16
意外と、ことが一番順調に済んだのはペルルだった。
朝食の席に彼女が笑顔で現れたのを見て、ほっとする。
「上手くいきましたか?」
「はい」
アルマの問いかけに上機嫌で答えてくる。
心からの、嬉しげな笑みを絶やさない彼女に、ちょっと、ほんの少し、僅かばかりの嫉妬を感じないと言えば嘘にはなるが。
しかし、ペルルが水竜王の姫巫女であることは、最初から判っていたことではある。
彼女の心痛の種が一つ減ったことを、素直に喜ぼう、と自分を納得させた。
それよりも問題なのは、ぽっかりと空いた二つの席である。
「グランたちは苦戦しているんですかね」
アルマが零した言葉に、ペルルが顔を曇らせる。
「水竜王様も、最初に請願した時にはあまりいいお返事を頂けませんでした。火竜王様は頑固だとおっしゃっていましたし……」
グランはともかく、オーリはあまり手間取らないだろうとも思っていたのだが。
本人が乗り気ではなさそうだったのが原因か。
まあ、どれほど気を揉んでも、彼らは待つよりないのだが。
オーリが姿を現したのは、午後を回った辺りだった。
アルマは、自室でペルルと静かに話をしていた。椅子が足りないので、プリムラはどこからか持ってきた小さな箱の上にちょこんと座っている。
まあ、嵐にでも遭わなければそれでも危険はないだろう。
そこへ、細く開けておいた扉を無言で開き、風竜王の巫子が入ってきたのだ。
「ノウマー……」
驚いて声をかけようとするが、その形相に途切れる。
青年は目の下にくっきりと隈を作り、非常に苛立たしげな顔で立っていた。
「終わったよ」
憮然としてそう言うと、壁際に置かれた寝台の上にどすん、と座りこむ。
「……大丈夫か?」
「大丈夫だとも。私とニネミアの間に、決定的な亀裂は生じていないよ。まだ」
おずおずとアルマが尋ねたのに、酷く自嘲気味の笑みを浮かべて、刺々しく答える。
自分のせいじゃないんだけどな、と思うが、グランが未だ部屋から出てきていない以上、八つ当たりする相手がいないのだろう。
「全くもう、竜王というのは本当に意固地だ。ニネミアは結構融通が利くと思ってたけど、一体何が彼らにとって超えられない一線なのかね」
「それでも、賛同して頂けたのですよね?」
ぶつぶつと零すオーリに、ペルルが心配そうに尋ねる。
「勿論ですよ。ここを乗り越えないと、この世界の民に未来はない。ありとあらゆる手管を行使して、ようやく御力を頂けた。全く、結局は私の言う通りになるのだから、最初から素直に折れていれば手間が省けるのに」
その、ある意味不敬な言葉に、少なからずペルルが怯む。
「何か……、意外だな。お前と風竜王は、もっとこう、仲がいいんだと思ってたよ」
言葉を選びながら告げるが、それは更にオーリの神経に障ったらしかった。
「仲? 何を言ってるんだ。いいに決まってるだろう。私はニネミアを心から敬愛しているし、生命を捧げる相手は他にいないと決めている。私が今もこうして生きている以上、おそらく、願わくばニネミアも同様だろう。だけど、愛している相手にだって、苛立たしい思いを抱くことはある。それだけだ」
青年が続けざまに放った言葉に、胸を衝かれる。
彼らは歳若い、というよりはまだ幼い。
漠然と、愛というものは相手を尊重し、全てを許容するべきものなのだ、と考えていた節がある。
心騒がせる若者たちをよそに、オーリは大きく欠伸をすると、ばたん、と後ろに倒れこんだ。
「ノウマード?」
「疲れた。寝る」
短く告げられて、慌てて立ち上がる。
「ちょっと待てよ、おい! 寝るなら自分の部屋で寝ろ!」
「やだ」
目を閉じ、身体を弛緩させたオーリはもう寝る気充分だ。
「やだって、お前なぁ……」
嫌がらせだろうか。そんなことを思ったところで、ぽつりと青年が言葉を漏らした。
「あの部屋には、まだニネミアの気配が残ってるから、嫌だ」
絆される、と、小さく、小さくつけ加えた。
アルマが、呆れて溜め息をつく。
全く、この巫子は、彼の竜王に関することにだけは酷く子供っぽい。
「お前、せめて真っ直ぐ寝ろよ」
寝台に対して横向きで、しかも毛布の上である。床に投げ出した足は、靴を履いたままだ。だが、オーリはその忠告を聞き入れなかった。
「気にしないでくれ。夜までには起きるよ。……おやすみ」
彼の処遇を決断しかねて、同席者を振り返る。ペルルは少々戸惑ってはいるようだが、それでも小さく微笑んだ。
「起きろ」
不機嫌な声で、アルマは深夜に起こされた。
ぼんやりと霞む視界に、見慣れた表情の少年が立っている。
「……グラン?」
事態が把握できなくて、呟く。
「準備は終わった。明日、夜が明けたら地竜王に接触する。皆にそう伝えておけ」
見下ろしながら、傲慢に告げるグランには、やや疲れが伺えた。
不審を覚えて、問いかける。
「何で今、俺にそれを言わないといけないんだ?」
「お前が気楽に眠っていたからだ」
「八つ当たりかよ!」
反射的に上体を起こして怒鳴り返すが、グランは小さく鼻を鳴らしただけだ。
「しかし……、随分かかったな」
アルマの言葉に、鈍く笑う。
「我が竜王は手強いからな。そうそう簡単に屈する方ではない」
「自慢なら巫子同士でやれよ」
少しばかりうんざりして零す。
「俺が言いたいのは、こんなに時間がかかるんなら、もっと余裕のある時期に前もって用意しておけばよかったんじゃないかってことなんだが」
しかし、幼い巫子は呆れたように相手を見下ろした。
「それでもしも地竜王が見つからなかったら、無駄に三竜王に楯突くことになっていただろう。僕だって無意味に波風を立てたい訳じゃない」
意外と保身に走る人間だった。
「……とはいえ、明日、思う通りにことが運ばなかったら、結局無駄に楯突いただけになってしまうのだがな」
僅かに眉を寄せて、グランはそうつけ加えた。
よく晴れた朝だった。
甲板に人が集まり始める。
他の三艘の船は、もしもこの場所が空振りだった場合に備えて、未だ各々の目印としての場所から動いていない。故に、この歴史的な朝に立ち会うのは一部の竜王兵だけだった。
三人の巫子が、真綿に包まれた水晶球を手に、集まる。ほのかに光を滲ませるそれを、一つの革袋へ入れた。厳重に、口を革紐で縛り上げる。
「行けるか」
短く、グランが問いかけた。青褪めた顔で、それでもクセロが頷く。
革袋を受け取り、革紐を手首に巻きつける。
ごそ、とオーリはマントの中を探った。取り出した短剣を、無造作にクセロに差し出す。
「持っていきなよ」
「おれのはあるぜ?」
戸惑ったように男は問い返した。
「護り刀みたいなものだ。これは元々、火竜王宮から借りたものだしね。気持ちの支えぐらいにはなるだろう。君が戻ってきたら、返して貰えればありがたいけど」
苦笑して、クセロがそれを受けとった。腰に巻いているベルトの隙間に挟みこむ。
「では、これから、お前自身にも竜王の御力を分け与える。正確には、お前の周囲に、だが。水竜王の御力で、お前の周囲に浸水しない領域を作り、火竜王の御力で、水の冷たさを防ぎ、風竜王の御力で、お前の言葉を周囲に届ける。地竜王が、どこまで人の意思に感応できるか判らないから、念のためだ。これで、お前は地竜王のところまでは滞りなく進めるだろう」
「ありがたいね」
グランの説明に、自嘲気味にクセロが応じた。
肩を竦め、幼い巫子はその右手に自らの手を触れさせた。ペルルとオリヴィニスも、それぞれ肩や背中などに手を載せる。
「我が竜王の御名とその誇りにかけて」
唱和するように口にした瞬間、クセロがびくりと身体を震わせた。
「大丈夫ですか?」
ペルルが心配そうに尋ねる。
「あ……、ああ。ちょっとびっくりしただけだ」
落ちつかなげな素振りをしつつ、それに答えた。
グランが、手に力を籠める。
「大将?」
見下ろしてくる男を、幼い巫子はただ見つめた。
「頼む」
ふと、クセロがいつものような、他者に対する皮肉に満ちた笑みを浮かべた。
「任せとけって。今までおれが、大将を失望させたことがあるか?」
「戻ってくるまでに思い出しておこう」
グランは、とん、と軽くクセロの手の甲を叩いた。
舟が、着水する。
いつもの面子に加えてクセロも乗っているために、舟の上はやや窮屈だ。しかし、目的地はほぼこの真下である。あまり問題にもならない。
「……クセロ」
不安そうな、泣き出しそうな顔で、プリムラが男を見上げた。
僅かに視線を和らげて、クセロがその器用な手を少女の頭に載せる。
「いい子にしてろよ」
彼らは、常に危険がつき纏う仕事をしてきた。こんな言葉を残していくことは、初めてだ。
プリムラが唇をきゅっと結んで、頷いた。
ペルルが、ずっと保ってきた不安そうな顔を、真剣なものへと変える。
アルマは、指先をクセロが首から下げたネックレスへと触れさせた。それは金属の面積が広いというだけで選ばれたものだ。すぐに、その金属部分が光を放ち始める。さほどの時間も必要ない。
しかし、指を離すことへの未練が残る。
「……待ってるからな」
上手い言葉が出てこなくて、アルマはようやくそれだけをクセロに送った。
「おう」
そう言って、男はひらりと片手を振る。
「では参りましょう」
ペルルが、爪先を湖水へ浸した。
浮かび上がりたい、という衝動を押し殺して、ただ水中へ沈むというのは、意外と難しいものだった。
しかし、先だって与えられた竜王の力のせいか、息苦しくもなければ寒くもない。
少しばかりほっとして、隣を沈んでいくペルルに注意を向ける。
少女は真剣な顔で、じっと下方を見つめていた。
やがて指先を伸ばし、何かを話すように口を開閉させる。
だが、それはクセロに聞き取れなかった。
「何だ?」
その言葉は届いたようで、ペルルがこちらを見ながら、もう一度口を開く。
「……悪い。聞こえねぇ」
おそらく、彼女には風竜王の力が与えられていないからだろう。頷いて、ペルルはそっとクセロの手を取った。そのまま、彼女が先導する形でゆっくりと進む。
湖底が傾斜を作っているところに、その洞窟はあった。入口の下部で、泥が湖水の動きにつれて不気味に蠢いている。
「ここか?」
問いかけに、ペルルが頷く。そして、深々と頭を下げた。
「止めてくれ。……ま、なんだ、姫さん。プリムラを頼むな」
顔を上げて、ペルルはまた頷いた。その表情は真剣さを保っているが、瞳が僅かに揺らいでいる。
それ以上は言葉を継がず、クセロは水を蹴った。片手を洞窟の入口にかけ、中を覗きこむ。
湖底は、視界が悪いとはいえ、少しばかり陽の光も差していた。だが、この中は掛け値なしの暗闇だ。アルマが灯してくれた光が充分周囲を照らすことを確認し、男はゆっくりと中へ入っていった。
奇妙な洞窟だ。
片手を岩壁に置いて、そう思う。
ほぼ同じ大きさで、ずっと続いている。曲がりくねってはいるが、急激に折れたりはしない。
そして、一度も枝分かれをしていなかった。
彼は自然界の理に精通してはいないが、これが何となく不自然なことだという感覚はある。
水を蹴って先へ進もうとして、方向を誤る。泳ぎに長けていないクセロは、頻繁に底に近づいてしまい、その度に泥が視界を遮っていた。
泥を飲みこむことはないが、薄気味は悪い。
だが、先へ行くしかない。
もう、それしかないのだ。
そして、どれほどの時間をもがき進んでいたのか。
とうとうクセロは、アルマの光がぽっかりと周囲を照らすほどの空間へと泳ぎ着いた。




