18
ふわり、とその背が柔らかなぬくもりに包まれる。
「……放っておいて、ください」
震える声で、ようやくそれだけを告げる。
「いいえ」
穏やかな声が、短く返してくる。
ペルルが背後から軽く抱きしめてきているのだ。
「なら、俺が離れます」
「いいえ、させません」
アルマの言葉に、穏やかに、しかしきっぱりと答える。
実際のところ、少女の腕に物理的な拘束力はない。だが、だからといって無下に振り払っていけるのかといえば、アルマにはできなかった。
オーリは、数メートル離れた場所に背を向けて座り、ぼんやりと月を見ていることに決めたらしい。少なくとも、それは今のアルマにはありがたかった。
「構わないで、ください。頼みます、から」
「そんなことはできません」
一貫したペルルの言葉に、爪が更に地面を抉る。
「同情ですか? そんなもの……」
言葉にすると、状況がはっきりと突きつけられて、胸が更に痛む。
しかし、ペルルは退かない。
「いけませんか? だって、お気の毒ですもの。貴方が辛い時にお慰めもできないなんて、私には我慢できません」
背を覆うぬくもりを、小さな手の柔らかさを振り払えない。
同情心を、屈辱だと感じない訳では、ない。
だが、今は彼女のその優しさが、どうしようもなく嬉しく、恋しかった。
思う存分、という訳にはいかなかったが、二十分ばかり泣いて、ようやくアルマが大きく息をつく。
「……醜態を晒しました」
俯いて、小さく呟く。正直、ペルルの顔を真っ直ぐ見る自信がない。
だが、少女はいいえ、と返しながら軽く背を撫でてきた。
数分ほど、そのままぼんやりと座っている。
「……ちょっと考えたんだけどさ。アルマ」
ずっとこちらに背を向けていたオーリが、口を開いた。
「このことが一段落したら、私と一緒に来ないか?」
「え?」
申し出が突飛すぎて、話についていけない。
「いや、先刻グランが言ってただろ? 〈魔王〉の血族には、竜王宮の管理が必要だ、って。だけど、特に火竜王宮の、とは言ってなかったからさ。君にその気があるのなら、風竜王宮でよければ、話に乗るよ」
ぽかん、と青年の背中を見つめる。
「まあ、爵位も領地も名ばかりになってしまうけどね。二人で、世界を旅するのもいいさ。行ったことのない街へ行って、初めて会う人たちと歌って、踊って、皆で楽しんでまた次の街へ。君、殆ど王都から出たことなかったんだろう? 行軍と、この旅だけじゃ、そりゃ楽しいこともなかっただろうし」
「……行ったことのない街、か」
グランに手酷く拒絶された今、その申し出はかなり魅力的だ。
現実逃避という意味合いで。
「けど、いいのか? ……俺は、お前のところの国の仇だろう?」
おずおずと問いかけると、初めてオーリは振り向いた。やや呆れたような顔をしている。
「今更それを訊かれるとは思わなかったな……。そんなこと、私たちはとっくに乗り越えたつもりだったけど」
あっさりと断定されて、恥じ入る。明らかに、今の彼は卑屈になっていた。
「そう、だな。悪くない」
小さく返す。
そうだ、悪くはない。
義務も忠義も、全て関係のない生活になるのは。
「……だ」
しかし。
「だめっ、だめだめだめだめだめだめですっ!」
突然、ペルルが凄い勢いで割りこんできた。
「……ペルル?」
肩に手をかけ、こちらを覗きこむように顔を寄せる少女に、少し及び腰になる。
「竜王宮の管理、というなら、水竜王宮にも権利はございます! カタラクタに参りましょう、アルマ!」
「権利?」
どう考えても厄介ごとでしかない気がするが。
「フリーギドゥムの、水竜王が顕現されたあの丘に、私と戻ってはいただけないですか?」
真剣な瞳でこちらを見つめてくる。
彼女の、自らの帰郷すら目処は立っていないのに。
オーリは異議を唱えられたにも関わらず、面白そうな顔で眺めてくるだけだった。
「ありがとう、ペルル。そうできたらいいですね」
微笑んで、そう返した。
姫巫女の嬉しそうな笑顔が、胸に痛い。
オーリとの間にあった溝よりも、もっと深いものが、彼女との間には未だ厳然として存在した。
それでも、いつか、と望まずにはいられない。
いつか、竜の舞う丘で、と。
アーラ砦に戻ったところで、オーリは今日もまっすぐ祭壇の間へ向かった。
「お前、またプリムラが心配するぞ」
半ば呆れて、アルマが忠告する。
「朝食というか昼食というか、まあ今日の食事は結構遅くに摂ったからね。それより、私もそろそろ限界だ」
小さく苦笑して、そう告げる。
限界、の理由が、〈魔王〉に魂を焼かれかけたから、とは言えないが。
だがその言葉にやや気遣ったのか、アルマは砦中央の広間まで彼を送っていった。
オーリが階段に足をかける。
「跳んでいかないのか?」
ちょっと見てみたい気がしていたのだ。が、疲れたような顔で振り返られる。
「限界だって言っただろう」
その言葉に、周囲を見回す。昼間、風竜王が遣わしてくれた光球は、今は見えない。
アルマの仕草に気づいたのだろう、小さく息を落して、オーリは壁によりかかった。
「竜王が、巫子を溺愛するばかりだと思っていないか、アルマ? 私たちは、竜王にお仕えするだけの能力を持ち続けているか、常に試されている。自分の身を処することぐらいできないようでは、竜王に愛想を尽かされるだろう」
その言葉は、かなり意外だ。
オーリと風竜王とは、互いに信頼しあっているというか、依存しあっているというか、そんな印象だったのだが。
「まあ、歩いて登れないほど厳しくもない。上までいけば、多分、回復できると思うし。さほど辛い試練じゃないよ」
「試練?」
真面目な顔で、頷かれる。
「君の試練はあっちだろう。早く済ませた方がいい」
無造作に居住区を示されて、眉を寄せた。
しかしそれにはもう反応せず、オーリは階段を登っていった。
寝室に入ってみると、アルマの試練は既にぐっすりと眠っていた。
僅かに拍子抜けして、寝台の端に腰掛ける。
もう血の臭いはしない。身体を拭いて、着替えもしたのだろう。
その辺りを見られたくなかったのかな、とぼんやり考える。
グランが小さく身じろぎする。
起こしたか、と思い、息を潜めた。
うっすらと、巫子の瞼が開く。
「……あにうえ……?」
小さく、言葉が漏れる。
思わず首を傾げるが、グランはそのまままた眠りに落ちた。
「……兄?」
グランの兄と言えば、[奇襲王]イーレクスだろう。
彼が存命の頃の夢でも見ていたのか。
なんだか不思議な気分で、アルマはしばらくその場に座っていた。
空気が、不意に暖かく変わる。
一瞬前にいた荒野からは一転し、周囲の風景は薄暗い室内へと変わっていた。暖炉では明るい炎が踊っている。
溜め息をついて、長椅子に腰を下ろした。
ここは、下町にあるイフテカールの拠点の一つだ。家具はさり気なく高級で、居心地がいい。
イフテカールが、燭台を手に取る。暖炉から火を移すと、部屋は明るさを増した。
金髪の青年は床に跪き、エスタの左腕を検分した。
「酷く焼かれたものですね」
「治りそうか?」
今でも患部はじりじりと痛む。だが、イフテカールの視線に対する嫌悪感が勝って、エスタは平坦な声で尋ねた。
「勿論です。多少痛みますし、時間はかかりますが、綺麗に治りますよ」
その条件に、眉を寄せる。
嗜虐性が、この青年の特性の一つであることには、もう気づいていた。
エスタの表情に何を思ったか、イフテカールは肩を竦めた。
「ご不満でしょうが、竜王の御力で害された傷を、そう簡単に治せると思われては困ります。我が主の御力でなくては、切り落とすしかない状態です」
「いや、その辺りは感謝している。どれぐらいの時間がかかりそうだ?」
短く取り繕う。イフテカールは、特に気にした様子もなく続けた。
「すぐに始めれば、明日の夕方には」
ならば、陽が沈んでから充分レヴァンダル大公家へ向かうことはできる。
アルマたちは、イフテカールのように瞬時に他の場所へ移動する、という力は使えない。大公家に警告を送るにしても、数ヶ月単位で時間がかかるだろう。
だが、実行を遅らせても意味はない。
大公家の当主を、殺すのだ。できる限り、早く。
暖炉の薪が大きく音を立てて、我に返る。
イフテカールが跪いたまま、返事を待っていた。
「充分だ。宜しく頼む」
笑みを浮かべ、青年は身軽に立ち上がった。
「では、こちらへ」
それに従って、エスタも立ち上がる。
ふと、いつから自分は彼にこのような態度を取るようになったのか、と思う。
初対面の時は、別だった。お互いに礼儀正しく、警戒心を持って接していた。
イフテカールに爵位はない。どこかの貴族の血縁だとも聞いていない。
しかし、ステラ王女の事実上の愛人である以上、王宮での扱いはそれなりに高いものとなる。
そう、大公家の使用人でしかない自分よりは、遙かに。
だが、イフテカールは徹頭徹尾エスタに対して丁重さを崩さない。
自分がレヴァンダル大公家の血を引いているからだろうか。
そしてそれは、おそらく最初に接触してきた時にはもう知られていたはずだ。
でなければ、自分を選ぶ理由がない。
それ以降ずっと、彼はさり気なく、エスタを奉り上げようとしている。
更なる警戒心を持って、エスタは戸口をくぐるイフテカールを見つめた。
翌朝は、夜明け近くに全員が集まった。
「長居をしすぎた」
最初に口を開くなり、グランがそう断言する。
彼とアルマとは微妙な距離感を保って腰掛けていた。おそらく昨夜の確執は解消されていないのだろう。
そんなことを意識の片隅に置きつつ、オーリが口を開く。
「出発するってことか?」
「そうだ。ここから一番近い湖側の港町跡はアウィスだと思ったが、そこまで何日かかる?」
地図を用意もせずに、問いかけてきた。
「馬で進んで、三日だね」
記憶を攫って、そう答える。グランは、きっぱりと言い渡した。
「今日一日で、そこまで進む」
「……君はまた、私に皆を運ばせるのか?」
少しばかり呆れて、風竜王の高位の巫子はそう尋ねた。
「長居をしすぎた、と言っただろう。馬車に、食料は五日分しか積んでいない。国境を越えてから、今日で四日目だ」
確かにそれは先を急ぐ理由にはなり得る。
「まあ、三日を一日に短縮するぐらいは大した労力じゃないし、構わないけど。アウィスにまで行けば、食料が手に入る予定なのか?」
幼い巫子は、それに小さく頷いた。
「国境で別れた船が、そっちへ先回りしている予定だ。三日後を目処に、と言ったから、そろそろ着いていておかしくはない」
「それはやっぱり、最初から私に運ばせるつもりだったんだね?」
僅かに目を細めて問い質す。それに関して、グランは軽く肩を竦めただけだった。
「……その、アウィスとやらに行って、その後どうするつもりなんだ?」
僅かに固い声で、アルマが訊いた。
「それは、現地に着いてから話す。今は少々都合が悪い」
しかしとりつく島もない返事に、露骨に少年は眉を寄せた。
更に険悪な雰囲気になる前に、オーリがさり気なく口を挟む。
「それより、ちょっと昨夜のことについて訊いておきたいんだけど」
あからさまに不機嫌な顔で、火竜王の関係者たちが視線を向けてきた。
しかし、青年はそんなことには頓着しない。
「エスタが、レヴァンダル大公を殺す、って宣言してたけど、そっちの方は放っておいていいのか?」
グランはともかくとして、家族に固執するアルマが一切慌てていないのは腑に落ちなかった。
「ああ、それなら心配ない」
「別に心配いらねぇよ」
が、あっさりと異口同音に返される。
まじまじと見返されるのにも構わず、グランは視線をアルマに向けた。
「そう言えば奴はあのことを知っているのか?」
「いや、エスタがうちに来たのは俺が六歳の頃だろ。いい加減分別もついてきてた辺りだし、説明されてないんじゃないかな。基本的に、あれはうちと竜王宮だけの機密だ、ってお前が言ってたんじゃないか」
先ほどまでの微妙な雰囲気がなかったように、二人が確認し合う。
「……しっかりと説明をして貰えないのかな?」
僅かに苛立ちを覚えながら、オーリは促した。
草原が、朝の光に照らされている。
懐かしげな眼でそれを眺めながら、オーリが大きく伸びをした。
呪いが消えた夜明けは、三百年ぶりだ。流石に感慨深いものがある。
ぱたぱたと軽い足音を立てながら、プリムラが砦から飛び出してきた。
「竈の火、消してきたよ!」
厨房の責任者である彼女が、報告する。
「ありがとう。ご苦労様」
砦の主に応じられて、小さく照れ笑いを零した。
彼女の手伝いをしていたアルマが、裏庭に通じる扉をくぐる。どうにも落ち着かなくて、首を軽く回していた。
「どうかしたのか?」
目聡く、オーリが尋ねてくる。
「いや。……角がさ、伸びただろ。布を巻いただけじゃ隠せなくなったんだよ」
溜め息をつきつつ答える。
昨夜のごたごたがひと段落した後、自分の角の長さに気づいた時はまた酷く混乱した。
アルマの角は今、根元で軽く一周してから下方へ向かい、顎の辺りまで伸びている。以前よりもやや太くなったこともあり、重さや重心が変わってしまっている。
記憶がない間に、これだけの変化があれば、それは動転もするというものだ。
一晩経ったぐらいでは、まだ慣れない。
「……確かに、それで布を巻いたら顔全体が隠れてしまうな」
小さく苦笑する相手を、じろりと睨む。
「グランに訊いてみたら?」
さらりと責任を押しつける青年に、肩を竦める。
「訊いたよ。別にもう隠す必要はないだろう、って」
確かにフルトゥナは現在無人で、彼が角を隠す必要性は全くない。
しかし、どうにも居心地が悪い。
「フードは被っとくかな……」
ぶつぶつと呟きながら、厩へと足を向ける。
厩では、クセロが馬車の荷物を整理しているところだ。馬の準備も始めなくてはならない。
オーリとプリムラも、アルマの後に続いた。




