16
レヴァンダル大公家の監理者にして火竜王の高位の巫子グラナティスは、肉体的にはまだ子供である。しかも、極度に運動不足の。
実際、身体能力では成人男性でもある〈魔王〉には確実に圧倒される。
故に、彼は一切エスタに近寄らせない戦法に出た。
自らの立つ周囲に、ぐるりと炎を設置する。
エスタが魔術を使えるようになって、まだ間がない。アルマは雷や炎、氷など、自然界の現象を応用することができるが、それを使いこなすには、長年の訓練が必要だ。魔力に、対応させたい現象のイメージを投影するために。
つまり、エスタは現在、物理的な破壊を伴う程度の魔術しか使えない。
それも距離が遠くなるほど、対象へ与える意思の幅が大きくなってしまい、命中精度が下がる。
エスタの契約が正式に書き換えられた今、グランの支配は殆ど効かなくなった。だが、エスタが近づこうとすれば、巡らされた炎が容赦なく彼に襲いかかる。
そして、グランを護る炎は、それだけの役割で済むわけではない。相手が距離を取ったとしても、執拗にそれを追い、焼き尽くそうとする。
既に、青年は左手が肘の辺りまで一面の火傷を負っていた。だらり、と身体の横に力なく下げている。
今は襲い来る炎を、魔術で何とか防いでいるだけだ。
それでも、じりじりと焦がされる空気からは逃れられない。
燃え盛る炎に囲まれ、赤々と照らされたグランの表情に、もう侮りの色はない。
嘲りすらも、ない。
そこにあるのはただ、静かな憐れみだ。
「そんな顔をするな!」
耐え切れなくなって、エスタが叫ぶ。
「全て貴様が悪いのだろう! レヴァンダル大公家の立場が弱いのも、アルマ様の不在も! 貴様さえいなければ、こんな……!」
こんな、こんなことには。
グランは、無言で、ただエスタを見据えている。
「……殺してやる」
跳ね飛ばされた炎の塊が、空高く打ち上がった。
「殺してやるぞ、グラナティス!」
ぢりぢりと、焼けていく。
「はな、せ……!」
アルマの手は強固だった。剥がそうとして爪を立てるオーリのことなど、一顧だにしない。
だが、それは決して喉を締めつけている訳ではなかった。柔らかく、包むように、喉を覆っているだけだ。呼吸だってできるし、声も出る。ただ、離そうとしないだけで。
そして、青白い炎もまた、オーリの肉体を焼こうとしている訳ではなかった。
「離せ……、止めてくれ」
手に爪を立て、踵で大地を蹴り、懇願し、何とか逃れようと、もがく。
ぢりぢりと、ぢりぢりと焼けていくのは。
風竜王の高位の巫子の、魂だ。
焼かれ、焦がされ、散らされ、少しずつ魂が失われていく青年を、笑みを浮かべたままアルマが見下ろす。
この地に、今一度、絶望を振りまくために。
自分の何かが欠損していく感覚に、怖気が止まらない。
身体的には変化はない。むしろ、先ほど落下した際の、脱臼以外の怪我が徐々に治っていっているぐらいである。
泣き叫び、救けを求めたい欲求だけは押し留める。
そんなことを、したら。
〈魔王〉アルマナセル。
彼は、本当に、三百年前に風竜王を滅することすらできたのだ。
〈竜王殺し〉など、およそ現実的ではない、と思っていたのに。
ニネミア。
私の魂を救いに、ここへは来ないで欲しい。
今まで幾多の巫子を送ってきたときと変わりはしない。
ニネミア。
もう、次の巫子は存在しないのかもしれないけれど。
あなたの元に、きっとまた民は集う。
ニネミア。
ニネミア。
ニネミア。
私は、あなただけのものだった。
この魂の最後の一片が焼き切れるまで、あなたのものだ。
「我が竜王の名と、深く澄み渡りしその誇りにかけて」
そして、涼やかな声が、夜空に響いた。
視線を、頭上へと向ける。
アルマから見て正面、三メートルほど離れたところに、純白の聖服を月光に光らせて、水竜王の高位の巫女が立っていた。
「……ペルル……、何故」
まあ何故も何も、これだけ騒いでいれば気づかれもするかもしれないが。
それでも、クセロとプリムラが、彼女を留めておいてくれると思っていた。
少なくとも力押しにかけて、ペルルには一切期待をしていない。
ここへ来てしまっても、あっさりと次の犠牲者になるだけだ。
「ペルル、早く戻って。砦の中なら、一旦は安全だ。早く!」
彼女の姿を目にしても、アルマの気配は変わらない。
時間を稼げば、次の致命的な状況になる前にグランが何とかできるだろう。
しかし、姫巫女は小さく微笑んだ。
そして、片手を胸に当て、請願の続きを紡ぐ。
「レヴァンダル大公子アルマナセル。貴方を、愛しています」
「……………………え?」
間の抜けた声が、小さく漏れる。
ペルルは幸せそうな微笑みを薄く浮かべたまま、続けた。
「初めてお会いした時から、貴方は私に優しくしてくださいました。礼儀正しく、私を怖がらせぬように、苦しませぬように、傷つけぬようにとずっと護ってくださっていたことを、私は知っています。
私の我が儘も願いも約束も、全て叶えてくださいました。
それが、貴方の職務であるからだ、と思い、それで充分だとそう思っておりました」
ペルルの、淡い水色の瞳が、真っ直ぐにアルマを見つめている。
そうだ、あの言葉は、請願ではない。
誓い、だ。
「それでも、貴方を、愛しています。アルマナセル。
お戻りください。
もう一度、私の我が儘を叶えて頂けませんか?」
「……え、いや、あの、それは」
凄まじく狼狽えて、腰を浮かせる。足元にあった何かに躓いて、思い切り背後に尻餅をついた。
「い……っ!」
苦痛に呻く。
たた、と小さな足音がして、ペルルがすぐ傍にしゃがみこんできた。
「アルマ?」
その距離の近さに、一気に顔が上気する。
思わず片手で口元を隠し、顔を逸らせた。
これ以上視線を合わせていては、絶対どこかで血管が破裂する、と確信できる。
「だめ、ですか?」
しかし小さく呟かれて、慌てて向き直った。
「いえ、とんでもない! その、俺でよいのであれば、幾らでも」
そつのない言葉など、到底出てはこない。
「よかった」
それでも安堵したように微笑まれて、こちらの心もすとん、と落ち着く。
ぎこちなく、アルマも小さく笑んだ。
と、傍らから堪えきれなかったような笑い声が起きる。
「……っ、全く、以前も言ったけど、君の家系は本当に女性に弱いんだな……」
腹部を抱えるように、オーリが地面に横たわったまま笑っている。
「うるせぇよ!」
気恥ずかしさと苛立たしさとで、ばん、とその腕を叩いた。
「っああああ!」
が、瞬間、オーリが悲鳴を上げる。
「ノウマード!」
ペルルが小さく叫んだ。
「おい、どうした!?」
慌てて、アルマが覗きこむ。
「どうした、じゃ、ないだろ、どうしたじゃ! 君が、先刻、私の腕を外したんじゃないか!」
激痛を堪え、瞳に涙すら浮かべて怒鳴り返してくる。見ると、腹部を抱えているように見えた腕は、どうやら右腕を庇っていたらしい。
「え? 腕? 俺が?」
「前々から思ってたけど、本当に全然覚えてないのか? ひょっとして後でとぼけておけばいいとか思ってないだろうね?」
「ねえよ! 腕を外したとか、流石に覚えてないで済ませる気は!」
じっとりと追求されて、反論する。
まあいいけど、と小さく溜め息をついて、オーリはそこで諦めた。
「ええと……。治る、のか?」
高位の巫子たちは怪我を治す為の術を体得している。アルマも、何度もグランに世話になった。
だが、流石に脱臼という経験はなくて、アルマが怖々尋ねる。
「治るよ。どこかの岩にでもぶつけて、とりあえず強引に無理矢理にでも何とか嵌めこめばあとは自然に」
「どうしてそう荒っぽい描写をするんだよ!」
明らかに嫌がらせで告げられて、怒声を上げた。
ペルルが心配そうに、触れるか触れないかの距離でオーリの右肩に手を寄せる。
「ところで、一体何があったのですか?」
不思議そうに尋ねられて、アルマとオーリが顔を見合わせる。
アルマはここ数十分の記憶がないし、オーリはエスタがやってきた経緯を知らない。
それでも説明をしかけようとして、口を開いた時に。
「殺してやるぞ! グラナティス!」
殺意に満ちた叫び声が、空を焼いた。
素早く、視線を後方へ向ける。
グランたちがいた場所から、随分と離れてしまっている。それでも精々二、三百メートルといったところだろうが。
グランの周囲にはぐるりと炎が回っており、数メートル離れて立つエスタに今にも襲い掛かろうとしていた。
「ちょっと待てよ、あれ、グラン本気になってないか?」
流石に慌ててアルマが腰を浮かしかける。
「火事を起こすとかは、ちょっと勘弁して欲しいんだけどなぁ」
ある意味呑気に、オーリが呟いた。
それに対して、アルマが一言言おうとした瞬間。
グランとエスタを囲んで、純白の巨大な花が咲いた。
「なに……!?」
それは細い、長い花弁のようで、大地から生え、ゆっくりと蕾を閉じるように動いていく。
グランの炎が、それを一瞬で焼き払う。
しかし、何重にも周囲を囲む無数の花弁は、すぐにまた立ち上がった。
やがて彼らの頭上でぴったりと合わさったそれは、内部の容積を徐々に小さくしていく。
「……あれは、呪いだ……!」
僅かに恐怖を滲ませて、オーリが囁いた。
反射的にアルマが駆け出そうとする。
「アルマ!」
「ペルルはノウマードを頼みます!」
まだ片腕を治していない巫子を押しつける。こうしておけば、ペルルは追ってはこないだろう。
「剣を使え、アルマ!」
だが、背後から声をかけられて、足を止めた。
「剣?」
今の今まで存在を忘れていた腰の剣に目を落す。
「その銘は、〈竜王殺し〉だ。人の呪いぐらい、簡単に切り裂ける。行け!」
上体を何とか起こし、オーリが告げた。
正気を失ったアルマと闘いながら、どれほど接近されても、どれほど窮地に陥っても彼が武器を出さなかった理由がそれだ。
武器の存在に気づいた〈魔王〉に、〈竜王殺し〉を持たせてしまって、どれほどの惨状が引き起こされるか、考えたくもなかったのだ。
「判った!」
とりあえず素直にそう返すと、アルマは再び走り出す。
「呪い……ですか? ですが、あれは、昨夜私たちが消し去った筈では」
アルマの後ろ姿を見つめながら、戸惑ったように、ペルルが尋ねてくる。
「あれは、昨夜までのものとは違います。新たな恨みが、新たな呪いを生んだ。……気の毒な男です。本当に」
オーリが、静かにそれに答えた。
大地から、ずるり、と白く長いものが生えてくる。
それは風になびきながら、ぐんぐんと長さを増した。
「燃え尽きろ」
短く命じた瞬間、周囲を囲む炎が一斉に外へと向けて放射される。かろうじてそれを防いだエスタの背後だけを残し、それは一掃された。
だが、それらは再び、そしてその周囲に円を描き、数を増して生えてくる。
ぶつぶつと、ぶつぶつとエスタが呟き続けている。
「……呪い抉る。呪い刻む。呪い毟る。呪い折る。呪い剥ぐ。呪い裂く。呪い穿つ」
ゆらゆらと、ざわざわと生えてくるそれは、見覚えのある白い腕の形をしていた。
「呪い潰す。呪い刺す。呪い斬る。呪い躙る。呪い捩る。呪い焼く。呪い沈む。呪い壊す。呪い千切る。呪い砕く。呪い晒す」
何重にも重なって生える呪いは、次第にグランの炎をも通さないほどに厚くなっていく。
そして、球体を描くように、頭上までをみっちりと閉じた。
その呪われた世界に二人きりで、エスタが叫ぶ。
「グラナティス! 貴様を、呪い殺す!」
「憐れな男だ。本当に」
静かに告げる幼い巫子の身体を、一本の呪いが抉った。
炎の勢いがやや翳ったところで、グランは躊躇なくそれらを消した。
この密閉された空間では、空気は限られるようだ。自分の呼吸ができなくなっては、意味がない。
その代わり、彼は自らの周囲の空気を限界まで高温に保った。その身を害そうとして伸びてくる呪いの腕は、その温度に溶け縮れていく。
それでも、学習しない訳ではない。
何重もの呪いの厚みでその場を囲んだように、グランへと向かう腕も、何本も捩り合わされ、その芯の一本だけでも届けばよい、という形へと変化していく。
結果、グランはその身体の数箇所から血を流し始めていた。
「貴様が悪いのだ、グラナティス。貴様がどれほどレヴァンダル大公家を束縛し、不条理を強いてきたことか。貴様さえいなければ、もっと大公家は幸福であり得た!」
「火竜王宮の庇護なしでは、とっくにあの家は絶えていたと思うがな。特に、三代目と五代目が厳しい」
エスタの恨みに、歴史をその目で見てきた巫子がさらりと返す。
「……貴様さえいなければ、祖母も、母も、あのような境遇で死なずともよかったのだ」
軋むような声に、グランに取りついた恨みがぎちぎちと体内への侵入を試みる。が、さほど深くならないうちにそれは溶けた。
「所詮は私怨か。貴族の庶子が、しかも母が使用人である者がどのような扱いを受けるか、貴族に仕えてきたお前が知らない筈もなかろうに」
祖父であるリアンステッドが、当時妻と同居中であったか、離縁に近い別居中であったかは判らないが、使用人が妻の座には納まれはしない。
普通の貴族でも、子を認知して屋敷の外で囲われ者となれば、上々の扱いだ。
まして、レヴァンダル大公家に嫁ぐ側としては、唯一の跡取りを産む、というのが互いへの条件の一つである。
それが反故にされたとなると、最悪、母子共に内々に処分されかねない。
しかし、その辺りの事情など、今のエスタには理解できていないのだろう。
……いや。理解できているからこそ、か。
「殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる。殺してやる」
ぶつぶつと、みしみしと、ぎしぎしと。
呪いの蕾が、徐々にその大きさを圧縮していった。
グランの使う御力も、エスタの呪いも、心が折れればその威力も消える。
今の時点で、どちらの心が強いとは言い切れないが。
少なくとも、グランは防戦一方になっている。
そして、じわじわと迫る呪いの腕が、その幼い身体に到達することも増えてはきた。
身体に生じた新たな痛みに、グランが僅かに眉を寄せた、その時。
彼らの耳の奥を圧迫していた感覚が、ふいに消えた。
「うぉあつっ!?」
同時に、蕾の外に勢いよく漏れた熱気に、誰かが悲鳴を上げる。
しかしそれをものともせず、片手に剣を握ったまま、横一直線に裂かれた呪いを掻き分け、彼が顔を出してきた。
「大丈夫か、グラン!」
黒髪に長い角を頂いた、もう一人の〈魔王〉の裔。
外部から入りこんできた涼やかな風が、頬を撫でる。
グランが、不敵な笑みを浮かべた。
「よくやった。駄犬!」
「……え?」
褒められたのか貶されたのか、一瞬〈魔王〉の血を引く二人の動きが止まる。
次の瞬間、草原に壮大な火柱が立った。




