激辛カレー
その日の早朝、日下部智哉はいつも通りに家を出て行った。
特にどこへ行くというのは聞いていなかったが、逆に何かがあるとも誰が来るとも聞いてはいない。
だから、いつもと大差なく今日も無事に過ぎて行くのだと、居候人である黒崎隆吾は信じて疑ってもいなかった。
そんな、普遍的な一日の終わりに投じられた石はとても小さくて、か弱そうだった。
家主である智哉が帰宅した時、隆吾はリビングで遅い夕飯のカレーを食べていた。
智哉があらかじめ用意していたそれは作り主の性格がよく出ている辛さになっていて、料理が全く出来ない隆吾はカレーにチーズと生卵を混ぜて何とかその辛みを誤魔化した。
普段はこれほど辛いカレーを作って出されたことはない。
また智哉の嫌がらせか、どうでもいい八つ当たりだろう。
そう思って、隆吾が文句を言おうと玄関へ向かうと、そこには目的の人物の他に見たことのない少女がいた。
「……お前、証拠を残さずに攫って来たんだろうな?」
素人がやるとアシがつくんじゃないのかと、ぼやく隆吾の実家は限りなく黒に近い灰色家業を営んでいる。
そんな彼の実家の顧問弁護士をしている智哉に向けられる言葉は、なかなか辛辣だ。
青年の口の悪さを十分に理解している智哉は気にせず、自分の後ろで不安そうにしている小さな影に優しく微笑んだ。
智哉の雇い主の息子は、本気で嫌なものには言葉すら発しないお子様気質だ。
取り敢えず、難関は一つクリアしたかなと内心ごちる。
「人をいきなり犯罪者にしないでくれます?ちゃんと保護者の承諾を得て連れて来ましたよ」
言って、有能な弁護士は小さな影を前に差し出して見せた。
それは、まだ十歳にも満たない小さな少女だった。
知らない男達ばかりで怖いのか、視線はずっと自分の足元ばかりに向いている。
安心させる為に、智哉がいつになく甘い声で少女の柔らかい黒髪を撫でた。
「比奈ちゃん、大丈夫ですよー?ここにいるお兄さんは口も顔も怖いですけど、中身は子犬みたいに可愛い人なんですから」
「……ぶっ殺すぞ?」
「ほら。こんなこと言ってますけどね、本当は照れてるだけなんですよ。ねー、“リュウちゃん”?」
「マジで殺す」
怒りに拳を震わす隆吾に構わず、まるで嫌がらせのように智哉は笑顔を浮かべ続けた。
ちょっとしたことですぐに目くじらを立てる隆吾が楽しくて仕方が無いのだ。
分かっていても止められない、智哉の数少ないストレス発散法だった。
ふと気付けば、小さな少女が顔を上げていた。
目線の先には、隆吾がいる。
「な、なんだよ…?」
隆吾は自分の顔を腕で隠しながら、思わず一歩下がった。
彼は顔中にピアスを付けている。
両耳どころか唇に鼻、顔の上半分が長い前髪で覆われている今はよく見えないが、眉の辺りにも幾つかその飾りがある。
その容姿のせいで好奇の目で見られることはよくあるが、じっと凝視されることには苦手だった。
たじろぐ隆吾を眺めながら、幼い唇が小さく動く。
子鈴のような、とても可愛らしい声だった。
「……耳とか、いたく、ない?」
まずい。
智哉は反射的に比奈の言葉を止めようとした。
隆吾はその容姿の一切について問われるのを最も嫌っている。
普段は散々からかっている智哉でさえ、触れない部分だ。
無邪気とは抜き身の刀だ。
他意はなくても、人を切り付けてしまっても、傷つけた事実にすら気付かない。
最悪の言葉を投げられる前に智哉が比奈を止めようとしたが、彼女の声は既に空気に浸透してしまった。
「カッコいい」
「…………え?」
長い前髪で目元は見えないが、隆吾がきょとんとしているのが智哉にはよく分かった。
智哉だって同様だ。
まさか、そんな言葉が出るとは思っていなかった。
少し間を置いてから、隆吾が比奈に目線を合わせるようにしゃがみ込む。
その仕草は、まるで野生動物が初めて見た未知の生物を観察するようだった。
「……お前、コレが怖いとかキモいとか思わねぇ?」
「どうして?カッコいいよ。…でも、ちょっといたそう」
「別に痛くはねぇけど……」
「そうなの?」
隆吾はがしがしと比奈の頭を乱暴に撫でた。
智哉が無意識に息を吐く。
どうやら少しは気に入ってくれたようだ。
彼は複雑そうに口元を歪めながら、智哉に顔を向けた。
「このイキモノ、何?」
「小柳比奈ちゃん。小学校一年生。今日からこの家に住みますので、宜しく」
「……幼女の拉致監禁か?お前もついに堕ちるとこ堕ちたな」
「違いますって。ほら」
智哉は彼には全く似合わない、少し年季の入ったランドセルと、幾つかの紙袋を掲げて見せた。
それぞれの紙袋の中には子供用の服と、隆吾にはよく解らない書類の束が入っていた。
「比奈ちゃんは僕の親戚の子でね、ちょっと保護者の人達と相談しまして…。うちで面倒見ることになったんですよ」
「は?何で?」
「それはですね……」
珍しく言葉を濁す智哉に構わずぐしゃぐしゃな髪型になったまま、あのね、と比奈が一際明るい声で事情を説明した。
簡単に言えば、比奈には両親がおらず、親戚の家で暮らしていたのだが、その夫婦に子供が生まれるらしい。
「おばさんね、身体があんまり強くないの。だから、ヒナのことあんまりかまえなくなっちゃうからってね、」
「あー、わかったわかった」
必死に親戚夫婦を庇おうとしているのが、事情に暗い隆吾にでさえも伝わった。
比奈としては、そのおばさんとやらが身重になり、世話をするのが難しいから彼女のためを思って仕方なく智哉に預けたと言いたいのだろう。
だが夫婦の本音は、子供が生まれるのをきっかけに他人の子を厄介払いしたかったのではないだろうか。
そしておそらく、比奈本人もそれに薄々気付いている。
「……まー、此処は日下部の家だし。俺には関係無いから別に誰が住もうが構わないけど」
「おやおや、有難うございます。君がそんな謙虚なことを言ってくれるとは思いませんでした」
「嘘吐け。思ってなかったなら、何でいきなりガキを家に連れて来るんだよ」
「だって、先に言ったら絶対に反対するじゃないですか」
「確信犯じゃねぇか」
今日のカレーの辛さの原因はこれか。
呆れ半分に文句を垂れても智哉は微動だにしない。
こんなやりとりは日常会話と同じである。
「そういえば、比奈ちゃんの部屋を用意するのを忘れてましたね……。今夜はどうしましょう」
「ヒナ、あそこでいいよ?」
そう言って、小さな手はリビングにある三人掛けソファを指差した。
「駄目ですよ。今は日中は暖かくてもまだ夜は冷え込むから、こんなところで寝たら風邪引いちゃいます。僕のベットで一緒に寝ましょう?」
「待て、変態」
隆吾があからさまに侮蔑の気配を投げ付ける。
しかし、智哉とて伊達に隆吾の倍近く長く生きているわけではない。
年季の入った職業笑顔で、隆吾の不満をあっさりと払い落とす。
「隆吾くん。君の口の悪さは知ってますけどね、比奈ちゃんの前では少し自重して下さい。教育上よろしくないでしょ?」
「よろしくないのはお前の存在の方だろ」
「酷いなぁ。僕が比奈ちゃんに何かするとでも?」
「言い掛かりをつけられたくないなら、ガキがベット、お前がここで寝とけよ」
「えぇー?こんな小さい子に、今日来たばかりの知らない家で、一人で寝かせるのは可哀想じゃないですか」
隆吾が黙った。
彼にはこれ以上反論は出せないだろうと、智哉は内心ほくそ笑む。
半ば冗談で言ったのに、わざわざ釣られてくれた隆吾との口論が楽しくて仕方が無い。
彼を言葉で圧倒させるのが、智哉の娯楽の一つである。
だからこそ、人間不信に片足突っ込んでいる青年が出した結論には、流石の智哉も度肝を抜かれた。
「―――……分かった。だったら、こいつは俺の部屋に寝かす」
「へ?」
「お前は文句あるか?」
「“リュウちゃん”と寝るの?」
「……文句あんのか?」
慣れないことで気恥ずかしいのだろう。
前髪で表情は隠されてはいるが、耳が赤いのは丸見えだった。
比奈は、にっこりと笑った。
「ううん。ヒナがちっちゃい時はね、リュウちゃんと同じ名前のおっきい犬と毎日寝てたの!」
「俺は犬じゃねぇ!」
つか、お前今でも小さいだろ、と照れ隠しに怒鳴る青年に、少女はきゃらきゃらと笑った。
それを眺めながら、智哉は人知れず息を吐いた。
二人が仲が良いのは嬉しい筈なのに、何だかちょっとだけ悔しい。
「……ま、いいか」
そんな感じで、日下部家は今日から三人家族となりました。
どうぞ、よろしく。
【補足】
智哉の八つ当たりは『比奈を預かること』にではなく、『比奈を押し付けようとした親戚達に対して』です。
読んでくださって有難うございました。