11
その日、帰宅途中に、アルマは父親たちと別れ、単身竜王宮に呼び出された。
厳密には、エスタと共に、だ。
「やんちゃ小僧どもとやりあったそうじゃないか?」
小さな応接間に通されてしばらく待たされたのち、姿を見せた少年は、挨拶もなしにそう切り出した。
「……ごめんなさい」
どう返そうか数秒迷った末に、アルマは素直に謝った。
「アルマナセル様は悪くございません! 全て、あの者たちが」
エスタが慌てて口を挟むが、巫子の聖服を身につけた少年はひらりと片手を振ってそれを遮った。
「いきなり突き飛ばし、転ばせ、ナイフを取り出した。なるほど、確かに相手が悪いな」
「……ご存じでいらっしゃったのですか」
見ていたように告げられた言葉に、低く返す。
「僕が王宮に何の手も入れていないなどと思われていたのなら、また酷く見くびられたものだ」
アルマよりも、二、三歳程度年上だという容姿に似合わず、喉の奥で面白げに笑う。
これが、火竜王の不死なる高位の巫子、グラナティス。
アルマが自分に向ける態度に彼の影響が垣間見えて、何となく教育に悪そうだ、とエスタは考えた。
「別に、お前たちを叱りつけるために呼び出した訳じゃない。まあ、予想よりも少々早くはあったが」
「予想?」
アルマとエスタが二人でその言葉を反復する。
「六歳とはな。お前の父親でも、自分の剣を手に入れたのは十二を超えた頃だった」
「父様?」
「剣、ですか?」
彼の言葉は、本当に要領を得ない。
そんな風に思われていることなど気にもせず、グランは、ぎし、と椅子の背に体重をかけた。
「僕は、今日までお前の苦難に反撃を許さなかった。まあ裏で奴らを色々締め上げてはいたが。それが何故かと言えば、お前自身の力では上手く事に対処できないからだ」
「……はい」
自らの未熟さ、不甲斐なさに、膝の上で拳を握る。
だが、彼はまだ六歳の少年だ。それを要求する方が間違っている。
エスタはその拳の上にそっと手を乗せ、真っ直ぐにグランを見つめた。その視線に、相手は動じる素振りもない。
「お前自身が対処できないならば、できるものを剣として使えばいい。つまり、そいつだ」
「……私、が? ですが、私はアルマナセル様にお仕えしてまだ一月も経っておりません」
エスタが小さく呟く。グランの言動があまりに突飛で、思わず口を衝いて出たのだ。
「そう気負うな。お前が使えなければ、新たな剣を探すだけだ」
さらりと酷い事を言う。
「お前自身、まだ若い。手段はこれから学習しなくてはならないだろう。だが、忠義は学んで身につけられるものではない。アルマを護ってやってくれ」
ふいに真面目な口調で、グランは続けた。
「頼まれるまでもございません」
深く頭を下げるエスタを、どこか不思議な気持ちでアルマは眺めていた。
自分のために、誰かが血を流してくれる。それが、アルマの大きな転機であった。
それが、彼に敵対する相手から流れるものであったとしても。
翌朝、アルマの部屋を訪ねたエスタは、寝室の扉が開いているのに気づく。
「お入りなさいな、エスタ」
中から年配のハウスメイドが声をかけてきて、ためらいがちに戸口に立った。
「おはようございます」
「おはよう」
アルマは既に着替え、椅子に腰掛けていた。その傍で、ハウスメイドはにこにこと笑っている。
「どうかなさいましたか?」
こんなことは初めてで、内心戸惑いながら尋ねた。
「お前の布の巻き方は全然なってなかったからな。ヘリエンタに教えて貰え」
見れば、ハウスメイドは手に長い布を持っている。
「はい」
軽く頭を下げ、アルマの傍にある卓の上に手にした書類を置く。
ハウスメイドは何が楽しいのか、笑みを絶やさないまま丁寧に指示を出してきた。
エスタはさほど手先が器用な訳ではない。時折失敗しては肩を落とす。
「大丈夫よ、すぐに慣れるわ」
とりあえず解けたりずり落ちたりしない程度の出来になったところで、ヘリエンタはそう励ました。
「力が及ばず、申し訳ありません」
我ながら、固い口調で答える。不審そうに、アルマが見上げてきた。
「どうした」
「いいえ」
視線を合わせたくなくて、書類を置いた卓へと向かう。
「不満があるのなら、早く言ってしまえ」
横柄に告げられて、指先が震える。
「……そちらこそ、私に不満がおありなら、直接おっしゃればよいのです」
「不満?」
「このような、ハウスメイドの仕事を押しつけたりせずとも、私がご不要ならばそう言って頂ければ、すぐに荷物を纏めましたものを」
「エスタ……」
背後から発せられるアルマの声が、ややおぼつかない響きを帯びる。
「だが、お前は昨日、布を巻いてくれた」
「あれは非常事態でした。あそこで貴方を放りだすことは私の仕事ではありません」
しばらくの沈黙があって、アルマは小さく告げた。
「……そうか。もういい」
とん、と身軽に椅子から下り、戸口へと向かう。
頭に巻いた布の房飾りを揺らして、少年は部屋を出て行った。
小さく溜め息をつく。
「まあ、まあ」
アルマ付きのハウスメイドは、エスタの言葉を咎めるでもなく、にこにこと笑顔を浮かべながら呟いた。
「……怒っていないのですか」
主人に感情をぶつけたことと、彼女の仕事を侮辱するようなことを言ったことだ。
だが、ヘリエンタは気にしていないようだった。
「怒ってなんていませんよ。でもそうね、あなたはちょっと考え違いをしているわ」
「考え違い……?」
眉を寄せて、繰り返す。
「アルマ様は、普段、お屋敷では布を巻いていらっしゃらないの。窮屈ですからね」
しかし、エスタが仕えてからは、屋敷の中で巻いていない姿など見ていない。
「……つまり、私は信用されていないのですね」
その程度、推測することは容易い。
「慣れるまでに時間がかかるということよ。あの方は、この屋敷にいる者を家族として考えてくださっている。家族は、自分を傷つけないと、無邪気に」
そんなことはあり得ないのに。アルマの年相応の幼ささえ、今は苛立たしい。
「それでも、不用意に頭に触れられるのは酷く嫌がられるのよ。あの角、下手に触っただけでも凄く痛いのですって」
鋭く、彼女の方を見る。先ほど、不器用さと苛立ちとで、布の扱いがお世辞にも丁寧だったとは言えない。
「我慢しておられたのですか?」
「ええ。あなたを家族として、それも最も親しいものとして受け入れようとしておられたのよ。それにこの先ずっと、気心の知れたハウスメイドがいる状況が続く訳ではないもの。あの方は、やがて、レヴァンダル大公家の当主として立たねばならなくなるのだから」
そうなれば、王宮との関わりの深さは、今の比ではない。
当主から、そして高位の巫子から託されたものの重みを、今になって実感する。
唇を噛んで、踵を返す。扉を勢いよく開け放ち、少年は廊下を駆け出した。
胸の中が、もやもやする。
庭園に配置された東屋の中で椅子に腰掛け、地面まで届かない脚を行儀悪くぶらぶらと揺らしながら、アルマは考えこんでいた。
エスタは怒っていた、ような気がする。
アルマは、今まで使用人や竜王宮の巫子たちから、怒りを露にされたことはなかった。時には父親やグランから、苛立ちめいたものを感じたことはあったが、彼らは充分に自制を利かせていた。
王宮で時折会う王族や貴族たちは、大人であれば彼らも自制を知っている。致命的な状況にならない程度、という意味で。
昨日のように、子供たちから悪意をぶつけられたことはあるが、彼は既に、それは仕方がないのだと諦めることを学んでいた。
ただ、エスタの怒りが何によるものか、よく判らない。
大公家に仕えている以上、少なくとも自分に悪意を持ってはいないはずだ。そして、十歳年上、というのは、彼にとっては充分大人である。
問いただすのが一番簡単なのだろうが、何故だか、それをしたくはなかった。
その、尻込みする理由もよく判らない。
自らの抱えるもやもやに踏みこむこともできず、遠くからそれを観察することだけを続ける。
当然、何も判るわけはないのだが、不意に何かが腑に落ちた。
「……そうか。僕、失敗したんだ」
瀟洒な円卓の縁に、額を乗せる。
「失敗、したのかぁ……」
もう揺れていない爪先をじっと見つめる。
何となく判ったような気がしたのに、もやもやが晴れない。
どれほどの時間が経ったのか、その爪先に人影が落ちた。
「……アルマナセル様」
どう声をかけていいか判らず、名前を呼ぶ。
俯いていた少年が、顔を上げた。その表情は、今まで見たことがないほど、ぼんやりしている。
「ああ、エスタ。まだ何もしていなかった。すまない。すぐに父様に話をして、お前が望むような形になるようにして頂くから……」
父親に迷惑をかけたくない、と思っていたことも、もう気にならない。
彼がここに来た以上、もう、失敗は決定的になってしまったのだから。
だが、エスタはもどかしげに口を開いた。
「あの……、あの、アルマナセル様。私の、私が両親を亡くしたのは、六歳の時でした」
とにかく、何かを言わなくては。その一心で口にした言葉に、アルマはきょとんとして見返してくる。
そう、少なくとも、興味を惹くことはできた。
「私はそれ以来、父の親戚の家で世話になっていました。母は、その、私生児でしたので、父方の親戚は酷く冷たかったのですが」
「……僕と、同じ歳だ」
ぽつり、とアルマが呟く。
「はい。親戚は雇われ人夫で、私はその手伝いをしていました。それがもし自分の店であれば、家族総出で働いたのでしょうし、私がそこで働くのも当然だと思ったでしょう。ですが親戚の家の子供たちは働かされず、私のみが自分の食い扶持を稼いでいたのです」
父を亡くし、一人働いて生きていくことを考えてみる。だが、働くということさえよく判らない貴族の少年には、それは無理なことだった。
「十五になった時、もう一人で生きていけると判断されて、私は家を追い出されました」
だが、天涯孤独である、という恐怖は、理解できる。
「エスタ……」
「母から、大公閣下のことはよく聞いておりました。駄目で元々だ、とお訪ねしたところ、旦那様は私を受け入れてくださいました。まして、一人息子でいらっしゃる貴方のお傍に仕えることができて、私はどれほど幸福だったかしれません」
そうだ。それを、忘れかけていた。
前日、アルマの頭に布を巻いていた時、エスタはまるで自分が彼のヒーローであるかのように錯覚していた。
その後、火竜王の高位の巫子にも認められるようなことを言われ、舞い上がっていたのだ。
「私には、家族がおりません。アルマ様、このような、卑しい私でも、まだお傍にお仕えさせて頂けますか。家族と思って、頂けますか」
この幼い少年が差し出したのは、もっと暖かな場所だというのに。
「……お前が幸福であってくれるのなら、勿論だ」
アルマは、安心したような、柔らかい笑みを浮かべて、そう告げた。
「失敗したんだ」
ぽつり、と幼い少年が呟く。
「ほぅ」
その正面に座って、グランは相槌を打った。
「失敗したんだけど、エスタは傍にいてくれるし、前より優しくなった気がするし、よく判らない」
溜め息をついて、椅子に沈みこむ。グランは楽しげに小さく笑っている。
「……貴方のようには、できないなぁ」
天井を見上げて、小さく呟いた。
「僕がお前に真似ができるほどの小物なら、とっくにこの国は壊れているよ」
巫子の言葉に、膨れる。
エスタは相変わらず竜王宮についてきて、相変わらず本宮からは締め出されている。だが、今、礼拝堂の奥の部屋に通され、老練な巫子から貴族の政治について教えられているはずだ。
アルマの傍に居続けるには、それは必要なことだった。
「僕のようになる必要はない、アルマ。僕には僕にしかできない使命があるし、それはお前も同様だ。使命に対して、ただ最善を尽くせばいい」
グランが椅子から下りた。
「使命?」
「いずれ判る。……アルマナセル。お前は、この国の、世界の、僕たちの希望だ。お前が産まれてきてくれるのを、二百年以上も待った。強くなれ。貴族など、歯牙にかける必要もないほどに。所詮、あんな奴らは、僕よりも遥かに小物だ。奴らの存在など、世界に何の影響もない」
幼い巫子の手が、漆黒の柔らかな髪をくしゃりと撫でる。
不思議そうな目で、アルマは相手を見上げていた。
十日も経たないうちに、エスタの身支度の腕は格段に上がった。
そのうち、アルマは再び邸宅では布を巻かない生活に戻る。
ヘリエンタには、アルマの目がないところで、こっそりとエスタが頭を下げた。彼女はそれに対して、伊達に三人の息子を育てていませんよ、と大らかに笑った。
竜王宮では、二人の用事が終わった夕刻頃、主従はできるだけ近い場所へ行っては互いに指笛を鳴らしあった。高い鳥の鳴き声のようなそれは、存在を確認する安心感と、秘密の符牒というわくわくする気持ちに満ちていた。尤も、それが周囲に全く知られていないとも思えなかったが。
そして数年後には、アルマは王立大学の教授が講義を持つ、併設された学院へと通うことになり。
家族以外とのつきあい方を学び。
やがて反抗期が訪れて、その事実にエスタが絶望してしまったりしつつ。
それでも何とか折り合いをつけ、アルマに対する無条件の庇護を緩め始め。
十年かけて、ゆっくりと、ゆっくりと彼ら家族は変化していった。
それが、まさかこんな形で終わるとは、彼らの誰も予想はしていなかったのだ。




