03
「……は?」
思いも寄らない言葉に、誰からか呟きが漏れる。
「一体今まで何日、風呂に入っていないと思っている。冬場ではあるし、船に乗っていたからと大目に見ていたが、ようやく文明に戻ってきたからな。幸いここには浴室が複数ある。遠慮しないで徹底的に磨いてこい」
腕を組んで言い放つ言葉に、女性たちはぱっと顔を明るくさせた。
が、残る者たちは釈然としていない。
「そんなに臭うのかな?」
「グランは昔から鼻がよく効くんだよ」
「どっちかってーと、馬の臭いじゃねぇか?」
と言っても、ここしばらくは、直前の三十分ほどしか馬には乗っていない。説得力のない台詞を言って、クセロは視線をグランに向けた。
「悪ぃがおれはパスだ、大将。石鹸の臭いをさせていたら、下町じゃ目立って仕方ない」
その言葉にむっとした表情にはなったが、しかし言い分は容れたらしい。グランは軽く頷いた。
「それじゃ、ま、ちっと行ってくる」
男は懐から取り出した布をぞんざいに頭に巻いたが、そこからはみ出してきた前髪に露骨に眉を寄せた。乱暴に一度解く。
「ああ、クセロ。髪を切って戻ってくるなよ」
「何でだ?」
不思議そうに、クセロは尋ねた。正直、彼の髪は今までにないほど伸びていて落ち着かない。
「整えるなら、戻ってきてからやらせる。だが、お前の好みは少々短すぎるからな。それだけ色の濃い金髪だ、人前に出るならある程度長いほうが印象づけられる」
「目立つじゃねぇか!」
「それが目的だが」
クセロの反論に、僅かに首を傾げる。
「そもそも、勿体ないにもほどがある。僕の髪がそれだけの金髪だったら、今まで、もっと事が色々と楽に運んだだろうに」
幼い巫子は、僅かに羨ましげに目を細めた。
「君にそう言われると、私の立場が全くないねぇ」
栗色の髪を背に流したオーリが苦笑する。グランの銀に近い金髪は、それはそれで確かに結構目立つものだ。
『うむ。よい色ではないか。密な黄金のようで、わしは好ましいが』
「うわっ!」
突然響いた声に、各竜王の高位の巫子以外の全員が驚愕した。
クセロの頭の上に、もう見慣れた姿勢で地竜王が出現している。
トルミロスが目を見開き、ごくり、と喉を鳴らした。
「そりゃおれだって、金なら好きだけどよ」
微妙に違う方向に同意して、クセロは肩を落す。
「まあいいや。とりあえず、行ってくる。おやっさんはちょっと退いてくれ」
クセロの言葉に応じて、すぅ、と地竜王は姿を消した。もう一度布を巻いて髪の殆どを隠し、男は応接室を出る。
トルミロスが、ふぅ、と長く息を吐いた。
「あれが、地竜王であらせられると」
「ああ。まだ人の世に慣れておられない。いささか風変わりだが、致し方なかろう」
「どこへ行かれたのですか?」
周囲を見回しながら尋ねる。今にもその辺りから出てくるのではないかというように。
「竜王はこの世界のどこにでもおられる。今では地竜王もだ」
満足げに、グランは答えた。
入浴が済むと、流石にさっぱりする。
アルマの髪を整えるのに、屋敷の理髪師は角の扱いに苦戦していたが。
しかし、角が長く、太く成長してからは、それ以前に比べると少々ぶつけた程度では苦痛は感じなくなっている。成熟に伴って、角鞘が厚く、硬くなったのだろう、とグランは説明していた。
応接間に戻ると、トルミロスとドゥクス、オーリが話をしていた。
「いかがでしたか、アルマナセル様」
「ありがとう。すっきりしたよ」
柔らかなソファに腰を下ろす。控えていたハウスメイドが、紅茶を注いでくれる。卓の上には小さな焼き菓子が並べられていた。
この屋敷にいる者は、全てが火竜王に仕える巫子たちだ。門番や理髪師も例外ではない。
まあそうでなくては、アルマがこうして角を隠さずにいることはできないが。
「グランは?」
周囲を見回しながら尋ねる。
ペルルは女性であるし、身支度に時間がかかるだろうことは察せられたが。
「私と入れ違いになったからね。まだかかるんじゃないかな」
オーリが軽く答える。浴室が複数あるとはいえ、全員分あるわけではなかったのだろう。
「そうか。俺が後にすればよかったな」
少々気遣いが足りなかったか。
「グラナティス様は入浴で急かされるのがお嫌いですからね。いっそ後になった方が気が楽なのですよ。カタラクタの現状を報告する時間も取れましたし」
トルミロスが告げる。
「どんな感じなんだ?」
紅茶に口をつけつつ、訊いた。
「不安と不満は確実に存在しています。例えば、農村ですね。イグニシアが侵攻を始めたのが、去年の春です。これから種を蒔き始めなければならないというところで、男手が兵として徴集されました。ここは南部ですし、緊迫感はまだ薄かったですが、それでもいつ湖から攻撃を受けるか判りません。そのまま夏が過ぎ、秋も終わりになった頃に何とか休戦にはなりました。しかし、今年一年分の収穫量は、例年に比べると酷く減っています。
領主としても、税収が低くなったのに、兵を維持するための出費がある。今まで通りに王と、これから先はイグニシアに対しても税を納めなくてはならなくなる。彼らは更に、この地を追われる恐怖も持っています。イグニシアが自国の貴族を、カタラクタを治めるために遣わせば、今の領主はよくても地主扱い、下手をすれば放逐されるでしょう。
今、比較的不安を持っていないのは街の住人ぐらいなものですよ。それも、この先食料が少なくなり、他の物資が足りなくなり、イグニシアの支配下でどれだけ自分たちの利益が減るかを実感するまででしょうね。現に、イグニシア商人である私に接触してくる者たちが増えてきています」
「つまり、下地は充分か?」
アルマの問いかけに、トルミロスは頷いた。
「あと一押しがあれば。グラナティス様もそうお考えのようでした」
クセロは夜明けまでには帰ってきたようだった。朝、アルマが居間へ顔を出すと、小さな卓をオーリとプリムラと共に囲んでいる。
「おはよう、アルマ」
「おはようー」
「よぅ、旦那」
どうやらクセロは帰宅後、強制的に入浴させられたらしい。金髪がまだ湿り気を帯びていて、いつもよりも更に色が濃い。
「おぅ。おはよう」
近くの椅子を引き寄せ、座りかけてよろめいた。
「大丈夫か?」
それを見咎めて、オーリが尋ねてくる。
「ああ、平気だ。まだ船の上にいる感じがしてさ」
「結構長期間だったからねぇ」
彼らもそうなのだろう、小さく苦笑している。
「一晩寝たら治るかと思ったけど、結構ゆらゆらするな」
アルマがそう言って、卓の上に視線を向ける。そこには、モノマキアの街の地図が広げられていた。
それ自体は船の中にもあり、到着するまでの間に、クセロが裏道に至るまでを頭に叩きこんでいたものだ。
三人もそれに向き直り、話の続きを始めた。
「つまり、北広場からの脱出経路は、先刻の三パターンを覚えておけばとりあえずは何とかなる。逃げる時はプリムラの言う通りに動け。大体のやり方は教えてあるから。必要なところには手を打ったし、おれも一応近くにはいるつもりだが、何があるか判らないからな」
クセロの言葉に、二人が真面目な顔で聞き入る。
「よくまあ、一晩でそこまでお膳立てできるもんだな」
しかも、着いたばかりの街で、だ。半ば感心し、半ば呆れてアルマが呟く。
「世の中で一番説得力のあるものは、金なんだよ、旦那。無尽蔵の資金を使える機会なんざ、そうそうない」
「……いや、火竜王宮の資金は別に無尽蔵って訳じゃないぞ……?」
にやりと笑んで嘯く盗賊に、何となく不安を感じてアルマは釘を刺した。
「いつから始めるんだ? すぐにか?」
オーリが尋ねるのに、クセロは首を振る。
「朝は人が少ないからな。午後から、夜にかけてがいいだろう。その頃には、少しは石鹸の匂いも薄くなってるかもしれねぇし」
諦めた表情で、男は髪を一房、引っ張った。
午後を回った頃、イグニシアの商人、トルミロスの屋敷から、一台の荷馬車が出て行った。
帆布の幌で覆われた荷台は、中を透かし見ることもできない。
ごとごとと人ごみの中を街の中心部へと進んでいった荷馬車は、やがて、仲買人のいる建物の横へつけられた。御者がひらりと飛び降りると、建物の中へと入っていく。
そのすぐ後、幌の後部に下げられていた布が揺れ、中から三人の人間が降りてきた。彼らはそのまま人ごみに紛れ、姿を消した。
薄曇りの空の下、赤茶けた石で作られた街並みにぽっかりと開いた広場には、人がごった返している。
中央で交差する大通りには馬車や荷馬車が行きかい、その隙間を狙うように露店が立ち並ぶ。
ここは藩都だ。住人たちは殆どがお互いのことに興味もなく、冷えこんだ空気の中を足早に歩き去っていく。
そのロマが北広場に現れたのは、よく晴れた冬のある午後だった。
いつ、というのを覚えている人間はいない。さほど人目を引く風でもなく、露天商の並ぶ一角にいつの間にか立っていた。
誰も、彼らに気を止める者はいなかった。ロマの青年がリュートを構え、最初の音を奏で、豊かな歌声を響かせるまでは。
すぐさま周囲からの注目の的になったロマは、二十代半ばほどのまだ若い男だった。色鮮やかな衣服とマントを着て、額を一周するように布を巻いている。
彼が歌うのは、よく知られた恋歌だ。甘く余韻を残す歌声に、通行人たちが徐々に立ち止まる。
彼の傍らで踊っているのは、幼い少女だった。手首と足首を飾る真鍮の輪と、服の裾にも縫いつけられた鈴が、彼女が舞う度にちりちりと音を立てる。その音が、青年の歌と合わさっても決して耳障りにはならないのは、完全にリズムに合っているからだ。
どことなく薄汚れた子供たちが、周囲に集まり始めた。手拍子を合わせ、共に歌い始める。
さほど長くもない歌が終わり、子供たちが大きく歓声を上げた。口々に、次の歌を頼みだす。
嫌な顔一つ見せず、ロマはそれに応じて歌いだした。
普段ならロマを遠巻きにする住人たちは、彼が子供を一人連れているだけであること、また、周囲に街の子供たちがいることで少しばかり安心したのか、その周りに立ち止まり、彼の音楽に耳を澄ませている。
それを何度か繰り返したところで、一人の子供が一際大きな声を上げた。
「聞いたことのないのがいい!」
額の布に汗を滲ませた青年は、少しばかり思案して、頷いた。
「よし。じゃあ、誰も知らなかった物語はどうかな。遥か遠い昔に、実際にあったことだよ。間違いなく、カタラクタで聞くのは君たちが初めてだ」
踊り子の少女が、青年の傍らへと寄った。この曲では踊りはないらしい。やや古めかしい曲に載せて、青年の声と少女の高い声が緩やかに響いていく。
しん、として、周囲の人々はそれに聞き入った。初めて聞く曲ということで、手拍子も共に歌うこともできなかったからではある。
だが、何よりも、その勇壮な竜王の歌に聞きほれていたからだ。
イグニシアから侵攻を受け、その支配下にある国は、例えまだ平穏な土地であったとしても、密かに不安と不満が燻っている。強大な龍神に立ち向かい、それを斃す地竜王へ、人々は歓声と喝采を上げた。
やがて陽が暮れ始め、ロマが観客から集めた僅かばかりの硬貨を手に、広場から姿を消す。
周囲に陣取っていた子供たちは、広場を駆け抜け、ある路地へと吸いこまれていった。
「よしよし、よくやった坊主ども」
そこで待ち構えていた金髪の男が、子供たちの薄汚れた掌へ小銭を落していく。
クセロは、前日に彼らに仕事を持ちかけていたのだ。
広場で歌うロマの周りで人目を引き、一人でも多くの人間を惹きつけろ、と。
まだ『仕事』を上手くやってのけられない年齢の子供には、二、三時間で銅貨十枚程度の収入でも酷く魅力的な話だ。それを、クセロはよく知っていた。
「ねえ、あのロマ、明日も来る?」
「おぅ、何日かはいるぞ。今日よりも人を集めたら、ちょっと上乗せしてやってもいいぜ」
やった、と子供たちから歓声が上がる。
「また、あの竜王の歌、歌うのかな?」
「かっこよかったー!」
「悪い奴をやっつけてくれる?」
あの歌は、元々の叙事詩とは違う。オリヴィニスと風竜王宮の親衛隊がずっと簡略化し、歌いやすく、判りやすいように改変したものだ。幼い子供たちにも理解できるように。
口々に、子供たちに問いかけられ、実は子供にあまり慣れていないクセロは内心怯んだ。
「あー、歌うんじゃねぇかな。もっと格好よく歌うように言っておくよ」
早口でそう告げると、ぱん、と手を叩く。
「ほれ、もう暗くなるぞ。ガキどもは家に帰らねぇと、人買いに攫われるぜ」
「人買いなんてやっつけるしー」
「暗くたって怖くなんかないもんねー」
きゃあきゃあと声を上げながら、子供たちはそれでも走り去っていった。クセロが疲れたように息をつく。
「……格好いいってよ。おやっさん」
そして苦笑して、男は小さく呟いた。




