10
ペルルは、朝になってもなかなか姿を見せなかった。
心配ではあるが、一応プリムラがついている。何かあったら言ってくるだろう。
ペルルに休んで貰うことには異存はないし、もう少し待って出てこなければ執政所へ手伝いに行くかな、とアルマはぼんやりと考えていた。
基本的に、彼は暇というものが苦手だ。
だが、小一時間も待った頃に、水竜王の姫巫女は甲板に姿を現した。
その顔色は、酷く悪い。
「大丈夫ですか、ペルル。今日は休んでください」
慌てて、アルマが止める。隣に立つプリムラも、同感だという顔をしていた。
「いいえ。お待たせしてすみません」
しかし毅然として返すと、準備が整っている舟へと進む。
「ペルル、この街の執政所の捜索は、今回かなりの日数がかかりそうです。その間に潜って頂ければいいのだから、もう数日は猶予がありますよ」
無論、陸上の捜索が終わってからだってアルマは一向に構わないが。
しかし、少女は頑なに首を縦に振らない。
「私が地竜王様を探し出せれば、それで問題は解決です。皆様にご苦労をお掛けしなくても構わなくなります。ですから、私が潜ることを遅らせる訳には参りません」
本当に、竜王の巫子たちというのは、どうしてこう皆が自己犠牲精神が旺盛なのか。
特にペルルには、もう少し身勝手になって貰っても構わないと思うのだが。
ともあれアルマは渋々それに同意し、舟に乗りこんだ。着水してから、十数メートル本船から離れる。
ペルルがマントを脱いだ。そして、船尾へ移動しようとして、立ち上がる。
一歩、足を進めようとした瞬間、少女はふらりと身体を揺らせ、そして、水中へと落下した。
「ペルル様!」
プリムラが悲鳴を上げる。
何も考えず、反射的にアルマは湖に飛びこんだ。反動で舟が揺れ、更に悲鳴が上がるがそんなことは気にならない。
冬の湖水は、それこそ身を切るように冷たい。
ペルルが、その白いドレスをゆらめかせながら沈んでいくのが見える。
幸い、ここはまだ港の中だ。水は殆ど動かない。大型の船も停泊できるように湖底を掘ってあるが、水深は四メートルもないだろう。
意識を失った少女の腕を掴む。そのまま引き寄せて、身体をしっかりと抱き締めた。
視線を、上へ向ける。頭上でぴったりと閉じた水面は、太陽の光を乱反射させていた。
こんな時でなければ、アルマはそれを美しいと思ったかもしれない。
しかし勿論そんな余裕はなく、彼は力いっぱい水を蹴った。
数秒で水面に顔が出て、アルマが大きく喘ぐ。飛びこむ時に、あまり空気を吸っていかなかったのだ。ほんの今まで周囲は静寂を保っていたのに、一瞬で様々な音が耳に入ってきた。
水上は大騒ぎになっていた。彼らが乗っていた舟は勿論、火竜王宮の船も、風竜王宮親衛隊の船も、甲板に大勢の人間が集まっている。そして、桟橋の上にいた者たちもこちら側に集まっていた。それら全てが、てんでに喚きあっている。
「アルマナセル様!」
一際大きい声は、ドゥクスか。見上げると、甲板の上で男が大きく腕を振った。
そちらへ目をやると、港の奥に、桟橋へ上がる階段が設えられていた。このまま舟に上がるよりも、その方が楽なのだろう。
泳ぎだしかけて、衣服が身体に絡まった。苛立たしく、マントの留め金を外す。とりあえずそれをふるい落とし、アルマは階段へと向かった。
幸いさほどの距離はなく、すぐに水中にある石段に足をかけられた。ペルルの身体を抱き直し、それを慎重に登っていく。水から上がっていくにつれ、身体が酷く重くなる。
桟橋には、既に十数人が待ち構えていた。手に手に、自分たちのマントを脱いで差し出してきている。
数枚を地面に敷かせ、ペルルの身体を横たえた。ここまで、彼女はぴくりとも動かない。
「……ペルル」
傍らに跪き、手を握って小さく呼びかける。
腹の底が重く、冷たくなる。がたがたと手が震えていた。もしも、このままペルルが目を覚まさなかったら。
「ペルル!」
絶叫しかけたアルマの肩に、そっと誰かが手を触れた。
「落ち着いてください、アルマナセル様」
見知った竜王兵が、もう一方の手でペルルの首筋に触れている。
「……脈は確かです。身体が冷えてもおりませんね。水竜王の姫巫女でいらっしゃるから、水を飲んでしまわれたということもないでしょう。お部屋で休んで頂いたら、ほどなくお目覚めになるとは思いますよ」
竜王宮において、竜王兵は基本的には武官だ。文官の役割は一般の巫子が勤め、その中には医療も含まれる。
だが、事がそれを要求すれば戦場にも出ることになっている竜王兵に、医療の心得があるものは多い。
「でも、こんな状態でも目を覚まさないなんて」
声が震えるのが、我ながら情けない。
「姫巫女にとって、水中も水上もあまり環境として差はありません。水に入ったからといって、驚いて目を覚ますということはないのでしょう。ただ、気を失われているだけですよ」
穏やかに説明される。ようやく少しばかり安堵して、アルマはペルルの身体を更にマントで包んだ。抱き上げ、歩き出すと、ブーツの中で冷水が不快に水音を立てた。
「それよりも、彼の方が大丈夫なのか? 真っ青だ」
「何か温かいものでも用意した方が」
「ホットワインとかか?」
「いや、今うちではワインが切れているんだよ」
「こっちには余裕があっただろう。おい、何本か取ってこい」
「すまない、次の補給が来たらお返しする」
ざわざわと周囲が騒がしい。
それらを振り切るようにアルマは渡し板を登り、甲板へと降り立つ。
プリムラの乗った舟が、がらがらと音を立てて引き上げられていた。
流石に船内に入ると、物見高い者たちもついてはこない。
ペルルの私室に入り、はた、と立ち止まる。
水に濡れたままで寝台に寝かせる訳にはいかないが。
「どうしようアルマ、あたし一人じゃペルル様を着替えさせられないよ」
途方に暮れたように、プリムラが呟く。
ペルルが起きてさえいれば、問題は何もない。
しかし、まだ十歳にも満たない少女が、意識を失ったペルルの身体を支えつつ着替えさせるというのは酷く困難だろう。
そして、現在、この船に他に女性は乗っていない。
百歩譲って、せめて巫子が乗っているというならまだしも、全てが竜王兵である。
しばらくの間逡巡したが、何とかアルマは決断した。
「……俺が手伝おう」
「大丈夫? 見えてない? 絶対に見えてないよね?」
「見えてないって。大丈夫だ」
「本当に見えてないよね? もし見てたらひっぱたくわよ」
「少しは信用しろよ。見えそうになったらちゃんとお前を呼ぶ」
プリムラのスカーフできつく目隠しをされて、アルマは殊勝にそう約束した。
「あたしの言うように、あたしの言うところだけに触るのよ? 判ってる?」
「判ってるよ」
アルマ自身にも未だ多少の躊躇いはあったが、ここまで念を押されるとむしろペルルを放っておいている方が心配だ。
今、水竜王の姫巫女はマントに包まれたまま、一旦床に寝かされている。
プリムラの誘導で、アルマはその肩に触れた。ゆっくりと、彼女の上体を起こす。
「背中の方で支えて。あたしがいいって言うまで、動かさないでね」
更に一言つけ加えて、プリムラはドレスを脱がせにかかったようだった。手に触れる布地が、時折引っ張られている。
目隠しの奥で、アルマはきつく目を閉じた。
「……はい。肩を持って」
数分後、ようやく次の指示がきた。ゆっくりと手を移動させる。柔らかな肌に触れて、息を飲んだ。
「どうかした?」
「ああ、いや、ほら俺の手が冷たいからさ。ペルルとの間に、何かタオルでも挟んだ方がいいんじゃないか?」
「そうね」
プリムラが、手に乾いたタオルを押しつけてきた。慎重に、それを間に挟む。
それでもじわりと伝わってくる体温が充分温かいのに、安堵する。
その後、何度か支える場所を移動したり身体を少しばかり持ち上げたりを繰り返し、ようやくプリムラは作業が終わったことを告げた。きつく締めすぎたスカーフの結び目を、懸命に解く。
「ありがとう。助かったわ」
寝台にペルルを寝かせ、毛布をかける。珍しく、プリムラが素直に礼を言った。
「気にするな。俺たちも、お前がいてくれて助かってる」
隣に立つプリムラの頭を、軽く撫でた。
しかし、かなりの時間が経ち、これほど身体を動かされているというのに、ペルルが気づく気配もない。
「アルマも、着替えた方がいいよね。ごめんね、長い間」
ようやく気づいたように、プリムラが促す。
「いや。ペルルの目が覚めるまで、ここにいてもいいか?」
アルマの言葉に、少女はきょとんと見上げてきた。
冬の湖に飛びこんで、それから三十分以上ずぶ濡れだ。これ以上放っていていい状態ではない。
「何のために〈魔王〉の血を引いてると思ってるんだよ。これぐらい、どうってことはないさ。〈魔王〉が風邪を引いたとか、聞いたことがあるか?」
半ばおどけたように告げる。
「それは、そうだけど」
半信半疑でプリムラが呟く。とりあえず、と渡されたタオルで、ざっと髪の毛だけ拭いた。
椅子を寝台に寄せられないために、枕元の床に跪く。
「……ペルル」
少なくとも、姫巫女の表情は苦しげではない。
それでも、彼女が無事に目覚めるのを確認しなくては、心配でいても立ってもいられなかったのだ。
だが、アルマのその思いは、結局果たされることなく終わった。
ゆっくりと、意識が浮上する。
船の中、揺りかごのようにゆらりゆらりと揺れる寝台の上で、状況が今ひとつ掴めなくて混乱した。
確か、今日はもう目を覚ましていたと思っていたのに。
ひょっとして一度起きたというのが、夢だったのか。今ひとつ腑に落ちないが、身体を起こしかける。
と、枕元に、黒い髪が散っていた。見間違えようのない薄灰色の角が、艶やかなそれから姿を見せている。
「……アルマ?」
小さく呟く。視線を巡らせると、椅子に座り、卓に突っ伏してプリムラがうたたねしていた。
未だ状況の把握はできないが、小さく笑みを浮かべてペルルはアルマの髪に手を伸ばした。
肌に触れた指先が、熱い。
耳を澄ますと、彼の呼吸は酷く荒かった。
「アルマ……! プリムラ、起きて!」
ペルルの悲鳴じみた声に、プリムラは一瞬で顔を上げた。
「……莫迦か」
夕刻になって帰船したグランが、心底呆れた風に告げる。
「お控えください、グラン様。病人の前ですよ」
珍しく、つん、とした表情でペルルが諫めた。
寝台で毛布にくるまれているアルマは、高熱を発し、がたがたと震えている。意識は朦朧としていて、おそらく周囲の様子は判っているまい。
「申し訳ありません。あたしが、アルマを放っておいたから……」
気疲れからか、一、二時間ほどでうっかり眠ってしまっていたプリムラが、身体を小さく縮めながら謝罪する。
そう、自分が起きていれば、アルマの様子が悪化していくのも早く判っていたはずだ。
「いや、でもまあ、彼も自己管理がなってなかった訳だしねぇ。ペルル様じゃあるまいし、この季節に湖に入ってそのままって、そりゃ普通に考えても熱ぐらい出すよ」
こちらも呆れた表情で、オーリが答える。
「自己管理ができていない、というなら貴女もだな、ペルル。もう、身体は大丈夫なのか?」
「……ええ。ご迷惑をおかけしました」
そこを指摘されると弱いのか、ペルルが素直に頭を下げる。
グランは無造作に片手を振った。
「非難している訳ではない。貴女の身体が一番大事だ。まあこいつはそれなりに丈夫だし、明日には快復するだろう。心配はいらん」
「ですが、私のせいですし」
気遣わしげな表情を、魘されるアルマへと投げる。
が、グランは絆されなかった。
「アルマには、夜の間は竜王兵を一人つけておこう。貴女はきちんと休んで頂きたい。朝になったら、様子を見に来ればいい」
普通に考えても、病人とはいえ若い男女が夜を同じ部屋で過ごす、ということはあり得ない。
不承不承、ペルルはそれに従った。
「お前の親衛隊にも世話になったな。礼を言う」
廊下に出て、グランが律儀に頭を下げた。
「伝えておくよ。しかし、何というか、その場にいたかったね」
笑みを浮かべながら、オーリが返した。
ペルルとアルマの危機を目の当たりにした竜王兵と親衛隊は、その対処のために協力しあっていたのだ。
親衛隊から提供されたワインで、スパイスの効いたホットワインをアルマに差し入れたりもしていた。
アルマが湖の中で脱ぎ捨てていたマントを引っ掛け鉤で引き寄せ、他の者たちが次々に差し出して濡れたマントと共に、波止場の一角に紐を張って干していたりした。
執政所から帰ってきてその雑多に風にはためく光景を見た時には、流石に唖然としたものだ。
「一ヶ月もしたら、今回のアルマとペルル様のことが歌になって流布しそうな勢いだよ」
くすくすと笑って、風竜王の高位の巫子は呟く。
「止めてくれ。龍神の下僕に知れたら、計画が狂う」
疲れたように、グランが止めた。




