05
「……あれか……!」
グランの物言いに苛立ちを覚えない訳ではなかったが、ここで『バーラエナの協定』が出てきたという驚きの方が勝る。
「あの……、何があったのですか?」
不思議そうな顔で、ペルルが尋ねてきた。お前が話せ、と言わんばかりにグランが視線を向けてくる。
「その頃、大陸は全土で酷い不作が続いていました。ある年は日照りや旱魃、ある年は冷夏と、大地の実りが枯れ果てていたのです。農業や酪農は勿論、狩猟で飢えを凌ぐことも難しく、人々は食料を求めて、海や湖へ出ました。海では、人が増えてもさほど問題は起きませんでした。海岸線は長いですし、何より広い。ですが、湖で漁をする漁民が増えたことで、そのうち、他の領地や、他の国の漁民と漁場争いをするようになりました」
アルマは、ペルルや、そしてプリムラにも判りやすいように、話しだす。
「最初は船の数艘での小競り合いが、漁村単位で漁に出るようになり、やがて街から自警団として護衛がつくようになり、最終的に領主の軍すら出動するようになりました。勿論、血が流れずに済んだ訳ではありません」
ペルルが、小さく、まあ、と呟いた。
「初めのうちは岸からあまり遠ざからずに、領地の境界線を越える方向だったようですが、それでは密漁になりますから、次第に非難が強くなる。必然的に漁師はどんどんと湖の中央を目指し始め、三つの国の船が頻繁に出くわすようになります。そうして、湖での戦闘は珍しくなくなってしまいました。宣戦布告もなく、そもそも決まった敵すらいない、出会い頭の虐殺と略奪でしかありません。この事態に、流石に三国の王家が動き出し、協定を結びました。王家の許可なくして、湖の沿岸から六百キロ以上は侵入してはならない、と。それが、『バーラエナの協定』です」
実際は、湖の恵みを獲り尽くす危険性などということはあり得なかっただろう。それでも、数年に渡って続く飢饉が、もしも他者のせいで漁でも食料を得られなかったら、という恐怖に変わっていったのだ。
「いつからいつまでのことだった?」
グランが尋ねる。なんだか試験を受けてるみたいだな、と思いつつ、記憶を浚う。
「確か、オミリティコス暦三十一年から、エヴィエニス暦三年だったな。ええと、今からだと四百六十四年前から、二百五十年前まで、だ」
暦は、現在三つの国で共通したものはない。大体、王の在位何年目、という風に数えられる。他国の人間と話す時はかなり不便だ。
「随分長い間ですのね」
「三十年もしたら殆ど意味がない状態だったようですけどね。うちがフルトゥナに侵攻して、向こうの国家が滅亡した後、他の協定に混じって無効化宣言が出されたようですよ。[奇襲王]イーレクスの息子エヴィエニスの代ですが」
ペルルの感心したような言葉に、説明をつけ加える。
「まあ、奴はよくやった方だったよ」
思い返すようにグランが呟いた。
「で、それが一体何の意味があるんだ?」
話にフルトゥナ侵攻が出てきたせいか、僅かに不機嫌な口調でオーリが訊く。
グランが動じもせずに、それに答えた。
「『バーラエナの協定』の有効期間内に、龍神を引き上げることができた期間がすっぽりと入っている、ということだ。あの協定は、湖の沿岸から六百キロ以上の侵入の他に、他国へ船を使って侵入することも制限された。つまり、下僕がイグニシアから湖のフルトゥナ側へ行こうとすると、どうしても王家の許可が必要で、それは記録として残っている筈だ」
その場の全員が、その理論を検討する。
「船で移動しなかったかもしれない。俺たちみたいに、馬で沿岸をぐるりと進んでいった可能性は?」
「どれだけ時間がかかると思っている。王家を誑かして、許可ぐらい好きに取れるようになっているんだぞ。大体、まあ全てをおおっぴらにする必要性はないが、こそこそと痕跡を隠す必要もない。当時は火竜王宮も今ほど力をつけていなかったし、対立も激化してはいなかった」
暗に自画自賛して、その意見を否定する。
「記録が残っているって、それはイグニシアだろう? 王都に戻って、その協定に関する執政所へ行って記録を調べてくるのか? かなり危険だと思うけど」
オーリが次に口を挟んだ。
「フルトゥナにも、受理した記録は残っている。龍神を引き上げるために、下僕とその手下どもが街や湖上に逗留するための許可がいるから、一度となく街へ寄っていることは間違いない。フルトゥナへの王国軍の侵攻では、湖沿岸部はあまり戦役での被害を受けていなかった。そして呪いに追われて、住民は急いで逃げ出している。その後に荒らされたこともない。ならば、我々が必要とする書類は、未だ港町の執政所にあるはずだ」
グランの言葉に、しかしオーリは苦い顔を崩さない。
「何か他に問題があるか?」
「……水を差すつもりはないんだ。だけど、フルトゥナは基本的に遊牧の民だ。王はいたし、幾つか街を作って定住する場所もあった。だけど、気質は風任せのままなんだよ。イグニシアできちんと記録をとって何百年も残してあるからといって、フルトゥナの執政官が同様なのかというと、悪いけど私には自信がないね」
グランが不審そうな表情になる。
「そんなものか?」
「言っておくけど、君たちの何でも書き残して保存しようとする熱意はちょっと異常だよ。あれは、北国のせいで、冬の間暇すぎるのが原因だと思うね。我々は古歌を口伝で伝えるから、やがて消えていくことも仕方ないと思う質なんだ」
幼い巫子が唸り声を漏らす。流石に目論見が狂ったらしい。しかし、だからと言ってこの案を捨てるつもりもないようだった。
やがて、彼は決断した。
「当時の執政官の勤勉さに期待しよう。どちらにせよ、二キロ毎にペルルに潜ってもらうよりはずっと手がかりを探しやすい。明日、アウィスの街で探索して、何も見つけられなければ次の西側の街へ向かう。ペルルに調べて貰いながら、残った我々はまた書類探しだ」
「急に、地竜王を見つけるまで何年かかるのか不安になってきたよ」
小さく自嘲しながら、オーリが呟いた。
控えの間で辛抱強く待つ。
幾つか離れた部屋からは、嬌声とも悲鳴ともつかない声が漏れている。
この宮殿では、いつものことだ。特に気にすることもない。
二時間は経った後で、ようやく入室の許可が下りた。
扉を開き、うやうやしく一礼する。
「遅かったわね、イフテカール」
苛立った声がかけられた。
それは、彼を待たせていたことを棚に上げている訳ではない。
「申し訳ございません、我が姫君」
寝台の上に横たわったまま、ステラはつんと顔を背けた。白く浮かび上がる肌の曲線が、艶かしい。
天蓋から下がる布に半ば隠れて、もう一つの肉体が横たわっていた。ぴくりとも動かないが、かろうじて胸部が微かに上下している。
まあ、自らの手を介さない悦楽に興味はない。素知らぬ顔で、イフテカールは王女を見つめた。
「ご執心の吟遊詩人の件ですが、一旦は発見致しました」
一瞬、ステラの顔が残忍な喜びに光る。が。
「一旦は?」
抜け目なく、イフテカールの言葉を衝いてきた。
「申し訳ございません。再び、逃げられましてございます」
憤然として、ステラが上体を起こす。
「これは貴方には荷が勝ちすぎる仕事なのかしら、イフテカール?」
それには応じず、媚びたような笑みを浮かべる。
その程度で一応は満足したのか、ステラは更に尋ねてきた。
「まあいいわ。それで、ノウマードはどこにいたの?」
「トゥーリスです、ステラ様」
それは、彼らの目的地の可能性があるとして出てきた、カタラクタ北部の都市だ。まあ、今では全く違うということは判っているが。
「あんなところに何の用かしら……」
訝しげに呟く。トゥーリスは確かに街道の要所の一つではあるが、これから冬が厳しくなろうという時期に行きたいところではない。
「奴はロマです。理由は何となく、かもしれません。もしくは、会いたい人がいるのかも。彼の高潔さは、確かに大したものでした」
青年が自分に全く靡かなかったことを思い出したのだろう、僅かにむっとした風にステラは眉を寄せた。
「そうそう、彼からご伝言があるそうですよ」
彼女の注意を充分に惹きつけたことを確認し、口を開く。
「美しく貪欲な淫売の女王よ、手に入れられぬものに執着せず、つましく生きるがいい、と」
それは、ある歌劇の一節だった。前半の呼びかけは全く違うが。
ステラの顔がみるみる青褪める。
「……淫売? 淫売ですって? 私は、一度だって、金銭を目当てに愛を売った覚えはないわ!」
誇り高く、そう言い放つ。
少しばかりずれている気がしなくもないが、そんなことは表に出さない。
「金銭、とばかりは限らないのではないですか? 貴女は、事実、あのロマの要求に折れたのですから」
イフテカールの指摘に、ぎり、と歯を噛みしめる。
誘惑するには向かない相手もいる。例えば、政敵であるとか。
ステラは、敵対する相手を懐柔する、ということができない。
それは彼女の若さか、王女だからと甘やかされて育ったせいか。
例えば、彼女にとっての敵の筆頭であるアルマは、幼い頃から陰謀術数を叩きこまれている。その差は、おそらくは今後十年も経てば歴然としてくるだろう。
そして、あの吟遊詩人は、彼女にから見れば敵というほどの存在ではなかった。
そんな相手を誘惑し、拒絶され、むきになった。今までに、こんな相手はいなかったから。
しかし、確かに、彼を手に入れるために、その要求を飲むべきではなかったのだ。
彼女は王女であるのだから。
「……イフテカール。あのロマ、ノウマードの首を、銀の皿に載せて私に献上なさい。一刻も早く!」
苛烈な命令を、深く一礼して拝する。
毛足の長い絨毯へ向けて、嘲りの笑みを浮かべながら。
「いらっしゃい、イフテカール。私、気分がすぐれないの」
次いで苛々と命じられ、無言で金髪の青年は足を進める。寝台に横たわったままの、虫の息に近い見知らぬ裸体を無造作に掴み、そして床に打ち捨てた。
数時間後、青年は王宮の庭園を一人歩んでいた。白々とした月光が、その細い金髪を光らせる。
やがて、視界に一棟の建物が現れる。他の宮殿と同じく豪奢で巨大ではあるが、どこか寂れた雰囲気があった。
正面の扉を開くと、そこは天井までが十メートルを越える、大広間だった。
まっすぐ奥に、その天井近くまで聳え立つ一体の立像がある。
混じりけの全くない黒瑪瑙で覆われた、蝙蝠の翼を背に負った龍の立像。
イフテカールは、その台座の前まで無言で進んだ。埃一つない大理石の床に膝をつく。
「……もうすぐ、です。もうすぐ、そこから出して差し上げますよ。我がきみ」
純粋な崇敬だけを凝らせた声が、がらんとした広間に響くこともなく、消えた。




