第3話 超メガガスレイン・ウォー
話数時系列順『2341』
1
今回君達に語るのは、スラムへ不時着した未知なる火星人とトレバー達が出会う不思議な話である。だが、少しだけ待ってほしい。どうしてラクシエンタ旧市街なんて洒落た名前の付いたこのスラム街に火星人がやってきたのか、まずはそこから知りたくはないか?
素晴らしく頭の良い君達の事だから、きっといきなり火星人なんて荒唐無稽な異星人のことを私が言い出しても誰も信じてはくれないだろう。
自宅二階の便所だろうが、オフィスだろうが、スーパーマーケットだろうが、どこからでも膨大なインターネットの海に浸ることが可能な環境に身を置く人間は、非現実的な事柄についてどこまで信心深くなれるだろう。
魔術的な事象や神の計らいや火星からの数キロバイトのメッセージ。馬鹿正直に生きている君達はそういったものに関して否定的だ。だからある年の三月。我らがスラムで不思議な現象が起こっていたとしても、君達表の連中は誰も取り合ってくれないに違いない。ゆっくりと、順序立てていく為にはやはり、まずはその前日譚から語る必要があるだろう。
あれは記録的な寒波がラクシエンタから去って間もない頃だった。雪解けによって、ただ横たわるだけの閉鎖的な鉄屑と化していたドンウォン橋がようやく開通を迎え、それによって滞っていた配給は再開された。ルセアニア共同体の救世的活動を背景に、人々は冬眠から覚めるようにして徐々に今までの思考習慣を取り戻していった。それはとても喜ばしいことだった。
多くの餓死者や凍死者を出した今回の鉄橋封鎖は、間違いなどなくラクシエンタ史上最悪の出来事だと人々は語ったが、そのすぐあとに最悪な出来事が見知らぬ火星人によって更新されることを今は誰も知る由もなかった。それはルセアニア共同体や偉大なるウィスパー・ドドニクをも巻き込んだ大きな災いとなって、草臥れた軟体動物染みた旧市街に降り注ぐことになる。
その災厄の端緒となったのは、三月のある朝だった。ラクシエンタには冷たく重い朝靄が、あらゆる現実を遮断する透過したカーテンのように辺りへ降り立っていた。どこまで行っても小便の臭いのするこの暗黒街に架かるウッドウッド橋には、吊るされている凍り付いた死体が連なっており、それは不気味な氷柱のようでもあり、悪趣味なトーテムにも見えた。
そんな退廃的街並みの中、側溝の脇に打ち捨てられたように転がるビニールの被せられた薄明かり灯るダンボールハウスの中で、トレバーは苦痛と悲嘆の渦中にあった。まるで爪先から全身を蝕む巨大な悲劇を封じ込めるかのように、トレバーはあちこちが綻んで破けた毛布に包まって昨夜の事をただ呪っていた。
その脇にはライフルを持った『少佐』が座っており、どす黒い膚の少年はトレバーの高潔なる儀仗兵のようだった。彼は先程のトレバーの言葉を反芻するように、天井を覆うブルーのビニールを眺めてから確信に満ちた表情で歯を指でたたいてみせた。
「間違いありません、それは『猟民』です」
トレバーは瞬きした。猟民だって?
「ええ、そうです。そんなことを仕出かすのは彼らしか有り得ません」
まるでビニールのシートに、彼らの残虐な顔形がスクリーンのように映し出されているみたく『少佐』は目を細めた。だがそこには風雨でぼろぼろに変色した目の覚めるような青があるだけだ。それは一体どういう連中なんだとトレバーが聞けば、『少佐』は思い出すのも癪だというように唾を吐いた。
そもそもこの多忙極まりない『少佐』がこのような粗末な家へと招かれたのは、昨日起こったある悲劇的な出来事を拠とした。それは簡潔に言ってしまえば、トニー君の誘拐であった。つまるところ種族を越えて繋がれていた友愛に、突如楔が打ち込まれたのだ。
昨夜トレバーは涼気立つラクシエンタをトニー君と共に気儘に散歩していたのだが、今思えばそれが間違いだった。
ランダムント地区を過ぎた辺りで、夜陰に乗じて何者かにいきなり背後から棒状の鈍器で殴りつけられたのだ。トレバーは顔面から倒れ込んだ。だがマンホールの遥か下で無辺際の恐怖を経験し、ルセアニア共同体の同士として殆ど完璧な状態にあったトレバーにとって、痛みなど問題では無かった。
すぐさま起き上がり反撃に出ようとした時既に、その何者かはトニー君を浚っていった後だったのだ。トレバーはあの時の悲痛極まりないきーきーという鳴き声が忘れられない。
最後に見えた誘拐犯の後ろ姿からは、肥大化した胴体と細い脚しか窺えなかった。如何なる政治的信条とも無縁だったトニー君が何故浚われねばならなかったのか。トレバーはその助言を、『少佐』へと求めたのだ。
古代文明を礼賛する『猟民』なる種族は、『少佐』に言わせればこのスラム街に古くから根差している謂わば土着動物のような存在だった。
「彼ら『猟民』は、自己欺瞞から産まれたラクシエンタ史上最も原始的かつ厄介な組織です。彼らはここを狩猟社会だと勘違いした愚かさの衆であり、同じ地区にいる『代弁者』たちのような文句を言えさえすれば何処だって良いというような浅はかな組織とも違います」
彼らはこん棒と猟銃を手に、野犬や烏を無闇矢鱈に撃ち殺しては焼いて食らうのです。本質的な部分で彼らはそこらの畜生と同義であるばかりか、『猟民』の主張するところの狩猟行為の過程において多発する、夥しい死者や壊滅的な被害などに対して完全なまでに彼らは無関心です。
人を食らわないだけ『地底人』共よりも幾分理性的ですが、それでもそこらにいるような始末の悪い連中よりも更に質が悪いのです。
母斑のある矩形の顔を歪ませて『少佐』は語った。その言葉にはまるで遠慮会釈というものが無かった。トレバーはそれを聞いて、目元を滲ませるほど強く眼窩の裏に絡みついてくる怒りに体を震わせた。そのようなふざけた連中に掛け替えのない友が食い殺されてたまるものか。
トニー君と過ごした期間は数か月間にも満たないかもしれないが、今や彼の存在はトレバーの中では家族を凌駕するほどに重要かつ不可欠な存在となっているのだ。彼の名はトニーであってネズミではない。
トレバーは『少佐』の手の中を見た。強く握り込まれたライフルが天井から吊るされたルセアニア製懐中電灯の光を鈍く照り返し、それはまるで最後の理性の前に聳え立つ黒々とした門灯のようだった。
「彼らは冬を越すことに失敗し、見境をなくしました。野犬や烏のみを範疇としていた時代は『猟民』たちの中で終わり、今や彼らの銃口は鼠や蛙や蛇にまで向けられているのです」
トレバーは驚くほどに緩慢な動作で頷いてみせた。最愛の友を失った彼の亡者のような瞳は、あの時の『地底人』のような薄汚れた卑しさを放っていた。それは人や人以外の如何なる者にも真似できぬような、仄暗い臭気を『少佐』に幻覚させた。
「すぐにでも彼等の塒へと向かいましょう」
厳かな口調で『少佐』が呟いた。このスラムの偉大なる政府ルセアニア共同体にもしも敵が存在するのならば、どのような悪辣な手を用いても根絶やしにしなければならないし、そして同士が受けた不当な侮辱についても我々は徹底的な報復でもって返答しなければならないのだ
『少佐』はトレバーを見ていなかったが、トレバーが決意の元に頷いたのを空気で感じ取った。ライフルを杖にして立ち上がってから『少佐』は汚れたシャツで銃口を拭い言った。仲間を集めて来ます。
「一時間後、ランダムント地区で落ち合いましょう。急いだほうが良い」
まだ同士トニーが悪食の犠牲になっていない可能性が残っていると『少佐』は述べた。『猟民』は陽のある内は活動せず、夕暮れと共に起き出しては狩猟民としての本領を発揮するのだ。昨日深夜に浚われたのならば、まだ生きている見込みは十分にあった。
毛布を取り払って、トレバーは立ち上がる。その人間的に必要な倫理観や道義的な心得をマンホール深くに置き去りにしてきたような荒んだ両の瞳に、『少佐』は確かに臆してライフルを握り直した。トレバーは、もう何にも恐怖を感じていなかった。『少佐』が思うに、現在の彼と『地底人』との間にはそう大きな径庭はない。何故ならば、彼の全ては今飢餓に領されているのだ。
2
侵略的な冬の爪痕が今もこのランダムント地区には残っていた。まるでこのスラムは孤立した棺台だ。ごみの積もった頽れたベンチに座り込んで、トレバーはひたすらに時が来るのを待った。行き交う浮浪者共の黒ずんだ足が目の前を過ぎていったが、そのどれもが『少佐』のものではなかった。トレバーは膝を人差し指でたたいて秒を刻み続けた。
「我々は、自分の意志で選んでここに立っているのではない!」
剥がれた道路の真中に停車する配給トラックに群がる人の群れや、その横で怒鳴り散らす『代弁者』たちの姿や声や仕草がトレバーを煩わせた。
あの慮外者たちの口から吐かれる浅ましい思想や表への不満や一般原理や自分達の象徴的意義や猛烈な訴え。それら全てが謬見であることは既に、トレバーの前に歴然としていた。異論を詭弁や暴論によって悉く喝破し、愚盲な婉曲表現を用いた嘘を吐くことで、彼らは真実を御しやすいものにしようとしているのだ。トレバーは誰かが吸った煙草の煙を見上げた。
「貴方達は無知だ、真に軽蔑すべき対象は何であるのか!」
病人が歩き回り、女は泣き、子供は死んでいる。これほど残酷な仕打ちを唯一の神から受け続けているこのラクシエンタで、彼ら『代弁者』たちは死体に唾を吐いてまで言いたいことがまだあるというのか?
トレバーは胃を逆さまにしたような気持ちの悪さを覚えた。それはまるで趣味を人間観察と公言する客観的意識の欠けた者を見た時のような不快感だった。
「お待たせしました。同士トレバー」
その声に我に返った。トレバーは後少しで『代弁者』たちに思想的な決闘、つまち徹底的なまでの討論を申し出るところであった。無駄に声の大きい彼らの底の浅さを暴きだしてしまいたかったのだ。
「いや、ぴったりだ」
視線の先には鋲の撃ち込まれた鉄底のブーツがある。今で丁度一時間が経過したところだった。トレバーが顔を上げると、そこには『少佐』と、それから無駄な肉の削がれた利口そうなハウンドがいた。頷いてベンチから立ち上がり、トレバーは『少佐』と並んで歩いた。
「この犬はウィスパーの猟犬です」
そう言って『少佐』は先導するように前を歩く猟犬に目をやった。
「残念ながら一時間で人手を集めることは不可能でした。しかし、自らを狩人と幻想した畜生など我々だけで十分でしょう」
『少佐』はウィスパー・ドドニクから借り受けてきたライフルをトレバーに手渡し、自分のライフルは肩に担いだ。下顎に二列の歯が生え揃っている猟犬は同士トニーの臭いを辿りながらランダムント地区を悠々と歩いた。
「ウィスパー、まだ会っていないな」
「何れ会う事になるでしょう」
「なんて犬種だ?」
「不明です」
やがてウィスパーの猟犬はある場所の前で立ち止まった。そこは小さなホテルだったが、まるで焼失した後であるかのように壁は黒ずんでいた。入口の前にある荒れた空き地にはポリタンクやひしゃげたバケツやらが転がっており、それらを蹴飛ばしながら二人はアパート内へと侵入した。
中は光源が無く、ルセアニア製懐中電灯を用いても洞穴のように先が窺えなかったが、猟犬が先導した。優秀なこの猟犬の名前はグリフというらしいのだが、トレバーにはクリフでもピラフでも何だって良かった。
見通しの利かぬ薄闇の中を暫く歩いた時、グリフが立ち止まった。彼は118号室の扉を爪で傷つけて知らせ、『少佐』が痛んだ木製の扉を開けた。開け放たれた闇の中を懐中電灯を翳して検めれば、そこは食料庫だった。床にはずらりと針金のケージが並んでおり、あちこちから物音や鳴き声が聞こえた。棚には罠や瓶に入った擬臭が並んでおり、部屋の中は独特の空気が漂っていた。
トレバーはライフルを置いてしゃがみ込み、ケージを一つずつ見ていった。中はぐったりした猫や水槽に入れられた数十匹の蟇蛙や死んだ犬などで一杯になっていた。そして、その中の一つをトレバーは持ち上げた。中には惨たらしい顔付のドブネズミが入れられていた。
鼻は潰れ、毛も疎らにしか生えていない。だが見間違えようも無かった。トニー君は生きていたのだ。汚い毛色や欠けた前歯。全てが愛らしかった。彼はケージを抱き締めるトレバーを見上げて懐かしそうに鳴いた。
「早く行きましょう」
「そこで何してる?」
返事をしようと『少佐』へ顔を向けた時だった。後ろで別の声がした。猟犬が唸り、トレバーと『少佐』は振り返って部屋の入口に立つ人影を見た。一条の光の下に曝し出されたのは、腹部のみが異様に肥大化し、それ以外の痩せこけた人間の姿だった。『少佐』はライフルを構えて銃口をそれに向けた。
自己欺瞞から生じた愚かさの衆である『猟民』は驚いた表情を貼り付け、その手から棍棒を取り落とした。床にそれが転がった時、猟犬は走り出した。逃げ出そうともんどり打った『猟民』の右の脛へ食らいつき、そのまま引き倒した。彼の脛からは血が溢れ出し、『少佐』が走り寄ってライフルで止めを刺した。
「今ので恐らくバレました。不味いですね」
トレバーは頷いて、ケージからトニー君を解放しライフルを拾い上げた。
「奴らはこのホテルに何十といるのです」
「逃げよう」
それ以外に道はなく、『少佐』は首肯した。部屋を走り回るトニー君を猟犬が咥え、口元にぶら下げて二人に追従した。部屋を出てからは懐中電灯を咥えたトレバーが先頭を歩き、後方を『少佐』が警戒した。それはまるで色の褪めた深淵を歩くようだった。
もう少しで曲がり角の暗がりに至るというところで、トレバーは慎重を期した。体を隠して角から顔だけを出し向こうを探ろうとしたが、曲がり角の先から突然に棍棒が振り下ろされるのを見た。トレバーは側頭部を打擲され、視界が明滅した。だが膝を着くことなく耐え忍び、曲がり角で待ち伏せていた『猟民』がもう一発加えようとする前にその顔をライフルで殴りつけた。
「無事ですかトレバー!」
慌てて『少佐』が走り寄ってくるその前に、トレバーは怯んだ『猟民』を撃ち殺して全てを終わらせた。
「なんとか無事だ」
トレバーは頭から血を流していた。少佐が肩を貸し、二人は『猟民』の巣食う獣臭いホテルを猟犬と共に進んだ。体を闇に溶かすようにして元来た道を辿って行けば自ずと出口は見つかった。
プレートのある入口の扉を『少佐』が乱暴に蹴り開けた。外は雲一つない青空の下にあった。まるでドアマンみたいだとトレバーが言うと、こんなドアマンはいないと彼は笑った。後ろで扉が閉まって、また開いた。『少佐』が振り向くよりも早く、追ってホテルから出てきた一人の『猟民』に二人は掴みかかられた。三人は空き地に倒れ込んだ。『猟民』はこん棒も猟銃も持っていなかった。
腹から倒れ込んだ『少佐』はライフルを拾って銃口を『猟民』に向けたが、奴は銃口を掴んで捻り上げた。トレバーは上体を起こして近くにあったバケツを掴んで奴の頭に叩き付けたが、『猟民』は首がおかしな方向へ曲がってもライフルを手放さなかった。
銃口は上を向いている。猟犬が走り寄ってくるその前に銃声が鳴った。堪らず『少佐』が引き金を引いたのだ。そして上空で今まで聞いたことが無いような爆発音がした。猟犬は怯んで伏せた。トレバーと『少佐』と『猟民』は驚いて空を見上げた。
群青をした上空には、今までそこに存在していなかった筈の銀色の円盤状の物体が浮遊しており、その円盤からはまるでオーロラのような青白く輝く霧が絶えず噴出していた。それはガスのようにも見え、雨としてトレバーたちに降り注いできた。
「なんだあれは?」
奇妙な曲線を描く円盤とオーロラは空を切り取るようにして、上空を白銀に染め上げていた。その美しい光景に皆が見惚れた。その中で『少佐』だけが、その円盤がどんどんと大きさを増していくのに気付いた。いや違う。あれは落ちてきているのだ。『少佐』は力の抜けた『猟民』の手からライフルを奪い取ってその胴体を打ち抜くとライフルを投げ捨てた。
そして腕を掴んでトレバーを起こすと猟犬と共に走り出した。トレバーに肩を貸して空き地を疾走し、駆け抜けた。そして後方から地鳴りと爆風が追い越してきた。二人と二匹は地面の上に投げ出された。
空き地には、先程まで上空にあった筈の銀色の円盤が墜落していた。『少佐』はあろうことかこれをライフルで撃ち落としてしまったのだ。地面に突き刺さる形で、奇妙な円盤は煙を上げながら鎮座している。
それはまるで映画か何かのワンシーンのようだったが、下敷きになった『猟民』の血でペイントされたその未知なる銀色の物体は、これからラクシンタに到来する異変の前触れを知らせるようなおぞましさを放っていた。
読んで頂き有難うございました。
次回4話『未知との遭遇』