08
屋敷の正面玄関前の車寄せに、馬車が停まる。
そこにはアゴラ大佐とテナークスとが、揃って険しい顔で出迎えていた。
「アルマナセル殿……!」
馬車を降りるのを待たず、苛立った声がかかる。
「テナークス殿、姫巫女を部屋へ。アゴラ殿、話は中でお願いします」
事務的にアルマが指示を出す。ペルルが、何か言いたげに、それでも抗うことなく従った。
廊下を無言で歩き、公的な応接間の一つへ向かう。扉を閉じた途端にアゴラが怒声を上げた。
「ならば、やはり何事かあった訳ですな?」
「ええ。護衛兵をお貸し下さってありがとうございました」
アルマたちからやや遅れて、竜王宮へ護衛兵を送りこんで貰うように事前に頼んでおいたのだ。自分の隊を連れていくのは、一応この町を任されているアゴラの顔を潰すことになる。何事もなければ、嫌みを聞き流すぐらいで済むのだし。
事の次第をアルマから聞かされるにつれ、アゴラの顔色は赤みを増した。
憤然として歩き回る男を、勝手に椅子に腰掛けて少年が見つめる。
「お怒りは尤もですが、アゴラ大佐。彼の処分に関してはハスバイ将軍にお任せすることをお勧めします」
「だが、事はこの街で起こっているのだ! そしてこの街に対する全権は私に任せられている!」
男の怒声に、片手を上げて宥めた。
「現在、フリーギドゥムでは休戦協定の話し合いが始まっている頃でしょう。リートゥスの件は、こちらにとって有利な条件になり得ます。早まって取り返しがつかない処分をしない方が賢明です」
怒りに支配されながらも、アルマの言い分が理に叶っていることは理解できたらしい。低く唸りながらも、アゴラは反論してこない。
「ですが、背後関係はしっかり調べて頂けますか。私たちも、この先突然に襲われることを恐れ続ける訳にはいきません」
生粋の軍人であれば決して口にしないであろう気弱な言葉に、アゴラはやや気持ちを取り直したようだった。
屋敷の主との話し合いを早々に切り上げて、アルマは客室のフロアへ向かった。
ノックもせずに、いきなり扉を押し開ける。
僅かに驚いたように、ノウマードは椅子から立ち上がりかけた。
「いったい……」
大股に入りこみ、だん、と片手をテーブルに叩きつける。
「お前は、何をどこまで知っている?」
小さく息を漏らし、すとん、と青年は椅子に腰掛けた。
「幾ら何でも唐突すぎないか?」
だが、アルマは聞く耳を持たない。
「昨日、街に出るのは気をつけろ、と言っただろう。お前は俺たちの行動を知らない筈だ。何故、そんなことを言ったんだ?」
「一昨日までだって、会えば同じ忠告をしたと思うよ。でも、会えなかったのは私のせいじゃないしね?」
からかうように見上げてくるのに、苛立ちが募る。
「同じことだ。何故、そんな忠告をする? 何か情報を掴んでいなければ、そんなことはしないだろう」
「あのね、ここに着いて以来、私がこの階から出られないように取り計らっていたのは君たちだろう? どうやってそんな情報を手に入れるっていうのさ」
呆れ顔で返されるが、アルマの疑惑は治まらない。
「手はある。お前は、ハウスメイドとの接触はできた。彼女たちは、当然外部の人間と関わりがある。情報は幾らでも手に入れられた」
「だから、どうやって彼女たちから情報を聞き出すんだい? 言っておくけど、身体に訴えかけるとかはしてないからね」
ノウマードの瞳がやや険を増した。昨日の会話を思い出して、少しばかりアルマは怯む。
「……ロマは、イグニシアを憎んでいる」
少年の言葉に、青年が小さく肩を竦めた。
「それで?」
「カタラクタの民と、利害関係はあるだろう」
「矛盾しているよ、アルマ。私とここの住民がイグニシア憎しで悪巧みをしたとして、その情報からどうして君に忠告しないといけないんだ?」
「…………あれ?」
眉間に皺を寄せて、アルマは呟いた。呆れたように、ノウマードが溜め息を漏らす。
「座ったら?」
促されて、すとん、と椅子に腰を下ろした。見回すと、この部屋にはテーブルが一卓に椅子が二脚しかない。部屋の片隅には寝台が置かれていて、どうやら彼の居住する部屋はこれ一つきりのようだ。
「ええと……。とりあえず、話を戻そう。そもそも、どうして昨日あんなことを言ってきたんだ?」
「そうだね。軟禁されていても、風は吹いている。耳を澄ませれば、大抵のことは判るものさ」
「からかうなよ。竜王の加護を失ったって、お前が自分で言ったんだろうが」
憮然として反論する。
ノウマードは椅子の背に体重をかけた。軽く腕組みをして、こちらを見つめてくる。
「アルマ。君は、この三百年の間に何を学んだ?」
唐突に話が変わって、アルマは数度瞬いた。
「フルトゥナを滅ぼし、支配する目論見だった土地も民も手に入れられず、そこから一体何を学んだんだ? 王国の庇護と風竜王の加護を失い、流浪の民となったロマを、その怨みをただ警戒するだけなのか? まさか同じことを繰り返すために、カタラクタへ侵攻した訳じゃないだろう。三百年だ、アルマナセル、三百年。君は、一体何を学んできたんだ?」
真剣な声が、その視線が、アルマを離さない。
数度口を開きかけて、結局少年は溜め息を一つついた。
「知らねぇよ。俺は、三百年前に生きてた訳じゃない」
ふ、とノウマードが瞳を伏せる。
「それはそうだね。すまない」
そのまま、夕暮れの迫る窓の外を眺める。視線を向けず、ノウマードは続けた。
「簡単に言うとね、アルマ。推測しただけなんだよ。イグニシア王国は、宣戦布告した当初から、高位の巫女の身柄を引き渡すようにと要求していた。カタラクタ王家の誰でもなく。彼女が、イグニシアにとって何か利用する価値があることは間違いない。ならば、その真意は判らなくても、巫女を渡したくないというのは、カタラクタの民からすれば当然のことだろう。信仰心は抜きにしても、ね。この屋敷は元々の占領軍と、君が率いてきた隊とで警備は万全だ。忍びこんで連れ出すことは難しい。なら、君たちがここから出て行った時が唯一の隙だと思ったのさ。そもそも君が出かけなかったり、この街でなにも仕掛けられなかったら、それはそれで全然構わないのだし」
眉を寄せて、アルマはその言葉の一つ一つを吟味した。
筋は、通っている。
「で、やっぱり何かあったのかい?」
「秘密だ」
興味深げに訊いてくるのを、ばっさりと拒否する。
「……ノウマード。お前は、俺たちを怨んでないのか?」
今まで、訊くことをある意味最も恐れていた言葉を、口にする。
イグニシア王国は、王国軍は、そして〈魔王〉アルマナセルは、元フルトゥナ国民の怨みを背負っている。
ロマに極力近づかないように暮らしていたのは、そのせいでもあった。
もうすっかり見慣れた仕草で、ノウマードは軽く肩を竦める。
「私一人が君や君たちを怨んでいようが呪っていようが、痛くも痒くもないだろうに」
「答えになってねぇよ」
「私は無駄なことは極力しない主義なんだ。三百年前だよ、アルマ。怨みを持っていたって、何の意味もない」
その言葉に、あからさまに鼻を鳴らす。納得できないが、この青年から納得できる言葉を引き出せないのは判っていた。
立ち上がり、ノウマードを見下ろす。
「明日の出発は早朝に変更される。寝過ごしたら置いていくぞ。忘れ物をしても取りに帰れないからな」
「私の荷物なんて、鞍袋一つと弓矢とリュートだけだよ」
軽く答える青年を背に、部屋を出る。
「……無駄だとしても、投げ出せないことはあるんだけどね」
徐々に暗さを増す窓辺で、一人、ノウマードは呟いた。
翌日、朝霧の立ち籠める中、彼らは出立した。
実際に姫巫女を誘拐されかけた今、軍は非常に慎重になっていた。旅の商人と行き違う時でさえ、何人かの兵で人や荷を改める。
その後、ペルルとアルマの間で、殆ど会話は交わされなかった。
食事は他の者たちと一緒に摂るため、二人きりになる時間が少なくなったせいもある。
しかし、どうしてもぎくしゃくとした空気が、重い。
そうして進んで行くうちに、数回、街を通過した。
全く立ち寄らないという選択肢はない。だが、オスフールにいた時ほど長期間にはならないよう、事前に決められ、用意された物資を積みこむだけの日数となった。
その辺りはアゴラが先に手を回してくれたらしい。アルマの仕事も、受け取りにサインをするぐらいに減ったので、それはそれで楽だったが。
そして、軍ではない人間、ペルルや侍女、そしてノウマードは街の中ではハウスメイドですら接触できない状況に置かれることになる。
「使徒様は苛立っておられるようだ」
静かに伝えられた言葉に、血の気が引く。
「お怒りなのか?」
「そうではない。そんなお心を伺わせる方ではない。……伺わせるべきではないのだ」
窘めるような言葉に、頷く。
言われたことを、目に見える感情をそのまま受け取るだけの人間では、あのお方の役になど立てない。
押し殺した息を吐く。
「……次は、必ず」
「我々もそう願っている」
そんな状態で半月ほどが経った時、行軍時に馬上で変わらずリュートを爪弾いていたノウマードの手が、ふいに止まった。
「どうした?」
何故か、いきなり呆気に取られた青年を見咎めて、問い質す。
「いや……。先刻から、何だろうとは思ってたんだけど」
戸惑いがちに言いながら、漠然と前方を指し示す。
「あれが、ひょっとしてクレプスクルム山脈?」
前を歩く兵士や荷馬車を透かし見る。地平線の端に、ぼんやりと影が現れていた。
「ああ、もう見えてきたのか」
あっさりと認めると、珍しく驚いたような顔のまま、尋ねてくる。
「山の近くは森林地帯になってると聞いているけど、この辺はまだ違うよね」
確かに、今進んでいる辺りは平原が広がっている。
「森なら、多分あと二、三日で着くだろ」
往路でかかった日数をざっと考えて答える。
「それだけ距離があるのにもう山が見えてくるって、一体どれだけ高いんだ……」
溜息混じりに呟かれる。
「まあ一応世界一の高さだって話だからな。お前、見たことなかったのか?」
「こっちに来るのは初めてなんだよ」
会話は聞こえているのだろうが、ペルルはカーテンを開けて外を見ようとはしなかった。
翌日、街道の先から土埃が立ち始めた。
斥候に出ていた兵士が報告するには、イグニシア王国軍の補給部隊が近づいてきているということだ。
アルマは、テナークスを伴い、部隊の先頭に立った。
向こうも自隊の斥候から報告を受けていたのだろう、マントに少尉の紋章をつけた男が補給部隊を率いて進んできている。数メートル離れたところまで来ると馬を止め、敬礼する。
「お初にお目にかかります。ラプロ少尉です」
「レヴァンダル大公子のアルマナセルとテナークス少佐です。今期はどれほどの数になりますか?」
勿論、この少尉が率いる隊のみでイグニシア軍の全てを賄える訳ではない。一日おき程度のペースで、補給部隊が派遣される。
「今期の部隊は八ほどですが、冬に向けてクレプスクルムの麓の集積所は満杯になっています。タイミングによっては野営地の空きがないかもしれません」
僅かに申し訳なさそうに、相手は告げた。
「運がいいことを祈りましょう。こちらは、オスフールで水竜王の姫巫女が誘拐されかけました。反抗勢力が形成されつつあるかもしれない。充分警戒してください」
アルマの言葉に、ラプロ少尉はさっと真顔になって頷いた。
街道は、陸運の要だ。荷馬車の数台がすれ違うことなど容易い。
が、それが長い隊列を成しているとなると、途中で混在しかねないため、彼らは街道の中央に距離を設けて、互いの目的地へと進んで行った。
一日に一隊程度の部隊と遭遇しながら、行軍する。
やがてはっきりとクレプスクルム連峰が地平線に見えてきた。既に森林地帯に入っているが、街道の左右はそれぞれ二百メートルほど開墾されているので、見通しはいい。
それでも落葉は風に乗って運ばれ、馬の足や馬車の車輪に踏まれて乾いた音を立てていた。
クレプスクルムの集積所が近づいた辺りで、テナークスが一小隊を連れて先行する。部隊が着く前に、野営地の空きを確認しておく必要があるからだ。
もう一時間ほどで到着する、という辺りで、兵士が一人駆け戻ってきた。
どうやら、何とか場所を空けてくれていたらしい。安堵して、そのまま進む。
集積所は、元々この地にあった税関を利用していた。
クレプスクルム山脈は、イグニシアとカタラクタの国境だ。双方の国家は、商人たちに課税するための建物を建て、荷馬車を待たせるための土地を切り開いて、丸太で高い塀を築き、ぐるりと囲んだ。
今、その場はイグニシア軍の補給部隊で一杯だったが。
待ち受けていたテナークスに部隊を任せ、集積所の責任者と話し合う。
「あと一月もすれば雪が降りそうなので、本国から急ピッチで物資が届いています。これで、できる限り春まで持ちこたえなくてはなりません。まあ、船で湖から運ぶという手段もありますが」
ですから、と責任者は机に広げた地図に指先を這わせた。
「ここから荷馬車が通れる広さの山道は、三本。そのうち一本の道を、一週間、空けてあります。山道で軍がすれ違う危険は、街道の比ではありませんから」
「お気遣い、感謝します」
その一週間で山越えをしなくてはならない。アルマにはぴんとこないが、補給部隊の統括者が計算したのだ、多分間に合う時間なのだろう。
「日が暮れる前に待避所に着くように気をつけてください。これだけの人数が山道で野営はできません。あと、一週間が過ぎると、貴方がたを待たずにイグニシア側から補給部隊が出発します。まあ、一日遅れる程度ならもう麓近くまで進んでいるでしょうし、さほどの危険はないでしょうけど」
責任者も、アルマが素人だということは知っている。丁寧に注意点を述べてきた。
多分彼の前に副官にも詳しく説明しているはずだ。
それでも真剣に、アルマは話を聞いていた。