15
遠くで小さく水音が聞こえる。
慌てて周囲を見回した。しかし、ペルルの姿は見えない。
時折浮かび上がってきた彼女について、舟は移動させている。今まではそんなに遠く動かないうちに来てくれていたので、見失うことなどなかった。
「アルマ!」
呼ぶ声は、酷く遠い。舟の上に立ち上がり、ようやく大きく手を振る少女を見つけた。
「今行きます! 動かないで」
彼女がこちらへ泳いでこようとするのを制止する。
目印も何もない湖の上だ。もしもペルルが地竜王を見つけていた時に、その場所から離れていてはまた見失ってしまう。
そのための決まりごとすら忘れかけたようなペルルに、訝しさが募る。
ぎしぎしと櫂を漕いで、ようやくペルルの傍に着いた。見ると、酷く顔色が悪い。
「どうしました?」
舟の船尾から垂らされた縄梯子を使い、舟に上がってくる少女に尋ねる。助けようと手を差し伸べていたアルマに、ペルルは無言のまま抱きついた。
その身体が、細かく震えている。
片手をゆっくりと背に回した。
残った手を自分の背後に向け、指先だけで小さく促す。プリムラが手にしていた毛布をその手に握らせた。ばさり、と広げるとペルルの肩からすっぽりと覆う。
「もう大丈夫ですよ、ペルル。今日は船に戻りましょうか?」
できるだけ柔らかく尋ねる。ぎゅう、と胸元に縋りついて、それでもペルルは首を振った。
「地竜王が……」
「え?」
「地竜王様が、この下にいます」
舟に乗っていた竜王兵が旗を振り、船に合図を送る。
随分遠い、と思っていた距離は、みるみるうちに詰められた。
錨と共に、舟を引き上げるための鎖も降りてくる。
ペルルを部屋まで送った後で、アルマは厨房へと足を向けた。
十数分してから再びペルルの部屋を訪ねる。
服を着替えたペルルは、先ほどよりはまだしっかりして見えた。
「どうぞ」
卓に、紅茶を二客、並べる。砂糖を入れ、少々ブランデーも垂らしてあった。
本当はホットミルクでも欲しかったのだが、牛乳は傷みやすいので補給船にも乗せていなかったらしい。
「ありがとうございます」
ペルルはゆっくりとカップを手に取ったものの、陶器が小刻みに触れ合う小さな音を立てた。
聞かなかった素振りで、アルマはもう一客、自分用の茶器を手にして壁にもたれかかった。おずおずとプリムラが椅子に座り、カップに手を伸ばす。
数分間、沈黙が満ちる。
「……皆様をお待たせしていますね」
ぽつり、とペルルが呟いた。
「放っとけばいいんですよ、あんなもの」
ぞんざいにアルマが返した。少女は少しばかり驚いたように、こちらを見つめてくる。
「どうせ、地竜王なんて今まで一万年眠っていたんですから、この先一日や二日や一年や二年眠り続けていたって、どうということはない。いっそ、見つからなくたっていいんですよ。ペルル」
しかしペルルは、困ったような顔をした。
「それでは、この世界が救われません」
「それを考えるのはグランの役目です。精々頭を絞って貰いましょう。ノウマードもいるし、あの二人は無駄に歳をくってる訳じゃないですからね」
「ですが、アルマ」
「それで駄目なら、俺が身体を張ればいいだけですよ。いいですか、ペルル。貴女が嫌なことをやる必要はない。一切だ」
アルマは強固な意志でそう言い切った。
戸惑ったように、ペルルが僅かに首を傾げる。
「……怒っているのですか?」
その言葉に、一瞬虚を衝かれた。
苛立ちを表に出してはいないつもりだったのだが。
「貴女に、怒っている訳ではありません」
「ええ」
それも判っていたのか、あっさりと頷く。
椅子にかけている少女に近づいた。カップを卓の上に置くとペルルの傍らに跪き、見上げる。
「俺は、貴女を護っていきたいと思っている。王国軍の任務ではなく、火竜王宮の命令でもなく、俺が、そう望んでいるんです。危険からも、恐怖からも、同じように。なのに今、俺は貴女の辛さを和らげることもできない」
湖から上がってきた時の、あの、怯えたような様子が脳裏から薄れない。
そう、怒っているのは、自らの不甲斐なさにだ。
「そもそも、地竜王の居場所を探すことが貴女にしかできないからといって、貴女に任せきりにするべきじゃないんだ。俺は、……俺たちは今まで貴女に甘えすぎていた。申し訳ない」
じっとアルマを見つめていたペルルが、ふふ、と笑みを零した。
そんな反応が返ってくるとは思わなくて、少しばかり戸惑う。
「貴方は本当に過保護ですね」
「か……っ!?」
思いもしなかった言葉も返ってきた。
アルマは、常々、自分の保護者たちが過保護すぎるとやや疎ましく思っていただけに、その言われ方は少々ショックである。
衝撃に呆然としかけた少年に、ペルルはにこにこと笑みを向けた。
「ありがとう、アルマ。お茶を飲んでしまったら、皆様を会議室にお呼びくださいますか?」
「……ですが、ペルル」
気を取り直し、もう一度反論しかける。
だが、ペルルは片手でアルマの頬に触れた。
「もしも、私が地竜王様と遭遇した時に恐れを感じたとしても、貴方が護ってくださるのでしょう?」
「勿論です、でも」
「だから大丈夫ですよ。もう心配はしていません」
再度向けられた水竜王の姫巫女の笑顔に、アルマはとうとう降参した。
「見つかった……!?」
ペルルの報告に、グランが声を上げる。
「はい。おそらくは」
冷静に、ペルルが返した。大きく溜め息をついて、オーリが椅子の背に体重をかける。
「半月ぐらいかな? 思ったよりも早かったね」
「皆のおかげだ。礼を言う」
グランが堅苦しく頭を下げる。
「君も結構しつこいなぁ。私たちは共犯者だろう。君一人の望みだとか思わないでくれよ。……で、これからどうすればいいんだ?」
さり気なく首謀者としての責任だけは押しつけて、オーリは問いかけた。
「そうだな。今後の問題点としては、幾つか思いつくだろう。どうやって巫子を湖底へ送りこむのか。どうやって眠れる竜王を目覚めさせるのか。どうやって地竜王に事情を知らせ、協力を仰ぐのか」
確かに、その辺りは実現不可能な問題に思える。
だが、策もなしにグランがここまで事を進める訳がない。
全員が、次に続く言葉を待った。
「僕らに、それを成し遂げる力はない。だから、竜王にご助力願おうじゃないか」
その言葉にアルマは首を傾げた。が、巫子たちは難しい顔をして考えこんでいる。
「竜王に? しかし可能なのか? 人の世のことは人に、だろう」
オーリが、不快とも取れそうな顔で問いかける。
「これはもう、人の世のみの問題じゃない。現在、龍神を野放しにしかねない状況になっているのは、そもそも、竜王の責だ。表立って動けないのは判るが……」
「グラン!」
「グラン様!」
幼い巫子の言葉を、驚愕したような、怯えたような声が遮る。
周囲に、自分と似たり寄ったりの顔を認め、緊迫した空気の中、アルマが声を上げた。
「何の話だ?」
一転してきょとんとした視線が集中する。しかしクセロやプリムラも要領を得ない表情であることに気づいて、なげやりにオーリがグランへ手を振った。グランはやや憮然として口を開く。
「基本的に、竜王は人の社会に干渉しないことになっている。例えば貴族の争いや、王位に関する争いなどには全く関係しない。前の大戦の時だって、風竜王ニネミアが干渉したのは、最後に自らが封印されそうになってからだった。今回のカタラクタ侵攻でも、未だ水竜王フリーギドゥムは関わってきていない。人の世のことは、人に任せる。その調整をするのが、我々竜王の巫子だということになっているからだ」
「なっている、んじゃない。それが責務だ」
オーリが口を挟んだ。が、グランは容赦しない。
「義務感に酔うんじゃない、オリヴィニス。我が火竜王カリドゥスは、これほど自分の民が龍神の下僕にいいようにされていても、全く何の対処も伝えてこない。確かに、竜王の代理人、巫子としての我々の問題だろう。だが、この事態の先に龍神の復活があるとすれば、これは彼らが放っておいていい話ではない筈だ」
一瞬激昂しそうになった風竜王の高位の巫子だが、その後話題が火竜王の批判に移ったことで、何とか冷静さを保った。
「だけど、その掟を越えるように竜王を説得するのは、私たちだよ?」
「存分に手管を発揮してくれ。僕だってお前たちに比べて優位だという訳じゃない。我が竜王は頑固に過ぎる」
溜め息をついて、グランが零した。彼が自らの竜王について語るのは珍しい。
「……あの」
おずおずと、ペルルが口を開いた。
「私には、自信がありません。水竜王様は、私を高位の巫女に選ばれた時と、戴冠式の時にしか私の前に現れてくださいませんでした。私の言葉など、聞き入れてくださるとは、とても……」
驚いたような顔で、オーリは俯いたペルルを見つめた。
「今まで一度も? 言葉を交わしたことは? 巫女になって何年だったっけ」
「三年、です」
小さく首を振り、消え入りそうな声で返す。
「オリヴィニスを基準に考えるな、ペルル。こいつは度が過ぎている。僕だって、こちらから呼びかけなくては竜王は殆ど来てはくださらない」
横からグランが割りこんだ。風竜王の寵愛を受ける巫子が、むっとして見返す。
「呼びかける、ですか?」
ペルルが、思いがけないことを聞いたように繰り返した。
「呼びかけたこともないのか?」
再度の問いに、慌ててまた首を振る。
「いえ、あの、祈りを捧げる時などは勿論呼びかけていますけれど」
「しかしそれは儀式の一環だからな。それには竜王もいちいち応じてはこないだろう」
腑に落ちない、という顔をしてグランが答えた。
アルマは、ペルルからこの悩みを以前にも聞いている。高位の巫子として、長年その地位にいた二人に打ち明けるのは、よほどの思いだろう。それが報われればいい、と願いながら、やりとりを見守る。
「貴女は真面目でいらっしゃるからなぁ。人の世の責務を、一人で果たそうとされていないか?」
オーリが、おそらくは故意に軽く言う。
「それは、でも、そういうものですから。先の高位の巫子様もそのように」
「先の巫子、ねぇ。どういう方だったんだ?」
これはグランを向いて、尋ねる。
「かなりの高齢で亡くなられた。在位は五十年近くにはなったか。元々、カタラクタにおいては竜王宮と敵対する勢力は殆どないが、先代は周囲とのその良好な関係を維持することに心を砕いておられたな。権勢を得るよりも民の繁栄を優先し、譲れるところは譲歩する、と。なかなかできた方ではあった」
記憶を探る、という様子すら見せず、すらすらとグランは答えた。
「五十年か。結構長いな。ならば、彼のやり方はもう既に確立されていたか」
「おそらく」
姫巫女は、不安そうに二人の会話を聞いている。
オーリが再び視線をペルルに向けた。
「ペルル。貴女の周囲の者たちは、先代が行われたことを、ただ踏襲するようにと望んではいませんでしたか?」
少女が、明らかに怯む。
「それは……」
俯き、言い淀むペルルに、宥めるように青年は笑顔を向けた。
「いや、私がそうだったのですよ。うちの先代の巫子も長期間在位しておられたので、竜王宮の者たちは皆、その流儀に慣れていた。当然、そのままやっていきたがっていたのですが、まあ、私が彼と同じことができる訳もないですからね」
「でも、やり方を変えると迷惑がかかりますし」
ペルルの言葉を遮るように、とん、と指先で卓を叩く。
「竜王に選ばれたのは、貴女だ。他の者じゃない。先代と同じだから、貴女が選ばれた訳でもない。竜王宮は、竜王に対するように、貴女にも従うためにあるのですよ。思う通りになさればいいのです」
姫巫女が顔を上げた。真摯な瞳で、風竜王の巫子を見つめる。
「……ノウマードは、どうやって自分の思う通りに行動していったのですか?」
青年が小さく肩を竦める。
「文句なら竜王に直接言え、と怒鳴ったのが一番効いたようですね。それでも確かにかなりの時間が必要でしたが」
まあ、と呟いて、ペルルは驚いたように目を見開く。竜王と言葉を交わすことができるのは、高位の巫子以外にないだろうに。
「即位した後、数年は誰もが通る道だ。逆に言うと、最初の数年が肝心だということでもある。いい機会だ、水竜王としっかり話し合われるといい」
グランがそう告げる。
彼は、当時の王の息子だった。その地位を持つ者が高位の巫子に選ばれて、それはそれでまた揉めたことだろう。
ペルルが頷くのを確認して、火竜王の巫子は話を戻す。
「さて、僕らが首尾よく三竜王を説得したら、その御力を水晶球に籠める。地竜王に現状をお知らせする、親書のようなものだ。水晶は地竜王に属するものだから、反応は強いだろう。三竜王の御力を持ってすれば、ペルル以外の者でも水中へ降りていける。そこまでは、僕たちで何とかできる筈だ」
そこで、彼らは口を噤んだ。
誰一人、視線も向けず、促すこともないままに。




