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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

黒縄地獄

作者: 斉藤メモリ

 気がつくと、美香の顔色は(ろう)のような色になっていた。

 恐怖の形相で固まった顔に、振り乱した黒髪がべったりと貼り付いている。

 白い首筋には、俺の(てのひら)の形に濃紫色の(あざ)が残されている。

 あんなに必死に暴れまわった身体は、もうぴくりとも動かない。


 死んでいる。

 殺してしまった。


 これは夢じゃない。

 俺の手の甲には無数のひっかき傷が残されている。

 美香の首を絞めたときに、彼女が抵抗した跡だ。

 いや、そもそもそんな傷と関係なく俺ははっきり記憶している。

 自分の掌の中で人間の生命が消えていく気味の悪い感触を。


 冷たい汗が背中を流れていく。


 仕方なかったんだ。

 こいつが勝手なことを言うから。

 妊娠したから奥さんと別れて私と結婚して、だなんて言うから。

 俺の家庭には子供だっている。そんなことできるわけがないんだ。

 美香との関係はただの遊びだったんだ。それはこいつもわかっていたはずなのに、今更そんなことを言うのが悪いんだ。


 だいたい殺すつもりなんてなかったんだ。

 離婚するつもりはない。お前と結婚はできない。

 そう言ったら口論になり、美香の方から掴みかかってきた。

 いったん押さえつけて冷静にさせようとしただけで、こんなことになるとは思わなかったんだ。


 誰に向けているかもわからない無意味な言い訳が頭の中に浮かんでは消える。

 後悔と罪悪感と破滅への恐怖が、震えと悪寒に変じて全身の筋肉を縛る。


 開いたままの美香の眼が、もう何も映すことのない眼が、俺の方を向いている。

 それを見た瞬間、嘔吐(おうと)感がこみ上げ、思わず口を押さえた。逆流した胃液が食道を()く。


 どうすればいい。

 自首――いや、それは駄目だ。

 相当長い間刑務所に入らないとならないだろう。人生が滅茶苦茶になる。


 自殺に偽装するというのはどうだろう。部屋の中でロープで首を吊ったように見せかければ、それ以上の捜査はされないのではないか。

 ……いや、それも駄目だ。

 他人に絞め殺されるのと、自分で首を吊るのとでは、死体に残る痕跡が全く違うものになるのだと、何かで読んだことがある。きっと警察が見れば、実際は殺されたのだとすぐにわかってしまうだろう。


 では、この死体を何とかして始末し、殺人事件自体を隠すしかない。


 そう決心すると、身体は意外と冷静に動いた。

 死体を毛布にくるんで外から見えないようにすると、肩に担ぎ上げて美香のマンションの部屋から運び出した。何度も抱いてきた身体だったが、意思を失った死体になると今までになく重量感があった。

 まだ夜の10時だ。人目につかないよう行動しなければならない。エレベーターは避け、非常階段でマンションの駐車場へ向かう。自分の車までたどり着くと、トランクに死体を放り込み、急いで発進させた。

 車を走らせ、近くの港の埠頭を目指した。埠頭に到着すると、近くに廃棄されていた鋼材を重りとして死体に縛り付け、海中に投げ込んだ。


 浮かび上がってこないことを確認し、ようやくほっと一息つく。

 これで当分見つかることはないだろう。

 夜の海は何もかもを覆い隠すように、見渡すかぎりただただ暗い。


 ひと安心すると、急に美香のことが可哀想に思えてきた

 客観的に見れば彼女は何も悪いことはしていない。

 不倫の子を妊娠して不安でいっぱいだったろうに、俺の保身の気持ちからこんなことになってしまった。

 何メートルも下の冷たい水底にじっと横たわる美香の身体を、そしてその腹の中にいただろう俺の子を思い浮かべると、寒々しいものがせり上がってくるのを感じた。


 「ごめんな、成仏してくれよ……」


 車のドアノブに手をかけたとき、ふと自分の指に何かが絡みついているのに気づいた。

 毛布の糸のほつれか何かだろうか。何の気なしにスマホのライトで照らしてみる。


 「ひっ……」


 思わず息を呑んだ。

 右手の人差し指に長い黒髪が数本ぐるぐると巻き付いていた。

 女の髪の毛…… 美香の髪だ。


 俺は激しく手を振り回して、それを振りほどいた。

 髪の毛ははらはらと地面に舞い落ちていく。

 

 きっと死体を抱えていたときに、手で握り込んでいたに違いない。必死になっていて気づかなかったのだろう。

 頭の中の冷静な部分ではそう考えながらも、不吉なイメージが浮かんでくるのを止めることができなかった。

 黒い海面から美香が這い上がってきて、びしょ濡れの髪の毛が俺の手に絡みついてくる、そんな情景を。

 

 俺は妄想を追い出そうとするかのように頭を左右に振り、自宅に向かって車を走らせた。

 

 ***********

 

 気がつくと埠頭のへりに立っていた。岸壁から数メートルくらいの地点だ。

 さっき美香を沈めた場所だとすぐ気づいた。

 なぜ戻ってきたのか、どうやって戻ってきたのか、全く思い出せない。

 

 夜の黒々とした海面から、何かがのっそりと這い上がってくる。

 どうやら人間の形をしているそれは、びちゃびちゃと重たい水音を立てながら、コンクリートの地面の上にゆらりと立ち上がった。

 長い髪の毛から水滴が地面に滴り落ち、ぽたぽたと音を立てる。女だ。

 ぼんやりとしたシルエットしか認識できないにもかかわらず、どうしてなのか、それが美香であることがはっきりとわかった。

 生きていたのか。違う、確かに死んでいたはずだ。

 あれは死人だ。


 今すぐ逃げなければと思うが、身体が言うことを聞かない。

 足が一歩も動かない。手指の先さえ動かせない。


 「……ぁ……ぅ……………」


 美香は苦しそうに呻きながら、こちらへ腕を突き出すように、よろよろと歩いてきた。

 ゆっくりと、だが確実に近づいてくる。

 ついに目の前に立った美香の手が俺の手首を握る。

 それは女とは思えない物凄い力で――

 

 「うああぁぁぁっ……!」


 俺は自分の悲鳴で飛び起きた。

 

 「あ、は、ゆ、夢か……」

 

 見慣れた自分のベッドの上だ。

 動悸がひどく、全身にびっしょりと汗をかいて気持ちが悪い。

 だが、夢でよかったという安堵感、助かったという思いで、深く息を吐く。

 

 「何よぉ、何の騒ぎ?」


 隣のベッドに寝ている妻が、顔を向けず声だけで聞いてきた。


 「あ、いや、悪い、変な夢見て……」

 「なにそれ。もう、何時だと思ってるのよ。勘弁してよ」


 子どもが起きちゃうじゃない、などとつぶやいたかと思うと、彼女はすぐにまた寝息を立て始めた。

 二歳になる娘は、そんなやり取りには我関せずと妻の隣で眠っている。

 

 心臓がどくどくと激しい鼓動を打ち続ける。

 人ひとり殺してしまったのだ、罪悪感でこんな夢も見るだろう。罰だと思うべきかもしれない。

 そう自分に言い聞かせながら、さっき夢の中で美香に掴まれた右の手首をさする。

 ふと違和感を感じて、読書灯の光に手首をかざし――その瞬間、俺は必死に悲鳴を噛み殺した。


 細い指が絡みついたような形をした濃紫色の痣の上に、濡れた長い黒髪が巻き付いていた。

 

 ***********

 

 きっと死体の処理をするときに、手首に巻き付いていたのに気づかなかったのだ。

 普通の精神状態ではなかったのだから、無理も無いことだ。

 痣は……きっと知らないうちにどこかにぶつけでもしたのだろう。

 夢で掴まれた場所に髪が巻き付いたり痣ができていたりしたのは……おそらく因果関係が逆なのだ。手首の異常を感じとった脳が、そういった夢を見せたのだ。

 

 繰り返し繰り返し自分に言い聞かせる。

 常識的な説明をいくら考えても、自分自身でそれを信じ、安心することはどうしてもできなかった。

 しかし、それでも繰り返す。

 それをやめたときに何か取り返しの付かないものに直面するかのように。


 あれ以来、家であまり眠ることができていない。

 あれは自分の罪悪感が見せた、ただの夢だ。そう思って眠ろうとはするものの、頭と身体が緊張してなかなか寝付くことができず、気づけば朝の光が枕元に差し込んでいる。そんな夜が続き、俺は疲労の極みにあった。

 仕事が終わったら、医者に行って睡眠薬でももらってくるのがいいだろうか。眠れないのに眠くはなるというのが辛いところで、外回りのために車を走らせていても眠気で意識が飛びそうになる。


 危険を感じた俺は営業車を適当な駐車場に停めて、少し休むことにした。

 眠るのは無理かもしれないが、少しでも身体を休めようと、眼を閉じてヘッドレストに頭をもたせかける……



 誰一人いない埠頭。夜の海。

 またあの場所に来ていた。

 これが夢だということはすぐにわかった。

 だからこそ、この後何が起こるのかもはっきりとわかる。

 

 すぐに夢から覚めなければ。そう思っても、どうすればいいのかわからない。

 足も動かない。声も出ない。

 あの夜見た夢と全く同じだ。

 そして、その後の展開も全く同じ。

 

 黒い影が水音を立てて、海面から這い上がってくる。

 ぬらりと立ち上がり、こちらを見る。美香だ。いや、美香だったものというべきか。

 なぜか、前回の夢よりも美香の顔がはっきりと見える。

 血の気なく青ざめた顔は、生者のそれではない。

 眼球を海中で失ったのか、両の眼窩(がんか)はぽっかりと空いたまま、こちらを向いている。

 かつて自分が愛していた女が、得体の知れないものとなってゆっくりと近づいてくる。


 なんとかして声を出そう。あの夜もそれで逃れたのだ。

 だが、声の出し方がわからない。口をぱくぱくと開閉するが、ただ空気が漏れるだけだった。

 とうとう美香が眼の前に立つ。


 「……あなた……あたし……ころしたぁ……」


 感情の感じられない声を発しながら、空の眼窩で俺の顔を下から覗き込む。

 よく見た仕草。かつては可愛らしいと感じたそれが、今は気が狂うほど恐ろしい。

 

 「……どうして……ころしたの……あかちゃん……いたのに……」

 

 声を出せ。声を出せ。声を出せ。声を出せ。

 焦る俺の手に、美香の手が伸びる。

 細い指が、俺の手の甲と腕を撫でながら上へとあがっていく。

 そして、ありえないほどの力で右肩を強く掴まれる。

 その痛みに押し出されるように、ようやく叫び声が出た。 


 「あああぁぁーーーーっ!! うあああぁぁーーーーっ!! あああぁぁーーーーっ!!」


 気づいたとき、俺は車の中で力の限り絶叫していた。

 何度も叫びながら、狭い車の中を暴れまわり、身体をぶつける。

 ひとしきり暴れたところで、美香から逃れられたことを認識して、ようやく身体を落ち着ける。

 しかし、別のことに思い至り、()きむしるようにワイシャツの袖をまくりあげた。

 ……俺の右肩には、小さな掌の形にグロテスクな痣が残り、その上に濡れた長い黒髪が巻き付いていた。

 

 俺は車の中でいつまでも絶叫を繰り返した。

 声を上げていれば、恐ろしいものが近づいてこないとでも思っているかのように。

  

 ***********

 

 もう三日眠っていない。うかつに眠りに落ちて夢を見ることのないよう、ベッドに入ることもしていない。

 目を血走らせ、ヘッドホンで爆音で音楽を聞き、カフェインの錠剤をかじりながら、俺はじっと座っていた。

 妻も俺の異常には気づいているのだろう。何か声をかけてきたが、無視していたら腹を立てたようで、娘を抱いて寝室に入っていった。もはや適当な言い訳を考える思考力すら残っていないのだ。

 

 だから……再び埠頭に来ていてもすぐに気づくことすらできなかった。

 既に美香が目の前に立っている。

 どういうものか、前回、前々回よりもさらにはっきり姿が認識できた。

  

 「……あたし……あかちゃん……うめなかった……あなたのせい……」

 

 美香の白い手が、そろそろとまっすぐに俺の首に向かって伸びてくる。

 俺の手も足もぴくりとも動かない。何も抵抗できず、ただ美香の手を見ているしかない。

 もはや抗う気力もなかった。俺はここで美香に殺されるのだろう。

 

 首に手がかかる。

 美香の顔はまったくの無表情だった。


 「許してください……死にたくないです……」


 今にも締め上げられようとする喉から、ようやく蚊の鳴くような細い声が出た。

 それが命乞いの言葉であることに、自分で驚く。


 「……あたしのあかちゃん……どうしてころしたの……」


 美香が俺に顔を近づける。見えるはずのない空虚な眼窩が、俺の眼を捉えていた。


 「……おくさんのこどもは……いきてるのに……」

 「許して……ごめんなさい……」

 「……どうしてあたしだけ……ずるい、ずるい……」


 細い指が、俺の喉笛に食い込む。爪が皮膚を破り、薄く血が流れる。

 俺が美香を殺したあの夜と同じ。


 「……ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい」


 聞き取れるかどうかの小さな声で呪詛の言葉を唱えながら、美香は物凄い力で俺の首を締め上げていく。

 思考が止まり、視界が急激に狭くなる。


 「……そうだ……あたしとおなじにしてやろ……あのおんなも……」


 ずっと動かなかった美香の唇の端が、にい、と吊り上がる。

 喉にかかっていた万力のような圧力が急に外れ、俺はコンクリートの地面に崩れ落ちた。



 ……気がつくと、俺はさっきまでと同じ体勢で椅子に座り込んでいた。

 夢と現実を行き来して混乱していた頭が鎮静し、だんだんと理解が追いついてくる。

 夢を見て、美香に会い、首を絞められ、そして見逃された。助かったということか。

 自分の首を触っても、あの忌まわしい髪の毛の感触はない。


 安堵のため息をついた次の瞬間、美香の最後の言葉を思い出し、俺の身体は椅子の上から弾けるように跳ね上がった。

 寝不足でもつれる足を必死に動かして、妻と娘が眠る寝室に駆け込む。


 ベッドの上、二人は既に絶命していた。

 首には濡れた黒髪が縄のように巻き付いていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 少し違うかもしれませんが、「二兎を追う者は一兎をも得ず」ということわざを連想してしまいました。 あらすじやタグにもありました「因果応報」の言葉通り、幾多もの命を一度に奪った男を待っていたのは…
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