのを感じた。
―――誰、だっけ…?
けれど、少女は青年を大して気にする素振りもなく、まるで花が咲くように笑った。
「おはよー、リュウちゃん!」
その言葉に彼はようやく今が朝だと、自分が今まで眠っていたのだと認識する。
いつもは締め切っている遮光カーテンが今は大きく開けられていて、朝日を室内に招いていた。
さわやかな光に包まれて、少女が可愛らしく笑っている。
たったそれだけのことなのに、咽が締め付けられたように呼吸がままならない。
まるで蛇に睨まれた蛙だ。
声が出せないまま、それでも視線を少女から離せないで見ていると、その細い首が緩く傾いた。
「ごはん、できたよー?」
「……ぁ、」
見慣れぬ少女が誰なのかようやく認識出来た。
昨夜、この家の主である智哉が連れて来た子供だ。
あの男がからかうので、半ば意地になって一緒のベットで寝てやったのだ。
最初は他人と一緒なんて絶対に眠れやしないと思っていたのに、湯たんぽのような子供の体温の心地良さにいつの間にか熟睡していたらしい。
彼女はすでに昨日着ていたパジャマから普段着へ着替えているが、その着替えた物音さえ気が付かなかった。
少し時間をかけて現状を理解し、ようやく隆吾の息が抜けた。
「ひ、な……・?」
脳裏に浮かんだ名前を隆吾が呼ぶと、彼女は嬉しそうに笑った。
無邪気というのはこういうことをいうのか。
脈絡もなくそう思った。
「もう朝ごはんできてるよ。早くおきて!」
「……いらね。俺は朝食わねぇんだよ」
食う時間があるなら、迷わず睡眠を取る。
それはこの家の主でもある男も重々承知していることだ。
何より、朝は低血圧で不機嫌な隆吾を起こそうとする人間は今までいなかった。
改めて毛布に潜ろうとした青年に、今にも泣きそうなか細い声が聞こえた。
「ヒナ、がんばってお手伝いしたのに……」
「…………」
子供の何が面倒って、そりゃ一番は泣かれることだ。
悪意も打算も無い、素直な感情なだけに性質が悪い。
小さく鼻をすする音が聞こえてしまっては、二度寝なんて出来るものか。
これで好い夢が見れる人間は、人として性根が腐ってヘドロ化している。
「あぁー…っ。食えば良いんだろ、食えば!」
枕元においていたスマホで時間を確認すると、思わず溜め息が出た。
普段は昼近くにならないと起きない彼にとっては、異常な起床時間である。
厄介なのが来たなと、幼い少女を宥めながら隆吾は寝乱れた髪をさらに掻いてベットを出た。
「――隆吾くん、昨日から本当にどうしちゃったんです?気味が悪いですよ」
にやにやと笑いながら比奈の為に箸で器用に焼き鮭をほぐしてやる智哉を、隆吾は覇気も無く睨んだ。
すでに悪態を吐く気力もない。
青年の目の前にあるのは、比奈が焼いたと言う形の悪い卵焼き…という名のスクランブルエッグと、智哉が作った大根と油揚げの味噌汁。
いつも朝食を食べない隆吾にとっては、たったこれだけの量でさえもかなりの苦行だった。
「リュウちゃん、たまごやきおいしい?」
それでも、期待に瞳を輝かせる少女のいたいけな声には逆らえるはずも無く、青年は必死にそれを飲み込んでは頷く。
あまりの健気さに、流石の智哉もからかうのを止めた。
「あとで胃薬出しておきますね」
比奈に聞こえない様にこっそり告げると、隆吾は少し青ざめた表情で小さくまた頷いた。
顔の半分を隠す長い前髪のせいで見えないが、もしかしたら目には涙が浮かんでいるんじゃないだろうか。
苦笑を浮かべながらも、智哉は内心嬉しくて仕方がなかった。
「比奈ちゃん。明日も卵焼き作ってくれますか?」
そうすれば、明日もまた三人で朝食を食べれるかもしれない。
……隆吾には大変、可哀想なことだけど。