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第二章 過ぎ去る季節

 水が流れるように日々は過ぎ去り、ふと気づけば一週間ほどが経過していた。

 流れるように、と表現するのがふさわしいほどに、この一週間は短く感じられていた。感覚的に言えば……何もせずに過ごした一日と同じくらいだろうか。

 あれから、放課後になると『白雪』へと足を向けるのが日課となっている。

 理由としちゃ……まぁ、色々あるけど、それは気にしなくてもいい。

 あの子は相変わらず、人見知りのような部分は残っているものの、最初ほど硬く、怯えているような印象は憶えなくなったので大丈夫だろう。

「……あの、これはなに? ……ですか?」

 桜の精霊――サクラが俺の鞄を覗きながら、声をかけてくる。

 彼女の『サクラ』という名前は「……桜の精霊なので、サクラでいいですよ」と本人に言われたのでそう呼ぶことにしている。単純だな、と思わなくもなかったけど、彼女もそれなりに気に入っているようで、呼ぶと頬を綻ばせている。

「…………聞いていますか?」

 と、どこか不満げな声で訊いてきて、そっと視線を青空からサクラへと向ける。

 するとサクラは鞄の中に入っていた携帯を、噛み付かれるわけでもないだろうに、おずおずと指していた。……なんだか、本当に噛まれそうだな。

 脳裏に手を噛まれて涙目になり、頑張って手を振り回して取ろうとしているサクラが鮮明に浮かんでくる。……やっぱり、起こりそうだな。ま、起こるわけもないけど。

「それは携帯、スマホともいう。離れている相手とも連絡の取れる機械……かな」

 大まかには合ってる気はするんだけど、これでうまく伝わるのか?

「へぇ、なら私も、ひろゆきと話せますかっ?」

「どうだろう。……なんでか、この辺りだと圏外になるんだよな」

 どこでも繋がる、って宣伝してるんだけど。……まさか、詐欺なのか?

 なんて、ついついどうでもいいことに思考を割いてしまう。サクラは言葉のニュアンスから無理だということが伝わったのか「……残念、です」とこぼして、うなだれてしまう。

「ま、俺らには必要ないと思うけどな」

「……そう、ですか?」

 納得していないような表情で、ゆっくりと首をかしげる。

「そうだろ。こうして毎日のように会ってるんだから。それは会えない人が使うもの」

「そ、そうですね。毎日、こうしてひろゆきが来てくれますし、その通りです!」

 これ以上は会えない方々に失礼です、と納得気に頷いてくれる。

 ……ふぅ、どうやら納得してくれたらしい。

 ほっと胸を撫で下ろしながら、どこか嬉しそうにしているサクラの様子を窺う。

 サクラは落ち着きを取り戻すと、本当に小さな微笑みを浮かべて――ふと、視線をどこか遠くへと向ける。……また、か。

 サクラと話していて気づいたことだが、彼女はたまに、遠い目をすることがある。

 それは決まって彼女が知らないものを見聞きしたとき。

 この樹の下で長い時間を過ごしてきていたからか、サクラは時代の流れにはとても疎く、現代のものなどは魔法のようだという始末。そのせいか、色々なものに興味を示して、何に対しても楽しそうに訊いてくる。

 けど、決まって最後には憂いに満ちたような、そんな遠い目をする。

 ――まるで、時間の流れでも見るかのように。

「……ゆき、ひろゆき。聞いていますか? ひろゆき?」

 サクラに肩を揺すられて、意識が現実に引き戻される。

「ん? なんだ?」

「むぅ、やっぱり聞いてない。……学校って、どんなところですか?」

 頬を膨らませていたかと思うと、目を輝かしていかにも、興味津々、と見つめてくる。

 ……学校、か。

 俺の主観で言ってしまってもいいなら、『退屈で面倒』の一言に尽きる。

 けどまぁ、青春を謳歌してる連中にとっては、楽しい場所、なのかもしれない。……俺には全く理解しがたい、どうやったらそんな風に思えるのか。

「……俺の主観だと、退屈な場所。世間一般的に見れば、楽しい場所らしい」

 学校にいい思い出がないからか、そうは思えないんだけどなぁ。

「どんなことをするのですか?」

「大半が勉強。計算とか社会の仕組みとか……まぁとにかく、色々なことを憶えさせられる。それと残りは友人関係と、部活動かな」

 一般的な情報を並べてみたけど、俺が該当する項目、勉強だけだな。

 ……我ながら、なんて寂しい日々を送っているんだか。

 なんて感傷のようなものに浸っていると、隣で「……いいな」とサクラが呟いたのが聞こえた。

「面白そう。……学校、行ってみたいなぁ」

 どこか寂しさの滲む表情で、サクラは町のある方向を見つめる。

 そのサクラのこぼした呟きに、俺は黙ることしかできない。サクラがどれほど行ってみたいと思っても、俺がそれに手を貸しても、彼女はこの樹から離れることはできない。

 ……『呪縛』なんて言葉が、脳裏をよぎる。

「……どうしたの、ですか?」

 こちらの思考を遮るように、サクラの心配そうな声が耳に届いた。

 それは、すぐ耳元で囁かれているようにすぐ近くから発せられたような声。

 ……ん? なんか声、近すぎないか?

 と、違和感を憶えて視線を動かそうとすると、いつのまにかサクラの透き通った紫色の瞳が目の前に――ほんの数センチの距離にあった。

「――って、近い近い!」

 思わず仰け反って離れようとするも、樹の幹に背中を預けているので下がれない。

 サクラもサクラで、唇が触れそうなほどの至近距離であるにもかかわらず、じぃ、とこちらの瞳を覗き込んだまま動こうとしない。……な、なんだ?

「ど、どうしたッ?」

「……私は、ひろゆきを困らせていますか?」

 ひろゆきはよく遠い目をする、と呟いてから、サクラはそっと俺から離れてくれた。

 その真剣な問いの後に続いた言葉に対して、不謹慎にも俺は思わず笑ってしまった。サクラは当然のように、ぽかんと呆気にとられたような表情をして、すぐに頬を膨らませる。

「ひろゆき、真剣に訊いているんですっ! なんで笑うんですか!」

「……いや、俺もさっき同じことを考えてたから、なんだか笑えて」

 思い出すだけで、頬が緩むのを感じる。……ここまで、考えていることが一致するとは。

「……同じこと、ですか?」

 サクラはむっとした表情のまま、睨むようにこちらを見つめてくる。

「ああ、『サクラがよく、遠い目をしてるなぁ』って」

「……そう、なのですか?」

 笑いを堪えながら、頷く。

 そして二人で見つめ合ったまま、一緒になって笑い出した。

「あはは、こんなことって起こるんですね」

 まるで意思疎通です、とサクラは嬉しそうに呟く。

 そうだな、とそれに相槌を打ちながら、一緒になって笑みを交わす。

 サクラが落ち着くのを待ってから、俺は先ほどまで考え込んでいたことが馬鹿らしく思えるほど、穏やかな気持ちでゆっくりと言葉を紡いでいく。

「……さっきの、困らせてるか、って質問だけど……そりゃまぁ、困ることは嫌ってほどあるけど、迷惑はしてないから大丈夫だよ」

「で、でもっ、困らせているなら迷わ――いたっ」

 サクラが食い下がろうとしてくるので、彼女の額を指で小突く。

 それにサクラは額を抑えながら、なんで? と目で訊いてくる。……はぁ。わからんか。

「……そもそも、誰にも迷惑をかけないで生きられるわけがないんだよ。迷惑をかけてるつもりがなくてもどっかで迷惑に思われているかもしれないし、そんなことはどうしようもない。なら気にするだけ無駄、考えるのはやめろ」

 どうせそんなのは疲れるだけだからな。

「それでも迷惑をかけたくない、っていうなら自覚があることだけでも直せばいい。それと、俺からしてみればサクラと一緒にいるのは楽しいから、迷惑とは思わないんだけど。それが嫌なら、まずここに来なければいいだけの話だしな」

「……それは、本当?」

 どこか不安げに、真意を確かめようとするように訊いてくるサクラ。

 ……そんなに俺は信じられないか、って、それもそうか。

「本当だよ。サクラといると大げさかもしれないが、昔にまぁ色々とあったから、いままでで一番、ってくらいには思えるくらいには楽しいんだよ」

 やっぱり大げさだったな、と付け足しながら、苦笑してしまう。

 面倒なことに巻き込まれたり、周囲に迷惑かけたり……まぁ、色々とあって、友人と呼べる奴は数人だけだし、誰かと一緒に過ごす、っていうのが新鮮なんだろうな。

 色を失くしたモノクロの世界に、彼女は色を与えてくれた。

 サクラのおかげで俺の瞳に『色彩』が戻り始めているのかもしれない。

「あ、ありがとう、ございます」

「別にいいよ。……サクラの行動は見てて楽しいからな」

「……む、ひろゆき。それは私がおかしな子だって言ってるんですか?」

 サクラは頬を膨らませて、睨んでくる。

「さて、どうだろうな」

 どっちですか、と問いつめてくるサクラの相手をする俺は――笑っていたのだと思う。




 教室に足を踏み入れると、こちらに気づいた生徒たちが視線を向けてくる。

 けれど、それが俺だとわかると次々に視線を逸らしていき、心なしか喧騒が遠ざかる。教室内の温度が下がった、とでも言えばいいのだろうか。

 これはいつものことで、特筆することもない。

「…………」

 気にすることなく、無言で自分の席へと足を向ける。……あー、眠い。寝不足か?

 窓際の最後尾、そんな教室内で一番ぼんやりできる特等席が俺の居場所となっている。……ここ最近は春の日差しが暖かくて、気持ちいいんだよなぁ。なんてどうでもいいことを頭の片隅で考えながら、鞄を机の横に掛け、椅子を引いて腰掛ける。

 特にやることもないので頬杖をつきながら、どうするかな、と考えてみる。

 ……けどまぁ、ぼんやりとした頭では何も浮かばない。

 諦めるようにその思考を放棄して、窓から見える外の景色へと目を向けてみた。

 色の欠けた青空と、校門からまっすぐ続く桜並木が視界に映り込み、その並木道を同じ制服を着た生徒たちが楽しげに登校中。その様子を何の感慨もなく、眺めることにする。

 どこにでもある、普通の日常風景。

 それをどこか遠くの出来事に感じるのは、俺がその『日常』とやらの一部ではないから。そしてその生徒たちの頭上へと視線を動かすと、きれいな桜の花が咲いている。

 俺の通っている、この高校は『県立桜見高等学校』、略して桜見らしい。

 んで、この桜見高校はその名の通り、敷地の内外を問わずに桜が植えてあって、春になれば校内のどこからでも桜を見ることができる。

『――満開の桜が在校生を見守り、新入生を迎え入れる』

 とかなんとか、確かこの学校の案内に載っていた気がする。

 特になりたいものもなかった俺は、その桜に惹かれてこの高校に入学した一人だ。

 ……けど、その桜の木々はすべて『普通の桜』なんだよな。

 あの桜の樹――樹齢五百年を超えてなお、輝き続ける『白雪』を見てからは。

「……ま、それが普通だよな」

 こっちの桜のほうがきれい、なんて言う奴だいたら、頭がおかしいとしか思えん。

 なんて苦笑しながら考えていると、ふとサクラの顔が浮かんだ。

 感情豊かな彼女と一緒にいると退屈することがない。どんなに些細な話だったとしても、俺にとってはかけがえのない、大切な記憶になっている。

 そして、サクラと一緒にいるときだけは、壊れた部分を忘れることができた。

 ……本当に、サクラには感謝しかないよなぁ。

 ここ最近はサクラのおかげで、心に余裕を持って生活を送ることができている。問題に対して向けていた意識を、少しだけ他のことへと向けられるようになって、それだけでもかなり楽になったと感じられる。

 そして一番は、母さんが心配そうな表情をすることが目に見えて減ったことか。

 母さんには昔、とても大きな迷惑と、心配をかけた。

 それ以来、心配そうな表情をしている母さんを見かけることが多くなった。けれどここ最近はその表情を見ることも減り、代わりに、と言っていいのかわからないが、もとから柔らかかった物腰がさらに柔らかくなって、いつも穏やかに微笑んでいる。

「……いいこと、なんだけどな」

 どこかこちらの様子を楽しんでいるような、そんな気がするのは……なんでだ?

 ……けどまぁ、ずっと心配そうにされるよりは何倍もマシだから、いいか。

 そう結論を付けてから、ぼんやりと流れる雲へと視線を向けると、教室の入り口の辺りから楽しげに談笑する連中の声が聞こえてくる。ここでそちらを見ようものなら、黙り込んでしまうのでそんなことはせず、腕を枕代わりにして机に伏せてから、瞳を閉じる。

 すると俺の世界は暗闇へと転じる。

 聞こえてくる楽しげな声と、無駄に近く感じられる思考を回しながら、闇へと落ちる。

 そんな俺に話しかけるような、物好きは一人としていない。

 ……まぁ、簡単に言ってしまえば、俺は周囲に避けられている。これも、母さんを心配させている要素の一つなのだが、こればっかりはどうしようもないんだよな。

 思い当たる原因は、あれなんだろうな、と浮かばなくもない。

 あれ、とは俺の唯一、と言ってもいい『友人』のこと。

 中学生時代、あいつが起こした数々の問題が原因で一体どれほどの迷惑を被ったことか。喧嘩に巻き込まれるわ、何もしていないのに教師からは叱られるわ……しかも問題を起こすと大抵、責任は全部俺なんだよな。

 おまけにあいつが原因で、突拍子もない風評被害も多発して、誰も近寄ってこない。

 ……思い返してみりゃ、すべての元凶、あいつだよな。

 ん? そう思うとなんかむかつくな。あいつのせいで俺の人生、狂いまくってるんだし。

 そしてその元凶はというと、留学生としてヨーロッパのどこかの学園に行っている。

 留学期間は一年半。

 ……つまりは、当分会うことはない、っと。

 確か去年の十一月に飛行機で海外に飛んだから……帰ってくるのは来年の五月だよな。そもそも中三の後期から留学ってなんだ? 高校の推薦をもらってきたと思ったら、すぐ留学。……そんなのが知り合いにいるなんて、信じられないな。

 もう起きてしまったことを気にしても意味ないが、文句の一つは言いたくなる。

 ……はぁ、一年はあいつとかかわらなくて済む、ってことで手打ちにするか。

 我ながら甘いよな、と思いつつもその思考を終わったと判断して考えるのを止める。

 瞳を閉じているとぐるぐると色々なことを考えてしまうが、眠るまでの余興と考えればいいのか。

 そういや、サクラはどうしているだろうか。

 あの樹の下で歌でも歌っているか、寝ているか、暇を持て余しているのか。考えようと思えばいくらでも思いつくけれど、どれも暇そうにしている感じがする。……なんか暇潰しのできそうなもの、持っていくかな。

 なんてことを考えている自分に苦笑しつつ、そっと眠気に身を任せる。

 そろそろ、春も終わりかな。

 と、ふと思ったけど、それはすぐに眠気に呑まれて消えていった。




「……暑い」

 服の襟を扇ぎながら、俺は暑さに耐えかねてそう呟いた。

「もう、夏ですからね」

 暑くて当然ですよ、と隣でサクラが涼しげな顔で微笑んでくる。

 季節は夏に突入して、少し前までは穏やかだった春の気候はどこかへと行ってしまい、それに代わって地面を灼くように太陽の光が降り注いでいる。その熱で周囲の景色が揺らいでいて……確か、陽炎って言うんだよな。こういうの。

 顔を上げると、遠くに大きな入道雲。そして視界の端に葉の生い茂る枝が映った。

 それは背中を預けている桜の樹の枝先。

 さすがに『白雪』も花を散らして、青々と葉を茂らせる立派な葉桜となっている。その木陰の恩恵に与って涼もうとしていたのだが、その考えを嘲笑うかのように夏の熱気は体にまとわりついてくる。……もし意思があるなら、殺そうとしてるんじゃないのか?

「……なぁ。どこかに涼める場所ってないか?」

 ないだろうなぁ、と思いながらも一応の確認に訊いてみる。

 するとサクラは、どうでしょう、と首をかしげて真剣に考え始めてくれる。

「んー、川とかはどうですか?」

 顎に添えるように指を当てて、サクラがそう提案してくれる。……川か。

「それもいいな」

 近くに水がある、っていうだけでも涼しそうだ。

 そうなると、あと残っている問題は……。

「その川って、サクラの行ける範囲内にあるのか?」

 サクラの行動範囲内に、その川が含まれるのかって話だよな。

 つい最近知ったことだが、サクラは『白雪』から離れられない、と言っていたけど、離れていても行ける場所は数ヶ所だけはあるらしいのだ。……あれにはかなり驚いた。そうは言っても、この桜の樹からさほど離れていない範囲に限るらしいのだが。

 それに、もしサクラが行けないのなら、ここに来た意味がなくなってしまう。

「はい。あまり遠くないですし、大丈夫な場所ですよ」

 ほんわりと微笑みを浮かべてどこか嬉しそうにサクラは答えてくれる。

「そっか。それじゃ、案内頼めるか?」

「はいっ! もちろんですっ!」

 お任せください、と胸を張るサクラを微笑ましく思いながら、一緒に歩き出した。



「――ひろゆき、冷たくて気持ちいいですよーっ!」

 川についた途端、サクラはさっそく川に入って楽しそうにはしゃぎ始める。

 それを見て子どもだな、と呆れながら眺めていると、自然と笑みをこぼしていることに気づいた。……そういや、サクラと一緒にいるようになってから、よく笑ってるような気がするな。心が穏やかになる、とでも言えばいいのか、気づくと笑っていたりする。

 なんでかサクラといると、笑っていられるから不思議だよな。

 なんてことを思いながらサクラがはしゃぐ姿に笑みが浮かんでくる。ぼんやりと立ち止まっている俺に気づいたのか、サクラが大きく手を振りながら俺のことを呼んできた。

 その子犬のような姿に苦笑しつつ、俺も石の多い河原を歩きながら、川に近づく。

「あんまりはしゃぐと、転ぶぞ」

 サクラの運動神経を考えると、どうしても転ぶほうに天秤が傾いてしまう。

「……む。大丈夫だよ。私はそんなに――って、ひゃっ!」

 ……そんなに、なんだろうな。

 大丈夫と言った直後に足を滑らせ、尻餅をついているサクラには呆れを通り越して、もはや尊敬すらしてしまいそうである。

「……ぅう、痛い」

「だから、言ったのに……っ、ははっ」

 予想通りの行動をしてくれたサクラを見て、笑いをこらえきれなかった。

 それにサクラは頬を赤く染めながら、「……ひどい、です」と文句を言ってくるけど、これは笑ってもしょうがないだろ。

「ごめんな。……でも、普通そこで転ぶかっ?」

 息を整えながら、まだ笑いの残る声でそう思わず訊いてしまう。……あー、腹痛い。

「……だって、足が滑ったから」

 と、唇を尖らせて言い訳をするサクラ。

「……ふぅ、んで、怪我とかはないか?」

 一息ついて、尻餅をついたままのサクラにそっと手を差し伸べる。

 それにサクラは不思議そうにこちらの手を見つめてきて、おそらく無意識にその手を握ってくる。その手を握り返して引きあがるために力を籠めようとすると、やっと何のために手を出されたのか理解したのか、どうなのかはわからないが、顔を赤く染めていく。

「……え、あれ? なんでひろゆき、私の手をっ?」

「先に握ってきたのは、サクラのほうだよ」

 我ながら結構、意地悪な返しだと思いながらも間違ってはいないだろう。

 それにサクラは「わ、私からっ?」と驚いているし、耳まで赤くなっていく。そのままサクラの反応を見ていても楽しいけど、やめとこう。

 混乱した様子のサクラの手を引いて立たせてあげるも、まだ混乱から抜け出せないらしく、顔を真っ赤にしたままうつむいてしまう。……なんだか、煙とか出そうだな。

 周囲に目をやって誰もいない河原と、川の流れを眺めることにする。

 混乱しているときはそっとしておくのが一番、とサクラと一緒にいて気づいたことだ。こうして彼女が真っ赤になっているときは下手に刺激しないようにしないと、恥ずかしさに負けてか会話するのも難しくなってしまう。

 ……けど、こんな穏やかでいられるのも、サクラのおかげなんだよな。

「……本当に、感謝だな」

 心の中だけで呟いたつもりが、声に出していたらしい。

「……ふぇっ?」

 あわわ、とさらに混乱した様子でサクラは両手を顔の前で振り始める。

 ……あわわ、なんて本当にやる奴、初めて見たぞ。

 なんて冷静に考えている自分に、苦笑が漏れた。



「……あの、一つ訊いてもいいですか?」

 のんびりとした休憩の合間、サクラが細い足を水に浸しながら訊いてくる。

「なんだ?」

「どうしてひろゆきは、私なんかと一緒にいてくれるんですか?」

「……は?」

 どう考えてもいまさらのように感じられる質問に、呆れてそんな声が漏れる。

 ……どうして一緒にいるか、って。

「……いまさら、とか思って、ます?」

「…………」

 サクラの的を射た言葉には、目を逸らすしかない。

 そんな俺の反応にサクラは、じぃ、と不満のこもった瞳を向けてくる。けどすぐに視線を外して川面に戻すと、どこか寂し気に、桜の髪飾りが揺れた。

「……こうして一緒にいるからこそ、そう思うんです。なんで、私なんかと一緒にいてくれるんだろう。どうして、優しくしてくれるんだろう、って」

 どこか遠くを見つめるように水面を見つめながら、そう気持ちを語るサクラ。

 その独白に、俺は黙り込むことしかできなかった。

 サクラの思いつめたような表情、少しだけ震える声、それだけでもどれだけ悩んでいたかはわかるつもりでいる。なら、それ相応の誠意をもって答えなければ意味がないことも。

 ……でもまぁ、答えはこれしかないんだよな。

「……楽しいから」

「……え?」

 ぽつり、と呟くような俺の一言に、サクラが弾かれたように、その宝石のような紫色の瞳がこちらを捉える。

「……なんで一緒にいるのか、って言われて真っ先に浮かぶのが、楽しいから、なんだよ。考えようと思えばそれらしい理由はいくらでも出てくる。けど、最終的には楽しいから、に集約できるんだよな」

 なら、それが答えでもいいだろう。

「サクラと一緒にいると、気づけば笑ってるんだよ。知らないだろうけど、俺はここ数年、まともに笑ったことがない。けどこうして毎日のように笑ってる」

 ……ちょっと前なら、こんなに笑っているなんて思わなかっただろうな。

 サクラと出会うまでは、楽しい、と思えるもののない、退屈な日々を送っていた。

 周囲に壊れた部分を知られないために、誰ともかかわらないようにして、誰かといても心から楽しいと思えることはなかった。例外中の例外を除いてはだが、あれは楽しいではなく、ただただ慌ただしくて面倒なだけだったと記憶している。

 けど、サクラと出会ってからはまるで違った。

 サクラの笑顔を見ているだけで、つられてこちらまで楽しくなって、笑っている。

「だから、俺はサクラに会うために、サクラと一緒にいるためにあの樹に行くんだよ」

 サクラはその瞳に水面を映したまま、口を閉ざしている。

 けれど、その表情は先ほどとは異なり、思いつめたような表情から、穏やかな、嬉しそうな表情をしているように感じられる。

 言いたいことはすべて言い切ったので、青葉の茂る木々と青空の境界を見つめながら、サクラの言葉を待ってみる。

 しばらくして、周囲が静かでなければ聞こえないような小さな声で、「……ひろゆきは、ずるい、です」とどこか嬉しそうに呟いたのが聞こえた。

 そして残されたのは静寂だった。けど、それは悪いものではないように感じられる。

 ……穏やかで、居心地のいい静寂、とでも言えばいいのだろう。

 聞こえてくるのは川のせせらぎと、幾重にも重なって奏でられる葉擦れの音。

 それに合わせるように、どこか遠くに感じられる蝉の声。

 そんな穏やかな空気の中、サクラは嬉しそうな表情で、この静寂を受け入れていた。

この二章、何ともラノベっぽくて自信が……。

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