ブラックニャンコ・ディテェクティブ
照明を暗くした、シックな作りのバーで一匹の黒猫がカウンターに腰かけている。手にしたコップを少しだけ口にし、小さな音を立ててそのテーブルへと置いた。
「やはり酒は最高だな。目を閉じればそう、いつか乗った船、という物を思い出す。俺もなかなかに数奇な経験をしてきたものだが、酒に叶う娯楽は無いと信じている」
「旦那、酔ってます?」
トラ猫のマスターが、コップを磨きながら訊ねた。透明なグラスはどんな宝石よりも美しい。
「トラのマスター、馬鹿言っちゃいけない。俺はいつだってこの、クールな黒い毛並に酔いしれているさ」
「まぁ、純粋な黒い毛並は確かに、憧れがありますね」
「だろうな、だが純粋だから黒いのではないさ。灰皿はあるか?」
煙草を咥えながら、黒猫は答える。
「えぇ、ここに。また煙草ですか」
二人だけの静かな空間で、マッチを擦る音が響き渡っていた。ゆったりと伸びる煙は、大きく広がりながら薄くなっていく。
「まぁな、酒に並んでどんなことも忘れさせてくれる。そう、まるで不浄な物を覆い尽くす雪のように――」
「へぇえ、なかなかにロマンチスト、なのね」
真っ白な猫が一人黒猫の隣へと座る。
「おや、初めてですね。いらっしゃい。どのような酒にしますか?」
「いいえ、今日は酒がほしくて来たわけじゃないの。そもそも酒なんて呑めたものじゃないし」
「では、どのようなご用件で?」
トラのマスターは静かに驚く。そんな様子を一切気にせず、白猫は黒猫を指さした。
「そこの黒猫探偵に用があるのよ」
黒猫は、値踏みするように白猫を見つめる。そして小さなため息をついた。
「ほう、なかなかの色白美人じゃないか。ガキだがな」
「言ってくれるわね。まぁ、私の依頼を引き受けてくれるならば、いくらでも我慢してあげるわ」
「ほう。まぁ、報酬次第、だな」
彼のその一言で、白猫の目つきが変わった。
「なるほど、報酬次第で結果が変わる。ある意味腕利き探偵、ってのは本当の事なのね?」
「世間では俺の事をそう言っているのか」
「まぁ、噂ね」
「噂さ、か。くだらないな。酒の肴にもなりやしねぇ」
「そう」
白猫は依頼を受けてくれないものと思いこみ、ため息をついた。そんな様子を見かねたのか、黒猫は口を開く。
「内容は?」
「引き受けてくれるの?」
「いいや、だが内容を知らなければ何も判断できねぇからな」
互いは互いの目を見つめ合う。煙草の強い香りが、白猫の鼻をくすぶった。
「分かったわ。実は私、帰る家が分からなくなってしまったの。その帰る家を探してほしい」
「なるほどな、迷子の迷子の子猫ちゃん、て訳だ」
予想していたよりもしょうもない依頼に、黒猫はあきれてしまった。
「馬鹿にしないで。こう見えても私は由緒正しき、純潔の白猫よ」
だが、必死な様子の彼女に、どこか胸が締め付けられる思いだった。
「はいはい、でだ、子猫ちゃん。この案件で俺を雇うには、最低5万は出してもらわなきゃな」
「ねぇ、猫に小判って知ってる?」
「あぁ、猫のように利口に金は使いましょう。ってやつだな」
「そうね、あんたにそれが出来るとも思えないわ」
「酒と煙草を買う金が、利口な使い道だろう。払うのか、払わないのか?」
「残念だけど、後払いにさせていただくわ」
「そうか、ならばこの依頼、無かったことにさせていただこうか。ガキは犬のお巡りさんにでも助けてもらいな。マスター、会計を」
「10万円になります」
サラリと、かつてない額を請求するトラのマスターに、黒猫は驚いた。
「なんだと、俺はいつの間にそんな呑んだんだ……」
「まって、ここは私が払うわ。その代り、あなたには私の依頼を受けてもらうわ」
黒猫も驚愕するするほどの料金を何事も無かったのかのように支払った白猫に、依頼人として申し分のないものだと初めて理解した。
「仕方ない。酒を奢ってもらったんだ。黒猫として仇で返すわけにはいかない」
「ふふ、交渉成立、ね」
「あぁ、行くぞ。こんな依頼、とっとと終わらせてやる」
二人は白猫が帰るべき場所を探すべく、外へと繰り出して行った。
「よぉ、カラス」
電線に止まっていた、一人のカラスに声をかける。
「んあ、誰かと思えば黒猫の旦那じゃねぇか。でそこのかわいい子ちゃんは?」
「あぁ、今回の大事な依頼人だよ」
「なるほどね。で、何が聞きたいんだ?」
残念そうに続きを促す。
「ある家を探している。それはもう、とっても大きな家だそうだ」
ここまで来る途中で聞いたのだが、すぐに思い出せたのはこれだけだったようだ。
「なるほど、だがそれだけじゃ情報があまりに少なすぎやしないか?」
「まぁな、どうだ。お前の好きなヒカリモノだ」
そう言って鏡のかけらを取り出す。それを受け取ると、カラスは大事そうにしまいこんだ。
「はぁ、旦那もなかなか。良いぜ、とびきり大きな家、だな?」
「あぁ、そうだ」
「任せておきな、すぐにでも空から見つけてやるよ」
「頼んだぞ」
カラスは大きく羽ばたくと、勢いよく飛び立っていった。
「どうだったの?」
詳しく話を聞いていなかった白猫が、心配そうに聞く。
「いや、さすがに手掛かりが少なすぎたようではあるが、何とかなるだろう」
「そう」
「何か手掛かりがほしいところだな」
ほとんどない情報に、黒猫は唸る。どうしても、『大きな家』だけでは情報が少なすぎた。
「そうねぇ。さっき話している最中に思い出したけど、私の飼い主は『もみこ』と呼ばれていたわ」
黒猫自身も知らない名前だが、情報が増えた事には変わりない。かみしめるようにつぶやきながら、他に思い出せた事が無いかを訊ねた。
「あとは四角い池、がある事くらいかしら?」
「家の中に、か?」
「そうね、正確には外、だったけど。そこでぷかぷか浮かんでいるのが私の日課、だったわ」
四角い池に、もみこ。まだ少ない事が、アイツならなにか知っているかもしれない。そう考え、黒猫は白猫へと提案した。
「なるほどな。とりあえず、カラス以上に情報を持ってそうな奴の所に行くか。ついでにもみこを探しながら、な」
歩きながら飼い主の名を呼び続ける。人間からしてみればニャアニャア騒いでるだけにしか見えないのだが、そんな事を彼らが知る故は無かった。
「もみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみこもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみもみ」
「気持ち悪い呼び方しないで」
言いながら白猫は黒猫を強く叩く。
「叩くことは無いだろう。今すぐ探すのをやめたっていいんだぜ?」
「おや、誰かと思えば黒猫じゃないか」
たどり着いたは一軒の空き家。そこにはたくさんの猫たちがいるのだが、一匹の聡明な猫によってしっかりと組織立っていた。
「よぉ、マダムペルシャ。久しぶりだな」
「なぁに、あんたもしかして子作り? にしても若い子ね」
「ちげぇよ、くそババァ。大事な依頼人だ」
半分キレながら、黒猫はマダムに噛みつく。黒猫にとってマダムは、昔から苦手な人の一人だった。
「そう、残念。あんたに酒と煙草の他にも楽しみを見つけたかと思ったのに」
「そんなことはいい。こいつの家を探している。飼い主の名はもみこ。池があるほどの大きな家だそうだ」
「もみこ、ね……」
どこか遠くを見つめるように、マダムはつぶやいた。
「なんだ、何か知っているのか?」
「あんた、人間の文字は読める?」
「いいや、それがどうかしたのか?」
「あのねぇ、人間の文字は読めるようにしておいた方がいいと、あれだけ言っておいたでしょう?」
あきれたように言い放つ。確かに、以前から会うたびに人間の文字は理解できるようにしておけと、さんざん言われていていたのだ。
「いいんだよ、爪とぎ文字さえ俺に読めれば」
「探偵するなら何かと便利なスキルなのよ、これが」
「はいはい、次会う頃にはちゃんと習得しておくよ。で、情報をくれないか?」
反省していないような様子に眉をひそめながら、マダムは話し出す。
「隣町の電柱にね、真っ白な飼い猫を探している張り紙が貼ってあったのを見たの。それには人間の文字で確かに『もみこ』と書かれていたわ」
「そうか、ありがとうマダム。この恩はきっといつか返そう」
黒猫は尻尾を振りながら感謝の言葉を述べた。その様子を面白そうに眺めながら、マダムは答えた。
「そう、ならあなたの子供たちでも連れてきてもらおうかしらね」
「それはないな」
「ふふっ、冗談よ」
微笑むマダムに背を向けて、黒猫は白猫へと宣言する。
「行くぞ白猫。隣町だ」
大きな影が空を覆う。黒猫は、その知った姿に尻尾を振って気づかせた。
「よぉ、黒猫の旦那」
「おぉ、カラスか。早かったな」
チョンチョンと両足で着地し勢いを殺す。
「いやなに、ちょうど飛び切り大きな家を見つけて戻ってきたところに、旦那の姿が見えたのよ」
「そうか、でどうだった?」
「あったよあった。プールがあるほど巨大な家が」
「プール?」
得意げに語るカラスに、思わず白猫が喰ってかかった。
「私の家にはプールなんて物じゃなくて、池なのよ?」
「いや、でもお嬢さん。池のある家なんてありやしない」
「嘘よ!」
「落ち着け白猫。これを見るんだ」
近くにあった電柱を示す。そこには探しています、の人間文字に白猫の写真がついていた。
「それは、私?」
「だろうな。雨に濡れて分かりにくくはなっているが、おそらく間違いないだろう」
「なら、家に近づいているってことね?」
「あぁ」
「でも、確かに家にはプールなんてものは無かったわ」
不審そうにしている白猫に、黒猫が答える。
「なぁ白猫。プールってのはな。四角い池の様なものなんだぜ?」
「え、そうだったの……」
自らの無知を恥じるように、彼女は顔を真っ赤にしながらうつむく。黒猫は彼女の肩を軽く叩きながら言った。
「やはり、プールを知らなかったか。まぁ、気にするな。無知は恥ずかしい事じゃないさ」
「ごめんなさい。あなたにも」
「き、きにしなくてもいいですよっ!」
白猫はカラスに向かって頭を提げる。慌てたカラスはつい、声が裏返ってしまっていた。
「ところでカラス、そのプールがある家へ案内してくれないか?」
「了解しましたぜ」
「行くぞ白猫、お前の家はもうすぐだ」
カラスを先頭に、二人は駆け出した。
「――――と、いう訳だ、マスター」
「なるほど、旦那も大変でしたね」
照明を暗くした、シックな作りのバーで一匹の黒猫がカウンターに腰かけている。
「まぁ、プールと言う存在を知らなかった白猫も、なかなかでしたよ」
隣に座るカラスが口を挟んだ。
「そうだなカラス。世界は俺たちが思っている以上に広い。ましてや、家の外に出たことが無いような、お嬢様にとっちゃとんでもない広さだろうな。にしても水じゃ酔えねぇ……」
結局黒猫が呑んだ酒代だけが報酬だったため、黒猫は先ほどから水しか呑んでいない。
「旦那、いつも自分に酔っているというのは?」
からかうように、トラのマスターは問いかける。
「馬鹿野郎、そんなもん酒を呑む俺に酔っている。って意味なんだよ」
「はいはい、わたしからの奢りですよ」
微笑みながら、マスターは酒を差し出す。それを一気にほとんど呑み干して、手にしたコップを小さな音を立ててそのテーブルへと置いた。
「悪いなマスター。いやぁ、やはり酒は最高だな。目を閉じればそう、いつか乗った船、という物を思い出す」
どこまでも青い空、どこまでも青い海。
水平のかなたへと向かう真っ白な船に、一匹の黒猫とカラス……
「確かに旦那は船に乗った時、げえげえ酔ってましたもんね」
水を差すカラスに一言、黒猫はつぶやいた。
「うるせぇよ」
黒猫探偵本日も営業中