17
遥か上空から、火の粉と灰が舞い落ちる。
そのただ中に立ち、血に染まった衣から灰をはたき落していた巫子が、顔を歪めた。
「……ちっ」
「おおおおおお前なっ! 流石に今のはやばいだろ!」
小さく舌打ちされて、アルマが怒鳴る。
あの瞬間、咄嗟にエスタを引き摺り出し、グランとの間に防御壁を築きながら、地に伏せたのだ。
ぎりぎり無事だと言える状況だが、ほんの少し遅れれば生命は危うかったに違いない。
「当たり前だ。殺す気でやっている」
しかし冷えた目で見下ろしながら、グランははっきりと言い切った。
「……何を言ってるんだ、お前……」
「それは、既に龍神の下僕と契約を結んでいる。〈魔王〉の血と力を、奴にむざむざ渡す訳にはいかん。今、この場で、魂の一片すら残さずに燃やし尽くす」
魂の一片すら、残さずに。
その言葉に、何故かぞくりと腹の底が冷える。
「仮にもお前の剣だった男だ。お前に手を下せとは言わん。僕がやる。そこを退け」
淡々と、グランが告げる。
それは、優しさと言うには余りにも、酷薄だ。
「本当、なのか? エスタ……」
恐々と、背後に視線を向ける。
しかし、大地に座して、エスタは俯いたままだ。
「エスタ」
再度尋ねると、ようやく青年は口を開いた。
「……貴方は、結局、竜王宮を選ぶのですね」
その言葉が繋がらなくて、眉を寄せる。
「何を……」
「もう、いいのです。もう沢山だ」
ゆらり、とエスタが立ち上がる。
「グラナティスを殺し、貴方を殺し、旦那様を殺して、私が〈魔王〉の遺志を継ぐ」
暗く、座った眼でそう宣言する。
グランが鼻で笑う。
「〈魔王〉〈魔王〉と、やたらと拘る男だな。自身に力も誇りも持てないから、祖先の名に縋ろうというのが見え見えだ。言っておくが、〈魔王〉アルマナセルは、貴様が思うような人物ではなかったぞ」
「……黙れ」
軋むような声を、漏らす。
「あれは文字通り〈魔王〉だ。人ではない。人の血が混じった、お前たちとも違う。人の愛情も人の友情も、全く理解の外だった。価値観が違う。美意識が違う。そもそも魂の造りが違う。俗悪で卑小で尊大で醜悪だった、我らが……」
「黙れ! アルマナセル様を侮辱するな!」
全身で、グランの言葉を否定する。
……その名は、もう、自分のことではない。
この十年間、一体幾度、自分は自分の名で彼に呼ばれていたのだろう。
呆然と、怒りに打ち震える青年を見上げる。
「やれやれ。修羅場にもほどがあるんじゃないか?」
呆れたような声が、横合いからかけられた。
ふらり、とロマのマントに身を包んだ青年がこちらへ歩み寄ってくる。
昨日砦に着いて、血に塗れた服は着替えた筈だが、今の彼は再び血と泥に汚れてしまっていた。
その後ろに、数歩遅れてペルルがついてきている。
「お前、何でこっちに来てるんだよ!」
反射的に怒声を上げる。
「ああ心配しなくても、腕は一応嵌めてから来たよ」
オーリが軽く右手を振ってみせる。
「そんなことは一切心配してねぇよ!」
「……それは流石に酷くないか……?」
正気ではなかったとはいえ、腕を外した張本人の言葉に、僅かに傷ついたような顔をする。
ちょっとばかり心が痛まないではないが、そもそもアルマはペルルをここから引き離しておきたかったのだ。
それを考えると、彼女と同行しているオーリのことはひたすら腹立たしい。
「まあ、それなら、心配の種をちゃんと護りに来たらどうなんだ? 私もそろそろ体力の限界だしね」
あっさりと告げられて、悪態をつきながら立ち上がる。
エスタはこちらへ一切視線を向けもしなかった。視界の端にちらりと入ったグランが小さく笑みを浮かべている。
この二人の間にいるアルマを退かせようと、オーリが甘言を弄したのだろう。
僅かな罪悪感を感じたが、とりあえずペルルに軽く駆け寄る。
「お怪我はありませんか、アルマ」
心配そうに見つめてくるのに、小さく笑いかけた。
エスタがただ無言で立つのが不審ではあった。が、おそらく、彼らがある程度集まるのを待っていたのだろう。
暗い瞳でこちらを睨み据え、一言、口にする。
「割れろ」
次の瞬間、大地が揺れた。
足元の地面に、ひび割れが生じていく。
咄嗟に、アルマは手にしたままだった抜き身の剣をそれに突き立てた。
ずん、と一度鈍い響きを残し、大地の揺れが静まる。
明らかにエスタが怯む。
静かに、グランが片手を彼に向けた。
「……ふむ。〈魔王〉と竜王の巫子が全て揃っていては、少々分が悪いですね」
穏やかな声が流れると共に、月が雲に翳った。
金髪の細身の男が、エスタの背後に立っていた。
その存在に気づいた瞬間、息を飲んで身構える。
彼らは全員、エスタの行動を注視していた。だというのに、今の今まで、彼に気がつかなかったのだ。
「貴様……!」
「イフテカール!」
グラナティスが苦々しげに吐き捨てる。
驚いたように、背後を振り返りつつエスタが名前を呼んだ。
イフテカールはわざとらしいほどうやうやしく、片手を胸に当てて一礼した。
「お迎えにあがりましたよ、エスタ殿」
さらり、と絹糸のように細い金の髪が流れる。
彼はやたらと軽装だった。マントもつけておらず、上着は丈の短い略式のものである。手袋も薄手のものすら嵌めてはいない。
そう、ほんの数秒前まで、暖かな部屋の中で寛いでいたかのように。
「しばらく待て。まだ、戻れない」
酷くぞんざいに、エスタは青年に返した。
困ったような顔で、イフテカールがその細い指を相手の頬に触れさせる。
「彼らを殺すのなら、一人ずつで、とお願いしていたではないですか」
そして、もう一方の手を、エスタの焼け爛れた左腕に添えた。
「それに、酷いお怪我だ」
小さく言葉を落した瞬間に、その肌に、ぎり、と爪を立てる。
「ぐ……」
エスタは小さく呻くのみで、それに反しようとはしない。
「あー……。ステラと気が合うわけだな」
ぞくり、と背筋に悪寒を感じながら、アルマが呟く。
それを聞き咎めたか、笑みを浮かべてイフテカールは視線を転じてきた。
「ご無沙汰しております、アルマナセル様。あの舞踏会以来、王宮にも出仕されなくて、皆様寂しがっておられましたよ」
「むしろ奴らは清々していると思うぜ」
嫌味は、しかし通用するとも思えない。
次いで、イフテカールがアルマの隣に立つ青年を見た。
「こんなところで奇遇ですね、ノウマード。一体どうやって王宮から脱出されたのですか? ステラ王女はお気の毒に酷く気落ちされていましたよ。小姓が数人、首を刎ねられました」
さらりと続けられた言葉に、しかし一切動じずにオーリが肩を竦める。
「可哀想に。てっきり、今頃はもう新しいお楽しみを見つけていると思っていたけど」
「ええ。それは勿論。ですが、王女にとって、お楽しみは増えるものです。決して減らされるものではない」
「人生は失望の連続だ。彼女もそのうち慣れるよ」
笑みさえ浮かべながら応酬する二人を、苛立たしげにグランが片手を振って止めた。
「下僕。そいつをこちらへ渡す気はないか」
「それは非道な提案ですね、グラナティス様。この方は元々、道に打ち捨てられていたも同然でした。それを気紛れで拾い上げ、生死を握ろうとおっしゃるのですか? 彼にも、誇り高く自由に生きる権利はございますのに」
慇懃に返してくる言葉を、鼻で笑う。
「〈魔王〉の血を引いている時点で、誇り高く自由に、など許されない。奴らには竜王宮の管理が必要だ。犬は縛りつけ、服従させ、口輪を嵌められて、初めて世界は安堵する。まして鎖がお前の手の中にあっては、民は夜も眠れぬだろうよ」
エスタの顔色が変わる。
「……挑発できるうちは存分に挑発するべきだという君の信条は、時と場合を考えては貰えないものなのかな」
オーリが小さく呟いた。
「時と場合としてはまたとない機会だろう」
憮然として、グランが返す。
その後ろで、アルマが指の関節が白くなるほどに剣の柄を握り締めていた。
「ともあれ、お断りいたしますよ、高位の巫子。もう夜も遅いですし、ここは些か冷えて参りました。そろそろ失礼致します」
ゆっくりと、優雅に龍神の下僕が一礼する。
「エスタ……!」
アルマが思わず呼びかけた名前は、しかし、冷たい視線で返されるのみだった。
「それでは、ごきげんよう」
対照的にイフテカールは穏やかに笑んで、暇を告げる。
そして次の瞬間、二人の青年の姿は消え失せていた。
グランが立て続けに悪態をつく。
「君が黙って行かせるとは思わなかったよ」
オーリが、周囲をぐるりと見回しながら口を開く。
「どうやって奴を止められると思っている。封じられているとはいえ、奴の主は神だ。あいつが首を突っこんできた時点で、僕らの負けだ」
眉間に皺を寄せたまま、長々と溜め息を漏らす。
「……まあ、エスタを連れて帰られたぐらいで済んで、まだましだった。フルトゥナの呪いが解けたことで、この地が奴を拒むことはなくなったからな」
「一長一短だねぇ」
呑気にオーリが返した。勿論、そんなことは思っていない。フルトゥナと風竜王が解放されたことが、彼にとっては大きな益だ。
疲れたように眼をこすり、グランが砦に向けて一歩踏み出した。
が、脚から力が抜け、がくん、と大地に膝をつく。
「グラン!」
慌てて、アルマが駆け寄りかけた。
「来るな!」
しかし、強い口調で拒絶されて、脚を止める。
「先刻、大技も使っていたしねぇ。癒そうか?」
わざとなのだろう、気負わせないように、軽い口調でオーリが問いかけた。
エスタの呪いに何箇所も傷を負わされ、血を流し、おそらく体力も尽きかけているのだろう。
「必要ない。一人でできる」
しかしきっぱりと断言して、ふらりと身を起こした。
が、数歩も歩かないうちに、また倒れかける。
「せめて、外傷だけでもここで治して行ったらどうだ?」
体力まで回復はしないだろうが、それでも痛みは減る筈だ。
幼い巫子が頭を振る。
「一人で、と言った。……人の前でしたいことではない」
数度瞬いて、残る二人の巫子と視線を交わす。
アルマは、今まで何度もグランに傷を癒してもらったことがある。別段、人目を憚る行為はない。
オーリもペルルも同意見なのだろう。戸惑ったような視線を返してきた。
荒い息をつきながら、幼い巫子は地面に座りこんでいる。
「ああもう、意地を張るなよ。砦まで運んでやるからさ」
アルマがグランの前まで進んでしゃがみこんだ。その身体を抱え上げようと、手を伸ばす。
「触るな!」
ぱん、と軽い音を立てて、その手が振り払われる。
「……グラン……?」
更なる拒絶に、小さく呟いた。
グランは、きつい視線でアルマを睨め上げている。
「いい気になるな、〈魔王〉の裔が。犬の分際で、僕に哀れみをかけようというのか? 分を弁えろ。お前はただ、僕に命じられたように動いていればいい。余計なことをするな」
アルマは呆然として、火竜王の巫子を見つめている。
「グラン様、そのような言い方……!」
ペルルが衝動的に口を挟む。
「僕とこいつの問題だ。無闇に口を出さないで頂きたい。お前もだ、オリヴィニス」
機先を制されて、青年は軽く肩を竦めた。
「グラン、俺はただ……」
「触るな、と言った」
グランは、僅かにその身を固くしている。
アルマを警戒しているかのように。
彼の意図が判らなくて、混乱する。
エスタの悪意を、殺意を抑え、宥め、否定してきたのは、グランと契約を結んでいたからだけでは、ない。
彼ら二人の間に、それ以上の絆があったからだ。
ある意味、十年間忠実に仕えてくれた青年との間よりも、強いものが。
そう、だから、それを悟ってエスタは失望したのだ。
なのに。
草原を風が渡る音に、もう少し強いものが混じる。
短い金髪の男が、草を踏みしだいて近づいてきていた。
グランがあからさまに眉を寄せた。
「クセロ」
「意地を張りすぎだぜ、大将」
呆れた口調で、男が感想を口にする。
「危険だからお前は出てくるなと言っておいたはずだ」
「あの物騒な二人がいなくなるまでは隠れてたさ。少なくとも、気にされちゃいない」
のらりくらりと非難をかわして、主人の傍らに膝をつく。無造作に手を伸ばし、よ、と小さく呟きながらその身体を抱き上げた。
グランは不機嫌な顔を崩さないが、しかし彼を拒もうとはしない。
クセロが、ぐるりと残りの三人を見回した。
「悪いんだが、大将が落ち着くまで、ちょっと時間を潰しててくれねぇか。一時間、はかからないか?」
グランは、返事を返さない。
クセロがとりあえずオーリに視線を向けた。単純に年長者ということで責任を押しつけられた青年が、苦笑しながら頷く。
「悪い」
もう一度言って、クセロは踵を返した。
「……グラン!」
縋るように、アルマが名前を呼ぶ。
しかし、幼い巫子はそれに一切の反応を見せなかった。
「なん……だよ」
家族と、竜王宮。
アルマを肯定し、支えていた二つの存在が、この夜、彼を拒絶した。
「なんだよ、ちくしょう……」
故郷を遠く離れた荒野で、少年は大地に爪を立て、一人嗚咽を漏らした。




