07
街に滞在して、三日が経った。
次々に追加される書類の処理や、兵士たちの現状を視察して日々は過ぎている。
占領地であるから、土地の名士との面談などが予定されていないだけ、まだましだ。彼らの大半は武装解除され、それぞれの屋敷に軟禁されている。
これが休戦協定がきちんと結ばれた後なら、もっと煩わしい予定が増えていただろう。
そう自分をごまかしながら仕事を終わらせる。
僅かに空いた時間に、自室からバルコニーへと足を向けた。
夕暮れの近い空に、鳥の群れが黒く影を残している。
途切れ途切れに、呟きにも似た歌声が流れていた。
それを追って屋敷の角を曲がる。胸壁にもたれかかるようにして、栗色の髪の青年が立っていた。
「……やあ。久しぶり、アルマナセル」
「ノウマード」
ややばつが悪い気持ちで、名前を呼ぶ。
オスフールに着く前に、彼の処遇について一悶着あったのだ。
テナークスは、頑なにノウマードが密偵であると主張して譲らなかった。その場にはいなかったが、エスタも同意見である。
彼らは異口同音に、オスフールの街でノウマードを自由に行動させるべきではない、と言い張った。
アルマ自身は、彼が本当に密偵ならば、幾ら何でもあそこまで自分に対して横柄な態度をとることはないのではないかと思っていたが。
ともあれ、この街に到着して以来、ノウマードは屋敷の中に閉じこめられたままだった。ほぼ一フロア内の移動ぐらいしか許されておらず、アルマも多忙だったために今まで顔を合わせていなかったのだ。
「あー、悪かった、な。放っておいて。退屈じゃなかったか?」
「いや。別に。一人には慣れてる」
穏やかに笑って、青年は身体を起こした。
「悪かったって。色々仕事があってさ」
「嫌みじゃないよ。屋根と壁と床があって、温かい食べ物と寝床があれば、充分以上だ。不平なんてない」
さらりと返すノウマードの表情には、いつものからかうような調子は見られない。
「ならいいんだが。……街に出たかったり、しないのか? 仲間がいたりするだろう」
ロマは機を見るに敏だ。戦場になる前に、この地を離脱した者も多いだろう。だが、全てではないし、今は休戦中で街も外に開放されている。ロマが全くいないという訳はない。
「そうでもない。私は、あまり仲間に会いたくないから」
薄い笑みを保ったまま、告げられる。何だか追求しづらくて、そうか、とだけ返した。
「……あ、不満といえば、一つだけあったな。君、この屋敷の責任者に顔が利く?」
「事と次第によるよ。何だ?」
用心深く問いかける。
「なに、大したことじゃないんだけど。私の部屋についてくれてる女性がね。機会を見つけては迫ってくるから、そういうことはしないで欲しいって言っておいてくれないか」
「………………は?」
ぽかん、と口が開き、我ながら間抜けな声が漏れる。
アルマは、幼い頃から宮廷に出入りしている。その程度のことが察せられないようで、あの宮廷ではやっていけない。
しかし。
「えーと。迷惑、なのか?」
とりあえず尋ねてみると、苦笑された。
「そうだね。私には、心に決めた人がいるから」
「え?」
予想しなかった言葉に、更に戸惑う。
「何だか、先刻からちょっと失礼な対応をされてないか?」
僅かにむっとしたように、ノウマードが言う。
「ああいや、そうじゃなくて。今まで一人だったようなことを言ってたから、ちょっと意外だったっていうか」
慌てて言い訳を並べる。ノウマードはひとしきり不審そうな視線で眺めてから、いいけど、と呟いて表情を和らげた。
「それに、ずっと一緒にいるしね。ここに」
白い指先が、胸ではなくそっと額に触れたのは、ロマの割には現実主義者であるノウマードらしい、と言えるかもしれない。
まあ厳密には、額に巻かれた布に触れていたのだが。
少しばかりどぎまぎして、視線を逸らす。
「まあ、とりあえず今日の夕食の時にでも言っておく。それまでは何とか頑張ってくれ」
「宜しく頼むよ」
軽く返すと、青年は視線を外へと向けた。
この屋敷は、地形を利用して丘の上に建てられている。眼下に、夕焼けに染まる町並みが広がっていた。
時を告げる鐘が、深みを増した空に流れていく。
「アルマ」
そろそろ夕食のために身支度しないといけないな、とぼんやり考えていると、唐突に名前を呼ばれた。
しかも、ここでは二人きりの時にエスタからしか呼ばれない愛称でだ。
「何だ?」
あまりに自然な口調だったせいか、それに気づいたのは返事をしてからだったが。
だが、ノウマードはじっと街を見つめたまま、視線も向けてこない。焦れて、先を促そうとする。
「おい……」
「君が」
断ち切るように、相手は声を出した。
「君が、明日、もしも街へ出ることがあるなら、充分気をつけることだ。ここは、占領下であっても、まだイグニシアじゃない」
「ノウマード?」
その平坦な声に、眉を寄せる。小さく溜め息を漏らし、青年はアルマに向き直った。いつものように、皮肉げな笑みを浮かべている。
「ほら、早く部屋に戻った方がいい。お付きの人が探しているよ」
慌てて背後を振り向く。そこにエスタの姿はないが、自分の部屋からは離れてしまっているから、無理はなかった。
「悪い、じゃあまたな」
おざなりな挨拶を残して、小走りに戻っていく。
自室の前に辿り着いたところで、窓越しにエスタと視線が合い、もの凄く呆れた顔で見られたりしたが。
翌日の午後、アルマとペルルは街の竜王宮を訪ねていた。
馬車を操っていた兵士は、竜王宮に続く階段の前に横づけした。馬車の後部に立っていた兵士が飛び降り、扉を開く。
壇を降りてきた二人は、待ちかまえていた男に出迎えられた。
「ようこそ、姫巫女。ご来訪頂き、光栄です」
男はこの街の竜王宮の巫子だ。壮年に差しかかった辺りの年齢で、袖先と裾に藍色のラインが入った聖服を着ていた。
今現在、この街の元有力者の中でほぼ唯一、ある程度の自由が許されているのは、竜王宮の関係者だけである。
街に着いた翌日、水竜王の高位の巫女が旅の途中に立ち寄ったと聞いて、是非お会いしたい、と申し出てきたのだ。
オスフールはフリーギドゥムには近いが、街の規模はさほど大きくない。高位の巫女が訪問することは、少なくともペルルが知る限りはなかったらしい。
「初めまして。こんな時になりましたが、訪ねることができて嬉しいですわ」
軽く会釈をして、ペルルが挨拶する。ちらりと、隣に立つ少年に視線を向けた。
「こちらはイグニシア軍のアルマナセル様。こちらをお訪ねするのに、尽力してくださいました」
紹介する言葉に、男は僅かに驚いたようだった。だが、にこやかな笑みを崩さずに片手を差しのべる。
「ありがとうございます。この竜王宮を任されております、リートゥスと申します」
竜王宮内部は、それでも少し閑散としていた。
戒厳令こそ敷かれてはいないが、街は占領軍の支配下にある。住人たちの外出は最小限に抑えられているのだろう。
中庭を抜けて、本宮へと向かう。
建物の中は、一際暗く、静かで、肌寒い。
広間を真っ直ぐ入ったところに、きらきらと光が降り注ぐ一角があった。
屋根に天窓が開いているのだろう。陽の光に照らされたそこには、こんこんと泉が湧き出ていた。石材で造られたカスケードを通って、四方へと流れ出している。
「ここが、聖壇ですか?」
何となく小声で、アルマが尋ねる。
「はい。水竜王フリーギドゥムを祀る場所です」
「はぁ……。やはり、うちの方とは違うんですね」
半ば感心して、呟く。
「あら。カリドゥス様はどのような聖壇で祀られてらっしゃいますの?」
カリドゥスとは、火竜王の名だ。興味を引かれたように、ペルルが見上げてきた。
「あまり傍には近寄れません。一時も絶えることなく、炎が燃やされていますから。夏場のお勤めは、巫子の方々も大変だと思いますよ」
「まあ」
くすくすと少女が笑う。
リートゥスも微笑みを浮かべて彼らの会話を聞いていたが、一段落したところで口を開いた。
「それでは姫巫女。お願い致します」
ペルルが真顔になった。アルマに預けていた手を引き、一人で歩き出す。
聖壇から流れ落ちた水は、床に造られた段差に溜められている。飛び石のように設けられた足場のうち、最も聖壇に近く、大きいものの上で少女は跪いた。
手を組み合わせ、瞳を閉じ、やや上を向く。
小さく唱えられる聖言が、清冽な空間に流れる。
水に反射してちらちらと揺れる光が、僅かに青く染まって見えた。
「……あれが?」
小声で、傍に立つ男に問いかける。
「はい。あれが、高位の巫子のみに行うことができる儀式です」
竜王の魂に通じ、その身を通して祝福を降らす。
竜王の巫子ならば数多存在するが、高位の巫子の授ける祝福はやはり特別なのだ。
流石に感慨深く見守っていると、小一時間ほどでペルルは立ち上がった。
「ありがとうございました、姫巫女」
近づいていったリートゥスが、満面の笑みで礼を述べる。
高位の巫子から祝福された地は、聖地に近い扱いをされ、信徒からの人気も高くなる。俗っぽい話ではあるが、献金も増えるだろう。彼が来訪を是非にと望むのも、無理はなかった。
できるなら信徒の前で、という要望もあったのだが、それに関しては断った。ペルルの安全が確保できる保障がなかったからだ。
「いいえ。お役に立てるのならば何よりです」
変わらずにこやかに応えるが、ペルルは流石に疲れたようだった。
「姫巫女、宜しければ奥でお休みください。くつろげるようにお部屋を用意してありますので」
「ありがとう」
促され、二人が歩き出す。後からついていこうとしたアルマを、リートゥスは肩越しに制した。
「申し訳ありませんが、アルマナセル様はご遠慮頂けないでしょうか」
「それは致しかねます」
丁重に、しかしきっぱりと言葉を返す。
「お察しください。姫巫女は、その、女性でいらっしゃいます。貴公と同じ部屋では休息を取ることは難しいと……」
「私が、不埒な真似をするとでも?」
困ったような顔で要請されて、低く問いかける。慌てて、リートゥスはこちらに向き直った。
「とんでもない。ただ、姫巫女がお気を使われてしまうだろうと」
尤もな言い分だ。それでも、彼は自分の身体をペルルとアルマの間に置いている。
「でしたら、本日はこれで失礼致しますわ。アルマナセル様がご一緒してくださることで、こちらへ訪問する許可が出たのです。私は、アルマナセル様と離れている訳には参りません」
ペルルが口を挟む。
ぎり、と奥歯が軋む音がした。
「許可……ですと?」
眉間に深く皺を刻んで、リートゥスが呻いた。
「北方の蛮人が、何の権利があって姫巫女に許可を与える?」
「リートゥス……?」
怪訝な顔で、ペルルが問いかける。
アルマは、無言で距離を詰めた。
リートゥスは乱暴にペルルの腕を掴み、聖壇の奥へと足を向ける。
「ペルル様!」
「来るな!」
男は怒声を上げて牽制する。
「お離しなさい、リートゥス! 一体何のつもりですか!」
力任せに引かれ、抗おうとしても少女の力ではそうそう敵わない。つんのめるように、男の後を歩く。
「何のつもりも、何も! 水竜王の高位の巫女が、他国へ連れ去られるのを黙って送ることなど許される訳がない! 民のことをお考えください、ペルル様」
半ば怒鳴りつけられるように言われ、息を飲む。次の瞬間、少女は渾身の力で一気にその手を振り払った。
「姫巫女……」
「民のことを考えていないのは、どちらですか! 休戦の申し入れは、私と王家の間で取り決めたことです。全て、民にこれ以上の被害を与えないことだけを考えて。イグニシア王国へ参ることも、最初から判っていたことです。考え直しなさい、リートゥス!」
両手を庇うように胸に抱き、ペルルは反論した。憎々しげに、男の顔が歪む。
「小賢しい……」
呟いて、リートゥスは片手を再び少女へと伸ばした。
「消えよ雷鳴」
低い声が発せられると同時、その指先が、ばちん、と音を立てて弾かれる。
「いっ……!」
苦痛と驚愕の声を呑み込む。目の前で何があったのか判らず、ペルルはきょとんとそれを見つめていた。
「縛せ雷撃。その四肢、疾く意を失い、我が前に平臥せ」
「がぁああああああっ!?」
淡々と続く言葉に、リートゥスが悲鳴を上げた。黄金色の光が、縄のように男の身体を拘束している。それは所々で弾け、周囲の空気をびりびりと震わせていた。
「アルマナセル様……?」
ペルルの唇から、意図してではない言葉が零れた。
少年は、リートゥスに向けて上げていた片手を、所在なげに下ろした。
立っていられなくなったのか、どん、と音を立てて、男が膝をつく。
「アルマナセル……、〈魔王〉の裔!」
荒い息の下で、リートゥスが叫ぶ。
「まあそういうことだ。俺一人だけが、今のところ、この世界で公式に魔術を扱える」
冷静に告げて、視線をペルルに向ける。
一瞬、固く唇を引き結んだが、すぐにペルルはその聖服の裾を翻した。決然とした足取りで、アルマの元へ向かう。
「参りましょう、アルマナセル様」
差し出された手を、少年は丁寧に受ける。
「待て……っ、お待ちください、姫巫女!」
「護衛兵ー」
アルマは背後を一瞥もせず、呑気に声を上げた。
本宮の入り口から、十数名の兵士が駆けこんでくる。
「なに……っ」
二人が到着した時には、これほどの兵士はいなかった。驚愕するリートゥスとは対照的に、全く平然としてアルマは口を開く。
「とりあえず捕縛。一時間ぐらいであれは消えるから。後は、アゴラ殿の指示を待て」
簡単に指示を与えておく。予定された行動であるかのように、彼らは手際よく倒れ臥すリートゥスへ駆け寄った。
「ああ、馬車は用意してあるか?」
「はい、入口前に待機しております」
返事を聞いて、一つ頷くと、彼らは本宮を後にした。
馬車の中は、概ね静かだった。
屋敷への道程の半分以上が過ぎたあたりで、
「……醜態をお見せして、申し訳ありませんでした」
と短くペルルが告げ、
「いいえ」
とアルマがそれに返したくらいだ。
そして、彼らは、おそらくどちらも早くとは望んでいない帰還を果たした。