13
小さな足で、勢いよく歩く。
この季節では屋外で語らう恋人たちもいないのか、バルコニーには人の気配はない。
まっすぐに進んでいたペルルが、やがて歩調を落とし、そして足を止めた。
「お風邪を召しますよ、姫巫女」
聞き慣れた、しかし今望んでいたものではない声を耳にして、肩を落す。
「ほら、部屋に入りましょう」
一歩後ろで止まり、オーリは更に言葉をかけてきた。
「……嫌です。戻りません」
我ながら、声が硬い。
「あの部屋に、とは言っていませんよ。この辺りの部屋は幸い空室のようですからね。どこでもいいですから、早く温まるべきだ。私の長衣をお貸ししても構いませんが、これを脱ぐとどうも間抜けな格好になるんですよ」
軽い口調で返されて、一瞬だけ笑んでしまう。
「でも」
それでも、と言いかけたところに、オーリは割りこむ。
「アルマは来ませんよ」
びくり、と肩が小さく震えた。
「グランが止めたんです。彼が場合によっては酷く過保護になるというのを、貴女もご存知でしょう?」
「……ええ。では、仕方がないですね」
ふらりと、ペルルは近くの扉へ向かう。部屋の中はオーリの言う通り無人だったが、暖炉と燭台には火が入っていた。
その暖かな空気に、身体の強張りが溶けていく。柔らかなソファに身体を沈めた。オーリも、近くの椅子に腰掛ける。
「怒っていますか?」
柔らかな声で問いかけられて、頷いた。
「苛立っている? 悲しんでいる? 苦しくて、胸が痛くて、それでも望んでいるのでしょう?」
一つ一つの言葉に、一つ一つ、頷く。
青年が、軽く手を広げた。
「ならば、諦めることですよ、ペルル」
呆然として、オーリを見詰める。実に軽い表情のまま、彼は言葉を継いだ。
「私たちは、巫子だ。そして、彼は貴族です。住んでいる世界が違うんですよ。決定的に」
「そんな……」
無造作に突きつけられた言葉に、声が掠れる。
「貴女が、どれほど舞踏会に憧れて、ダンスを楽しみにしていたのか、彼は絶対に判らない。貴族には、ダンスなんて挨拶の延長みたいなものなんです。誘われれば滅多なことでは断らない。断ると波風が立つものですから。アルマも仕方がなかったのでしょう」
「仕方ない……?」
話の流れがいきなり飛んだようで、ペルルは繰り返した。
「ああ。彼は、申しこまれた方でしたよ。聞いたこともないですけどね、女性側から申しこみだなんて」
何かを思い出したかのように、青年は小声で笑う。
「でも、そんな、一体どうして」
混乱して呟いていたペルルが、はっとしてオーリを見据える。
「……盗み聞きしたんですね?」
咎めるような声に、青年は肩を竦めた。
「彼が窮地に陥っていたら、助けてあげないといけないですからね。ですが、まあ、どうして彼も流石に貴族ですよ。私の手は必要ないようだ」
あの、百人は下らないだろう人数のいる大広間で、しかも音楽も鳴り響き、彼自身多くの貴族と会話をしていながら、更にアルマのことまで気を配っていたのだ。
そんな風に世界を聞く、というのはどんな気分なのだろう、と、こんな時ながら不思議に思う。
「ですが、女性の方から申しこみをしてまで、皆様アルマと踊りたかったのですよね」
ふいに、胸の奥が重くなって、呟く。
「貴女にさえ判るその意図が、彼はさっぱり判っていませんでしたけどね」
オーリは笑みを絶やさない。
「え、でもアルマは貴族なのですし」
彼の言う言葉は、意味が通らない。
「そうですね。アルマは、ある意味特別でしょう。……私は、イグニシアの宮廷の舞踏会で、彼を見ました。申し訳ないが、今夜の舞踏会とは比べ物にならないほどの規模だった。なのに、アルマは、たった一人だったのですよ。ただ遠巻きにされ、殆ど誰にも話しかけられずに。彼にとって、社交界というのが楽しい場所でないことは確かです。あの子は、まだ、十六歳だというのに」
オーリは、もう笑っていなかった。最後の言葉を、ぽつりとつけ加える。
「ノウマード……」
「グランが過保護になる訳ですよ」
そう言って、思い出したかのように青年は苦笑した。
「だから、ペルル。お諦めなさい。彼はそういう世界の人間なんです。それを認めて、彼に対処する方がずっと建設的だと思いますね」
暖炉で、炎が小さく爆ぜる。
扉の向こう側からは、華やかな笑い声が聞こえてくる。
オーリは、穏やかな笑みを浮かべている。その表情のどこにも、深刻さの欠片もない。
でも。
「……でも、それでは、アルマが辛い思いをしているままということになります」
「貴女は水竜王の巫女だ。〈魔王〉の裔であるアルマにその慈悲を与える必要はないのですよ」
「これは、巫女としての思いではありません」
ペルルは、きっぱりと言い切った。
幼い日に竜王宮へと仕えて以来、初めて、彼女はその心を竜王以外へと向けているのだ、と。
オーリの笑みに、狡猾なものが混じる。
「ならば、もっとずるくなることです。貴女が辛い思いをしたのも事実なのですから、これからアルマに存分に償わせておやりなさい」
きょとんとして、ペルルは目の前の青年を見詰め返した。
「……貴方が本心では一体何を考えているのか、いつか教えて欲しいものね」
半ば呆れて、呟く。
オーリは、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「おや、姫巫女。私を誰だとお思いです? 遥か昔から、吟遊詩人は常に恋する乙女の味方でいるものですよ」
まあ、と呟いて、ペルルが小さく笑う。
「お気が向かれたら、一曲いかがですか? つれない殿方を嘆く姫君たちの恋歌など」
「そんな歌があるのですか?」
少しばかり意外で尋ねる。
「恋心というのは実に変幻自在ですからね。リュートがないので、歌のみになりますが、まあご容赦ください」
時間が経過するのが、恐ろしく長く感じる。
いつペルルが帰ってきても判るように、バルコニー側の窓を細く開けて、アルマはその傍に座っていた。
ふいに、そこから、細い歌声が漏れ聞こえてくる。
「……ノウマードだ」
小さく呟いた。あの青年の歌声は、実際聞き違えることなどない。
「あいつ、目立つのが嫌だとか言って、結構そうでもないよな」
クセロが呆れたような感心したような口調で零した。
「奴はどう転んでもフルトゥナの民だ。歌うことが魂に染みついている。機会を逃すようなへまはしないさ」
グランが、特に感情も籠めずに言う。
大広間のざわめきが、少しずつ小さくなってきている。
アルマが立ち上がった。
「騒ぎになる前に、ペルルだけでも連れ帰ってくるよ」
さらりと、酷く恩知らずなことを告げる。それに応じて、グランが無造作に片手を振った。
「上手くやれよ」
その夜、一行は城塞に宿泊した。
竜王宮に帰ってもよかったのだが、翌日は貴族たちと会議だ。また戻ってこなくてはならない。城主一家に、是非に、と望まれたこともある。
他にも、スクリロス伯爵とサピエンティア辺境伯が逗留中だ。郷司たちは、城下に屋敷を設けている者が殆どであり、明け方頃にそちらへ帰っていった。
翌朝、完全に陽が昇った辺りに目を覚ます。櫃に用意されていた服を適当に借り、アルマは彼らに与えられた西翼の廊下を歩き出した。カタラクタの建築様式は、イグニシアのものとは多少違うために興味深い。
だが、基本的なところは似たようなものだ。似たような生活をするからかな、と思いながら、彼は居間へと足を踏み入れた。そこには、既にグランとオーリ、プリムラが座っている。
「おはよう、アルマ」
「おはよう」
「よぅ」
軽く挨拶を交わし、椅子に座る。プリムラがすぐに紅茶を淹れてくれた。
「ペルルとクセロは?」
「まだ顔を見ていない。疲れているのだろう、寝かせておけ。どうせ、貴族たちが起きてくるのは午後だ」
頷いて、紅茶のカップを手に取る。温かな湯気からは、花の香りがした。
「今、昨夜の感触を話し合っていたところだ」
「どうだった?」
グランの言葉に、身を乗り出した。まず、オーリが口を開く。
「私が話した郷司たちは、あまり乗り気ではない感じだ。去年の収穫は、飢饉とまではいかないが不作だった。大きな原因は、戦争に備えて男手を取られたからだ。今年もまたそうなれば、更に減ってしまうだろう。今度は飢える者も出るかもしれない」
確かに、不作というのは反対するに足る理由だ。農業国であるカタラクタでは、収穫量の高さは、ほぼ、財力の高さに等しい。
「こちらも似たような感じだった。不作に対する不安の方が、イグニシアの支配に対する不安よりもまだ大きいんだろう。その支配が、通常のレヴェルであるのなら、だが。龍神の残虐さを煽って、時間がない、と急きたてるしかないな。事実、半年経って、未だに休戦協定が結ばれていない、というのはこちらにとって幸運だった」
「君が行方をくらましたから、イフテカールが簡単に動けなくなったんじゃないか?」
茶化すように、オーリが告げる。
「あれがそんなに生易しい相手か。むしろ、竜王の高位の巫子が揃って行動している今の方が、奴にとっては脅威だ」
「なら、ますます動けなくなるってことかな」
にこやかに、青年は呟いた。
「機嫌がいいな」
「私が彼に恨みを持つのは、至極正当なことだと思うんだよ。彼が私たちに怯えて動けないことに歯噛みしていると思うと、うきうきするね」
「まあ、妥当だな」
さらりと認めて、グランはアルマに視線を向けた。
「お前はどうだ?」
「俺と深刻な話をするような貴族はいないよ。〈魔王〉の血を引いてるからって、まだ十六だぜ。印象だけなら、露骨に不愉快だって態度を取られなかったぐらいかな。ただ……」
眉を寄せ、報告する。言葉を濁した少年を、竜王の巫子たちは興味深げに見詰めた。
「ただ?」
「いや。気のせいだと思う。多分」
「アルマ。気づいたことは全部話せ。どんな小さなことでもだ」
グランが更に促す。アルマは困ったように肩を竦めた。
「判らないんだよ。郷司たちと話していて、なんだか違和感があったんだけど、それが何からくるのか、さっぱり判らない。後ででも判ったら、すぐに話すようにするからさ」
僅かに不満そうに、だがグランは頷いた。
午後も半ばを過ぎて、ようやく会議が召集される。
会議室のある棟へと歩いていたときに、横合いの通路から誰かが現れた。
「アルマナセル様!」
見ると、アルデアの子息、パッセルだ。
「パッセル殿」
そちらを向いて、丁重に一礼する。
パッセルはアルマの前まで小走りに近づいてきた。
「ちょうどよかった! これから、皆様と午後のお茶会をするのです。アルマナセル様もどうぞご一緒ください」
嬉しそうに誘ってくる少年に、僅かに虚を衝かれる。
「あ、いえ、私はこれからお父上方と会議がありますので」
戸惑って断ると、パッセルは見るからにしゅんとした。
「お仕事、ですか?」
「ええと、はい」
彼の意図が読めなくて、戸惑う。
「判りました。でも、また明日ご一緒してくださいね」
「そうですね、何もなければ」
アルマの返事にぱっと顔を明るくして、パッセルは身を翻した。一度こちらを向いて手を振ってから、また走っていく。
「……何だろうな」
「人気者なんじゃないか?」
ぽつりと呟いたところに、傍観していたオーリが返した。
「嫌味か」
溜め息をついて、アルマは再び足を進めていった。
会議は、基本的には六日前にモノマキアの領主へ話をしたような流れになった。
だが、相手取る人数が違う。今回は藩を預かる領主が三名、郷司は十四名にもなる。
それだけの人数を纏めるのは、無理難題だ。しかも、一度目の会議で。
「ともあれ、何を置いても新たなる竜王の存在を信じられなくては、何もできまい。巫子には、地竜王に拝謁できるようにとお願いしている。竜王の巫子の皆様、いつならば宜しいですかな?」
アルデアの言葉に、グランが口を開く。
「いつでも結構だ、伯爵」
頷いて、領主は言葉を続けた。
「では、明日の午後、皆で私の狩猟場へ参りましょう。今の季節は猟には向きませんが、上手くいけば大きな獲物が獲れそうですからな」
数時間かけても殆どの貴族が難色を示す中、アルデアは最後にそう纏めた。
その後、三領主の家族と郷司たち、そして巫子一行の、こじんまりとした晩餐が終わり、酷く疲れた気分で西翼へと戻る。
「前途多難っぽいな……」
盗み聞きを防止した後で、アルマは小さく呟いた。
「そうでもない。肝心なのは明日だが。派手にやっていいぞ、クセロ。地竜王にもそうお伝えしておけ」
「派手ってのは好きじゃねぇんだけどよ、大将……」
ぐったりとソファに沈みこんで、クセロはグランの檄に零した。
「詐欺だと思えばいいんだよ。得意なんだろう? 物事を実際よりも大きく見せて売りこんで、相手が得をしたと思いこませればいい。腕のいい詐欺師なら、顧客が喜んでこちらの話に乗ってくるものだ」
「お前も大概詐欺師みたいなものだよな」
オーリの言葉に、アルマが胡乱な視線を向ける。ペルルがくすくすと小声で笑っていた。
「私が?」
目を見開いて、吟遊詩人は僅かに傷ついたような表情を浮かべた。




