04
船に戻り、毛布に包まれたままのペルルを部屋へ送り届ける。
今日は続けて潜ることはないだろうから、彼女の身支度をプリムラに一任した。それには、かなり時間がかかるだろう。
竜王兵を捕まえて、グランとオーリが目を覚ましたら、会議室へ集合するように指示を出しておく。
段取りを全て済ませたかどうか、頭の中で確認する。この辺り、彼は一般的な貴族の少年と比べても雑務に手馴れている。
一応今のところできることは済ませたと確信して、ようやくアルマは自室へと引っこんだ。
「うぁあああああああ」
低く呻きながら、椅子に崩れ落ちる。
ごつん、と額をテーブルの縁に当てた。
船内の家具は、ほぼ全て床や壁に固定されている。その強固さが、今は頼もしい。
目を閉じるとあの光景が鮮明に浮かぶ気がして、強い意志でブーツの爪先を睨みつけた。
この先、何度も潜るとすると、その度にペルルが湖から上がるところに立ち会わざるを得なくなる。
何というか、正直、心臓が持つかどうか、真面目に自信がない。
だが、湖底の調査に、自分の代わりに誰かを立ち会わせる、ということは、まず無理だ。
ペルルは小柄ではあるが、衣服や髪に水を含んだ状態の彼女を引き上げるのは、普通の人間が一人では難しい。アルマの人並み外れた力があってこそ、まだ楽にこなせることだ。
そして、あの舟の幅では、男が二人並んで立つのは無理だろう。
そもそも、他の誰かの前にあの彼女の姿を晒す、というのは、どうしても穏やかではいられない。
「結局逃げられないんだろうなぁ……」
小さく呟く。
逃げたい、というのとは実は違う。
この場合の、ある種のいたたまれなさと上手くつきあっていくには、アルマはまだ若い。
濡れたペルルを抱き締めた際に、彼の衣服も酷く濡れた。殆どはマントで済んだが、腕は湖水につけたために袖が肘まで水を含んでいる。この季節だ、着替えないとまずいだろう。
しかし、どうにも立ち上がる気力がなかった。
酒に逃げたくなるっていうのは、こんな気持ちなのかな、と意識の片隅で考えながら。
結局、彼らが全員揃ったのは午後を回った辺りだった。
睡眠を摂り、着替えを済ませ、それぞれが少しばかりすっきりした顔になっている。
クセロの姿だけは、ないが。
それに関しては一切言及せず、グランが口火を切った。
「お疲れ様でした、姫巫女。いかがでしたか?」
少々堅苦しく発せられた言葉に、ペルルが小さく首を振る。
「舟を中心に、円を描くように泳いできました。はっきりとは判りませんが、大体、半径三百メートルほどは見たと思います。ですが、今までにない竜王様の気配、というものは、一切感じられませんでした」
「そうか……。ありがとう」
短く礼を返す。
元々、ペルルが戻った時に叩き起こされなかった時点で、朗報はないと判っていたのだろう。一回目で、さほど期待もしていなかったとも言える。
しかし、思った通りだったからと言って、失望しない訳ではない。
考えこんだグランに、アルマが問いかける。
「どうする? また違う場所に潜って貰うのか?」
「いや。闇雲にやっても、効果は薄いだろう」
卓に広げられた地図を見つめる。
湖の面積は、絶望しそうなほどに、広い。
「ちょっと考えたんだけど。古歌の中に、『最も夜の長い場所』というのがあっただろう」
ふいに、オーリが口を開いた。グランが頷く。
「その時に、地竜王がこの抉れた大地の底にいたとしたら、日光が差しこむ時間は地上よりも短くなる。それも、穴の北側よりも、南側に寄っていた方が、遙かに」
ぐるりと、地図に描かれた湖の岸に沿って指をなぞる。
「なるほど。単純に、半分の面積に絞りこめたな」
「フルトゥナ側だというのも、ありがたいね。この状況で、イグニシアやカタラクタに近寄るのは、ちょっと危険だ」
現在彼らがいる場所は、湖のほぼ真南端になる。この先、西に進むか、東へ進むか。
「どっちでも一緒なら、西へ行ければ都合がいい。イェティスたちは拠点に戻らないといけないし、その間にも歌は教えこめる」
「そうだな。もう、教えられる程度には整理できたのか?」
グランの問いに、オーリは頷いた。
「元々の歌の方は、また折を見て君と検討しよう。だけど、歌を流布するのも急いだ方がいいだろうしね。君がよければ、この会議が終わったら始めようかとは思ってる」
「今度は俺も聴いていいか?」
アルマの言葉に、吟遊詩人は苦笑した。
「私は構わないけど。教えている間は、退屈かもしれないよ。きちんと練習した音楽家が、演奏会で奏でるのとは違うんだから」
「そんなことで文句を言ったりしねぇよ」
少しばかり心外で、そう返す。
「だったらどうぞ。宜しければ、ペルル様も」
オーリに招かれて、ペルルはぱっと表情を明るく変えた。
火竜王宮の船にも、風竜王宮親衛隊の二艘の船にも、四十名ほどやってきた親衛隊たちが入れる部屋などない。
結果、親衛隊の船の甲板に、三十名ばかりが集まった。残りはもう一艘を管理している。交代で、また教わることになる予定だ。
満員に近いこと、協力関係にあるとはいえ、火竜王の高位の巫子と〈魔王〉の裔が乗りこんでくることは、まだ穏やかでいられない者たちも多いということで、アルマとグラン、ペルルは火竜王宮の船に留まった。しかし、船の間の距離が渡し板で繋がっているほど近い状態では、甲板にいれば充分聞こえる。岸から離れている分、波の音もさほど大きくはない。
プリムラだけが、自分も歌を覚えたい、と強く主張して、オーリと共に隣の船へと移った。
オーリが、彼に似合わず、僅かに緊張した面持ちで民の前に立つ。
「まず、ここに来てくれたことに礼を言う。三百年前に民を棄てた私には、本来、お前たちの前に立つ資格はない。だが、私は未だ風竜王の巫子であり、その立場を棄てたことはない。竜王と民を、世界を繋ぐ者として、私は龍神の復活をむざむざと許し、世界の全てをかつてのフルトゥナのように貶められることだけは防ぐ。他の竜王の巫子と共に。そのために、どうか力を貸して貰いたいのだ」
そう告げて一同を見回し、そして風竜王の高位の巫子は、深く頭を下げた。
「オリヴィニス様!」
慌てて、イェティスが制止する。オーリの傍で、驚いたようにプリムラが彼を見上げていた。
親衛隊の面々からざわめきが起きる。
「……あいつは、どうしてもこの件に関しては卑屈だな」
呆れたように、グランが呟く。
「そうか? 俺には判るよ。あいつの気持ちが」
ぽつりとアルマが応じた。
「お前がさ。自分の行動に自信を持ってて絶対に揺らがない、っていうのは、別にいいことだよ。けどまあ、そうじゃない奴はいるし、そうじゃない場合もある。それだけのことだろ」
少しばかり驚いたように、グランは少年を見つめた。やがて苦笑して口を開く。
「お前は僕を過大評価しがちだ。僕だって失敗はしてきた。ぼろぼろだ。でも、まあ、そうだな。揺らがずにいたいとは、ずっと思っている」
その言葉に、今度はアルマが驚く。
この不死なる巫子は、彼が生まれる遥か前からイグニシアに君臨し、絶対的な権力を握っていた。グランが過ちを犯さず、常に正しいということに好意的でない時もあったが、しかしそれ自体を疑ったことはなかったのだ。
「ほら。始まるぞ」
少しばかり何かをごまかすように、グランが隣の船を示した。
向こうの甲板では、全員がオーリを囲むように座りだしている。
リュートの音が、湖の上を渡る。
視界の片隅で、ペルルが微笑んでいた。
どうやら、一度目はとりあえずざっと流して聞かせることにしたらしい。
オーリが歌う古歌は、年代が古いだけあって、酷く長く、そして装飾過多だった。
最後の音が弦を震わせて消えていくと、フルトゥナの民は口々に疑問点を口にし始めた。オーリはその一つ一つに耳を傾けている。
「……なあ。あの歌の通りだとすると、地竜王の傍には、龍神がいるんじゃないか?」
僅かに顔を青褪めさせて、アルマがグランに尋ねる。
だとすると、今日、ペルルに湖に潜らせたのは、凄まじく危険なことではなかったか。
しかし、グランはあっさりと口を開いた。
「心配ない。龍神の方は、とっくに引き上げられている」
「は?」
思わず問い返したアルマに、ひらりと片手を振る。
「だからこそ、地竜王が湖底におられると僕は考えて……」
答えになっていない言葉が、ふいに途切れる。眉間に皺を寄せ、グランはなにやら考えこんだ。
不審そうな顔を互いに見合わせて、アルマとペルルはそれを待った。
やがて顔を上げると、幼い巫子は早口で言葉を放つ。
「オリヴィニスのレッスンが終わったら、皆で会議室まできてくれ。僕は先に行っている」
「グラン?」
「急がせる必要はない。僕も、考えることがある」
既に甲板の上を危なげなく歩き出しながら、グランはそう言い残した。
オーリたちが引き上げてきたのは、休憩を挟みつつ四時間ほど経った頃だった。
会議室の扉を開く。奥の椅子に、むっつりとした顔のグランが座っていた。
「首尾はどうだ?」
「上々だよ。全員に教えこむのは、効率が悪いし意味がない。だから、歌を十五人、リュートを五人に絞りこんで伝えることにした。今晩いっぱい練習させて、明日、選ぶことにするよ」
「リュートの人数が少なくないか?」
訝しげに、顔を上げてグランは尋ねた。
彼の近くの椅子に座りながら、オーリが肩を竦める。
「彼らはここに伝統楽曲を習いに来たんじゃない。船に楽器が積んである訳がないだろう。とりあえず今は私のものを貸しているんだ。彼らと別れるまで何日あるか判らないが、何とかして貰うしかないね」
その辺りは相手に一任するつもりでいるのだろう、グランは素直に頷いた。
「それで? 君は、何の相談だ?」
促されて、一同を見渡した。アルマとペルルとプリムラはもう席についている。
普段なら、このような場ではプリムラは壁際に立っているか、椅子を寄せて座っているかだが、船の中では椅子を移動できない。ペルルの隣で、少しばかり居心地が悪そうだ。
しかしグランはそんなことを微塵も気にせずに、口を開く。
「オリヴィニスには昨夜少し話したが、龍神の行方のことだ。地竜王によって封じられていたのを、あの下僕が、遥か昔に湖底から引き上げた、と聞いている。地竜王が湖底で眠っている、という根拠の一つはそれだった。
ならば、下僕が引き上げた場所が判れば、その近辺に地竜王がいる、ということでもある」
女性たちは朗報に顔を輝かせたが、少々捻くれた男性陣は眉を寄せた。
「場所が判るのか?」
「判ってたら、君は最初からそこへ直行するよね?」
双方向から言い立てられて、グランが頷く。
「そうだ。場所はまだ判らない。下僕は、地竜王のことなどおくびにも出さなかったし、僕もそれについては奴から情報を得た訳じゃない。だが、推測は可能かもしれないんだ」
グランは腕を組み、椅子の背にもたれかかった。頑丈にできている椅子は、子供の体重程度では軋みもしない。
「まず、龍神の方だ。王宮の中に、火竜王宮があるのを覚えているか? 随分と昔にこちらの関係者は放逐されて、今は封鎖されていると言われている」
まっすぐに視線を向けて尋ねられる。その勿体ぶった言い方に、アルマは戸惑いつつ頷いた。
「ああ。遠目に見たことは何度かあるよ。崩れそうで危ないから近寄るなって言われてた」
「そうじゃない。そこに、引き上げられた龍神がいる」
さらりと告げられた言葉に、二の句が継げない。
「大胆不敵というか、傍若無人というか……。そこまで火竜王宮を冒涜されて、よく君は黙ってるね」
呆れたように、オーリが口を挟んだ。グランの眉間の皺が深くなる。
「そうは言うが、僕が生まれる前からの話だぞ。幾ら何でも、そんな時代の責任を被せられても困る」
返された言葉に、風竜王の高位の巫子は視線を逸らせた。その時点で生きていなかった者には責はない、というのが彼の信条だ。
「いやいやいや、ちょっと待てよ! 王宮の、竜王宮だろ? あんな近くに、そんな……!」
アルマが、ようやく声を上げた。
王宮には、月に一度以上は出仕していた。父親などは、もっとだ。その敷地内に龍神がいたと知らされて、背筋がざわりと騒ぐ。
「まだ封印は解けていないからな。龍神の本体そのものはさほどの脅威じゃない。厄介なのはその意思と下僕だが、まあそこは今はいいだろう」
「いいのかなぁ……」
何となく腑に落ちない表情で、オーリが呟いていた。
「今問題にしたって、何の解決ができるというんだ? とにかく、下僕は何百年も前からイグニシア王室に取り入ろうとし続けていた。王宮の中の竜王宮という、安全な場所が確保できるまで、龍神を無闇に引き上げることはできなかった筈だ。
僕があの竜王宮について聞いたのは、先代の巫女からだった。少なくとも、彼女の時代に竜王宮が廃された訳ではないらしい。ならば、それ以前ということになる。
一方であの場所に王宮が建てられたのは、イネルティア王の治世だったから、ざっと四百年ほど前か」
「公的には完成したのがイネルティア暦十三年だろ。なら、四百六年前だ」
アルマが補足すると、周囲から驚いたような視線が向けられた。
「……何だよ」
「いや……。詳しいんだなぁ、と思って」
当たり障りなく、オーリが答える。
「あのな。俺は、軍に属してなかったら、公的な職務はまだ学生なんだよ。俺に歴史学を教えてるリッテラ教授は、ちょうどその辺りが専門なんだ」
憮然としてアルマは説明した。
「時間と金を無駄にしていた訳ではないようだな。ちょうどいい」
満足げに笑んで、グランは身を乗り出した。
「先代の巫女は、まだ若くして亡くなった。長くても、三十年も在位してはいないだろう。なら、四百六年前から、三百二十年程度前の間、約百年間に、龍神は引き上げられたことになる」
「いや年代を特定できたのは判るけど、それが一体何になるんだ?」
おそらくはグラン以外の者が抱いている疑問を、アルマがぶつけてみる。
笑みを深め、グランはその小さな指で卓に広げられた地図の中央を、とん、と叩いた。
「オミリティコス王の治世に、『バーラエナの協定』が結ばれた。覚えているな、学究の徒よ?」




