14
その日とその翌日は、何事もなく過ぎた。
深夜でもなければ、天幕には常に巫子は二人はいて周囲を捜索していたし、他の仲間たちも、起きている間はほぼ甲板にいるようになった。
深夜、甲板で小声で歌っていたオーリに、夜間の操船に当たっていた竜王兵からおずおずと苦情が出されたりはしていたが。
そして、三日目の早朝のことだった。
部屋の外が僅かに騒がしいのに、目を覚ます。
着替える間も惜しんで、アルマはマントだけを乱暴に羽織って部屋を飛び出した。
まだ夜明けも遠い湖上で、遠くにぽつんと船の灯りが伺えた。
今は停船しているようだが、吹きつける風が流石に冷たい。
「グラン! ペルル!」
船縁に立ち、周囲を見回している二人を見て、声をかける。
「ごめんなさい、アルマ。起こしてしまいました?」
「お前はまだ休んでいてもいいんだぞ」
気遣う言葉に、少しばかり苛立つ。
ここしばらく、自分は何もできていない。
彼らの傍に駆け寄って、続ける。
「それより、どうした? 見つけたのか?」
「ああ。何となくだが、それらしい気配がある」
グランが、視線を湖へと向ける。
黒い水面からは、アルマは何も感じられないが。
「……ノウマードは?」
この時間帯は、彼が探索に当たっていた筈だ。
困ったように笑って、ペルルが視線を上へ向けた。つられて見上げた先、主マストの先端に、小さく人影が見える。
「……ひょっとして、あれが?」
「天幕の中では、風に触れられなくて嫌なのですって。昼間、私たちとご一緒の時には気を遣って傍にいてくださいましたけど。一人になると、ずっと上に上がっていたと先ほど聞きました」
彼が閉塞感を嫌うのは知っていたが、一つの面が開かれている天幕でも嫌がるとは、かなりのものだ。
呆れて、アルマは首を振った。
やがて、鋭く風を切る音と共に、オーリが彼らの傍らに降り立った。十メートルほどの落下を微塵も感じさせない動きで身を起こす。
「やあ、アルマ。起こして悪かったね。グラン、方向は向こうだと思う。ええと、十時、って言うんだっけ? 気配が遠いのか弱いだけなのかはちょっとよく判らないな」
おざなりに挨拶をして、オーリは性急に話し出した。グランがそれに頷く。
「僕らも同じ意見だ。ゆっくりと、そっちの方向に向けて進んでみよう。もしも通り過ぎたようだったら、その近辺でペルルに捜索してもらうことになる」
「はい」
真剣な顔で、ペルルが返事をする。
傍に控えていた竜王兵が、グランの指示を受けて走り出す。操舵室へと伝えに行くのだ。
「地竜王の気配で、目が覚めたのですか?」
小声でペルルに尋ねた。
「はい。三十分ほど前ですか。何となく違和感を感じて、甲板に出てみたのです」
「どんな感じなのですか? 地竜王は」
何となく問いかけた言葉に、少女は軽く中空を見上げて考えこんだ。
「ご説明するのは、とても難しいのですが。……アルマは、先日風竜王様に拝謁されましたね」
「ええ」
「あの時、どう感じられました?」
地上遥か高く、アーラ砦の最上部での風竜王との邂逅を思い返す。
「最も強く感じたのは、圧迫感です。そして、畏怖を」
その言葉に、小さく頷く。
「おおよそはそれと同じです。あとは、個々の竜王様に特有の気配がついて回ります。地竜王様は、何というか、荒々しい気配をお持ちですね」
龍神と闘ったからだろうか。そんな感想を持っていると、錨が上がる音がした。船が、ゆっくりと左手へ向かう。
陽が昇った辺りで顔を出したクセロが、唖然とする。
「……見つかった?」
「みたいだな」
アルマは、流石に一度部屋に帰って服を着替えている。甲板の上は、いつもよりも竜王兵の姿が多く、波の間を透かし見るようにざわざわと騒いでいた。
「冗談だろ。早すぎねぇか」
「最初にアウィスの港に着いてからここまで、何日かかってると思ってるんだよ。そりゃまあ、下手をすれば何年もかかるかもしれない、って聞いた後じゃ、早いとも言えるけどな」
先日、その懸念を聞いた時にはさすがにぞっとしたものだ。
地竜王を捜しながら、この地で何年も過ごすというのは、まだ若いアルマには想像がつかない。
クセロが呻きながら蹲った。
「ああ、くそ……」
悪態を漏らす相手に、アルマは小さく溜め息をつく。
この金髪の男には今までに何度も世話になっているし、何より、共にグランの下で苦労している。そうそう突き放すこともできない。
どすん、と隣に腰を下ろす。
「そもそもさ。何が嫌なんだ?」
クセロは僅かに視線を上げると、じろりと睨みつけてくる。だが、相手は子供とはいえ貴族だ。彼の知らない世界で生きてきている。ことここに至ってとうとう割り切ったのか、クセロは口を開いた。
「色々あるけどな。一番は、背負うのが嫌なんだよ」
「背負う?」
思いもしなかった言葉が出てきて、首を傾げる。
「おれは、一人で生きていく程度の力しか持ってねぇ。他人の人生を背負いこむなんて、無理だ。盗っ人としてこそこそ生きてくのが精々なんだ。元々所帯を持つ気はなかったし」
「プリムラは?」
少年の疑問に、クセロは僅かに苦笑した。そこが気になるのか、と呟く。
「あれも、一時的に親方から預かっただけだからな。あいつがどうやって生きていくにしろ、王都に慣れるまで面倒を見てればそれでよかった。まあ一、二年てとこだ。おれと一緒に大将の下につくことになっちまったけど。ただ、あいつにはそれもいいんじゃないか。あのまま下町で暮らしてたら、まっとうな仕事って言っても酒場の給仕女になるか、娼婦になるかぐらいしか道はねぇ」
その予測に、アルマは目を見開いた。ひらりとクセロが片手を振る。
「大将に使われたら、何をさせられるにしろ、身体を売られることはねぇだろ。心配すんな」
「そりゃ、そうだけど」
グランは、プリムラに対してはやや当たりが柔らかい。確かに心配は要らないだろう。
「竜王の巫子ってのは、女房や子供なんてのとは段違いにでかいもんを色々背負いこむ、ってことだろ。いや、女房子供ならある意味おれの責任だから、覚悟も決まるかもしれねぇが」
微妙に真面目なことを言いつつ、肩を落す。
「そこら辺は、多分さほどでもないだろう。地竜王には、領土も民もいないんだから」
先日プリムラに説明した話を繰り返す。
「後はまあ、純粋に巫子としての責任だけど。それも、かなりの部分はグランが補佐してくれるだろうし」
「大将が?」
顔が晴れるどころか、むしろ眉間の皺を深くしてクセロが繰り返す。
しかし、アルマは絶大な自信を持って続けた。
「この先、お前がもしも地竜王の巫子になったら、それはグランの肝いりってことになる。お前を選んだのはほぼあいつの一存だからな。それでお前が何か失敗したら、それはすぐさまグランの失態に繋がるんだ。あいつが、そこを見逃してるとでも思うのか? グランは、火竜王宮は、全力でお前の後ろ盾になる。間違いない。それに、ノウマードやペルルもお前を見放すことはないだろう。俺だってだ」
その言葉に、クセロはやや虚を衝かれたように見えた。
自分の背後を護る人間がいることなど、想像もしていなかったのだろう。
だがすぐに、普段の皮肉げな笑いを浮かべる。
「大将が後ろ盾、ってのは、ある意味おれにとって一番怖い気がするんだが」
「それは否定してやれないな」
アルマも他に言い様がなく、自嘲気味に笑う。
そこに、ぱたぱたと足音を立ててプリムラが近づいてくる。
「何やってんの、アルマ。そろそろペルル様が……」
が、二人の顔を見て足を止めた。
「……何やってんの」
何故か薄気味悪そうな顔で見られて、クセロと顔を見合わせる。
「何でもないよ。降りるのか?」
「うん」
「降りる?」
クセロが訝しげに問いかけた。
「まだ、地竜王の気配しか掴んでない。できるだけ正確な場所を調べるために、これからペルルが潜ってくるんだ」
陽が昇り、明るくなるまで待っていたのだ。僅かに眉を寄せて、それでもクセロは口を開いた。
「気をつけろよ」
「ああ」
踵を返したアルマの羽織るマントが、視線の先でくるりと翻る。
ちらりとこちらを振り返ったプリムラに、金髪の男は小さく手を振った。
ペルルが、決然とした表情で湖に身を沈める。
アルマたちは息を飲んでそれを見つめていたが、ほんの数分で彼女は浮上してきた。
「どうしました?」
身を乗り出すアルマを、ペルルが見上げてくる。
「この辺りは酷く深くて、しかも水が濁っています。潜っても周囲が見通せません。アルマ、貴方の作り出す光を持って潜れないでしょうか?」
その要請に、途方に暮れる。
今までに、作り出した光球を移動させたことはあったが、自分の見えない場所で、他者の意思に応じて自在に動かすことはやったことがない。
ふと思いついて、胸元を探った。マントを留めているバックルをやすやすと引きちぎる。
「え?」
「アルマ!」
ペルルとプリムラが揃って声を上げる。
少年の手の上で、バックルが光を放ち始めた。
「これを持って行ってください。光はかなり強くしてますので、あまり直接見ないように気をつけて」
手の中に握りこんだまま、そっとバックルをペルルに差し出した。
「ですがアルマ、マントが……」
ペルルは困ったような顔で見つめてきている。肩からずり落ちかけたマントを、片手で押さえた。
「この程度、何とでもなりますよ。光の具合がよくなければ、また言ってください」
ようやくバックルを受けとり、ペルルは再び水中へ姿を消す。
そしてアルマはしばらくの間、マントを破ったことについてプリムラのお小言を聞く羽目になった。
湖底は、随分と深く、そして酷くでこぼこしていた。
自然、水流は不規則で、湖底に堆積する泥がそこここでもくもくと舞い上がっている。
ペルルはアルマのバックルを両手で胸の前に持ち、そこから放たれる光で周囲を探りながらゆっくりと泳いでいた。
感じられる竜王の気配は、時折強まったり弱まったりと、安定しない。それが自分が動いているせいなのか、竜王自身が原因なのか。
彼女は一定の範囲を何度も回り、少しずつ場所を移動していった。それでも、幾度かやり直しをすることは避けられなかったが。
不安は、ずっとあった。
フリーギドゥムを発った時からだ。自分の身に起きることへの不安は勿論だが、国が、民が、どうなってしまうのかという不安。
自分一人で、事態を改善できるのかという不安。
アルマと出会い、グランに庇護され、オーリやプリムラ、クセロに囲まれ、不安は少しずつ解消されていった。やがて、ぼんやりと思い出す程度の記憶になるように。
その不安の中身は、国だけでなく、世界に対するものに変わっていっていたのに。
そして今、探していた地竜王が、もうほんの数百メートル以内に眠っている。
だが、彼女の不安はここにきてまた大きくなってきていた。
小さく身震いして、水を蹴る。
不安の原因は判っている。まだ見ぬ竜王が、恐ろしいのだ。
今までよく知っていた三竜王に、そのような思いを抱いたことはない。彼らは季節を循環させ、民に加護を与え、調和を保つことで世界を護ってきていた。
しかし、地竜王はその循環から外れ、龍神と闘うことで世界を護っていたのだ。
僅かに感じる気配からも伺えるその荒々しさが、ペルルを怯えさせていた。
やがて、水竜王の姫巫女は、湖底に穿たれた穴の前に到達した。
その穴は直径が二メートルほどで、下方へ傾斜がついていた。そのまま、漆黒の闇の中へと続いている。
一度、戻るべきだろうか。ペルルが僅かに迷う。
しかし戻って仲間たちに報告したところで、ここまで支障なく来れるのは自分だけだ。時間を取っていては、そのうちまた暗くなってしまう。
夜の間でも、アルマのくれた光があれば潜れる気はしたが、おそらく庇護者たちはそうさせないだろう。彼らは時折、酷く過保護だ。
ペルルはふわりと身を翻らせ、穴の中へと身体を滑りこませた。例に漏れず、底には泥が溜まっているので、できるだけ洞窟の上部を進んでいく。
宙を飛んでいるような気分にもなれる、こんな時がペルルは好きだった。今のような状況でさえなければ。
曲がりくねる洞窟は随分と長いが、分かれ道は一つもない。むしろ、何かで延々と掘り進んでいったかのようだ。
そして、恐怖を押し殺しながら進んでいったペルルが、とうとうそれに負ける時がきた。




