09
注意深く、階段を登る。
祭壇の間に足を踏み入れて、内部を一瞥し、二人は足を止めた。
部屋の中央にある祭壇の前、モザイクで飾られた床の上に、一人の青年が横たわっている。寝具などは全くなく、精々マントを身体の下に敷く形になっているぐらいだ。
その身体を包みこむように、風竜王が長い胴を巡らせていた。背の中ほどにオーリの頭を乗せ、自らの頭は青年の胸に乗せている。
細い瀟洒な柱の間から、陽光が差しこんでいる。風竜王の鱗や羽毛、オーリの額のエメラルドがきらきらと光を乱反射させていた。
その親密さが、まるで一つの世界を形成しているようで、声をかけられない。
やがて、そっと顔を上げた風竜王が、鼻先で青年の頬に触れた。
「ん……」
けだるそうに腕を上げ、薄目を開く。
「何ですか……ニネミア」
オーリはぼんやりと呟き、寝返りを打った。身体を丸め、また眠りこみそうになるところを、もう一度風竜王が、今度は少し強く、頬を押す。
「あ……ああ、はい、判りましたよ」
ゆっくりと起きあがり、長く伸びをする。そしてのんびりと立ち上がり、唯一の階段へと歩み寄った。
「おはよう、二人とも」
目は眠そうに眇められているし、栗色の髪はあちこち撥ねている。明らかに欠伸を噛み殺しつつある青年を、呆然として見つめた。
出会って以来、オーリのここまで無防備な姿は見たことがない。
「どうかした?」
無言でいる二人に、流石に不審感を覚えたか、僅かにしっかりした声で尋ねてくる。
「いや、……起きてくるのが遅かったからさ。プリムラが、食事を摂ってなくて大丈夫か、心配してる」
「ああ。ごめん。寝てた」
「……みたいだな」
ようやく呆れという感情が湧いてきて、呟く。
青年は、視線を外部へ向けた。午後を回った日差しに、少しばかり驚いたように瞬く。
「もうこんな時間か……。心配かけたね。少ししたら、一度降りるよ」
一度、ということは、またここへ戻ってくるのだろう。何となく色々と諦めて、アルマは頷いた。
「あの、ノウマード。少し、この辺りを散歩してみたいのですが、危ない場所はありますか?」
傍らに立っていたペルルが尋ねる。
「いいえ。この周辺は地割れもないですし、危険な獣もいません。少々岩がごろごろしていますから、足元に気をつけてさえいれば大丈夫ですよ。帰り道に迷うこともありませんしね」
穏やかに笑いながら、オーリは請け負った。
「ありがとう。では、少し歩いてきますね」
嬉しそうに笑みを浮かべ、ペルルが返した。
一層降りると、また風竜王の光球が待っていた。
その細やかな気遣いはありがたいが、何故だか違和感を感じ、アルマは内心首を捻った。
最下層まで降り、プリムラへオーリについて一言かけてから、また外へ出る。
「馬に乗っていきますか?」
「いえ。歩いてみたいのです」
頷いて、通用門へ向かう。徒歩ならば、さほど遠くへも行かないだろう。
ざあ、と風が吹いて、ペルルは長い髪を片手で抑えた。
「風が心地いいですね」
「ええ」
都市の中と外では、空気が違う。特に王都のような大都市では、そこここで夜通し燃やされる松明の燻った匂いが、昼間でも街路に漂っている。
しかし、おそらくそれだけではない。昨夜風竜王が解放され、世界の風は再びその支配下に入った。あの、自分でも気づかなかった、ぬるりと身体を覆う何かが消失した感覚は、忘れられない。
枯草がざわざわと揺れる中を、とりとめなく歩く。
「ノウマードに訊きたかったことは、散歩についてだったのですか?」
何となく意外で、尋ねてみる。
「ええ。この辺りなら人目に触れることもないですし。久しぶりに、少し、外を歩きたかったものですから」
素直にペルルは頷いた。
そう言えば、カタラクタを発ってからというもの、専ら姫巫女を護るためとはいえ、彼女の行動は酷く制限されていた。
この一ヶ月の旅では、殆どずっと馬車の中か宿の中にいたようなものである。
息が詰まっていたのかもしれないな、と、少しばかり反省した。
「……やっぱり、ここからでは湖は見えませんね」
ぐるり、と周囲を見渡し、残念そうにペルルが呟く。
「地上からでは流石に遠すぎますね」
相槌を打ちつつ、水竜王の姫巫女は、やはり水が恋しいのかな、と思ったところで疑問が湧いた。
「そう言えば、フリーギドゥムはどうして内陸の都市なのですか? 水竜王の本宮であるなら、湖畔か海辺の方が相応しいのでは」
アルマの言葉に、一瞬きょとんとしてからペルルは微笑んだ。
「言い伝えがあるのです。昔、カタラクタが干魃で苦しんだ時に、竜王が大地を割って泉を創り出した、という。竜王の御力の元に、竜王宮と街が建てられました。今でも、その泉は街の中央に残っていますよ」
「そうか。あの時、街には入らなかったので」
フリーギドゥムを陥落させる前に、戦いは終わった。不謹慎だが、そのことを少しだけ残念に思う。
「……私が初めて水竜王様にお会いしたのは、フリーギドゥムの外、旗を持って立っていたあの丘でした」
ぽつり、とペルルは続けた。
「水竜王……」
アルマが竜王の姿を目にしたのは、昨夜が初めてだ。勿論、水竜王を見たことはない。
「その時、私はまだ幼くて、見習いから巫女に昇格したところでした。当時の高位の巫子はご高齢で、私たち若い巫女たちの祖父のような方でした。いつも優しく気遣ってくださった。その高位の巫子が病の床につかれて、私たちは一生懸命快復を祈っていました」
ざあ、とまた風が吹く。
「その日、巫子様の部屋に飾るための花を摘むために、街の外に出たのです。暖かな、春の昼下がりでした。丘には一面に花が咲いていて、私は時間を忘れて摘んでいました。ふと違和感を感じて、見上げた空に、水竜王様が顕現されておられたのです」
肌寒い、冬枯れた草原の真ん中で、遠くを見つめるような視線をして、淡々と告げる。
「どのようなお姿なのですか? 風竜王と似たような?」
「いいえ。あの時は、フリーギドゥムを覆い尽くすほどの大きさで、雲を纏っておられました。そして、悼みに満ちた声を上げられたのです。私はその時、高位の巫子が亡くなられたことを知って、涙に暮れました」
小さく、声が震えた。
どう声をかけていいのか判らず、ぎこちなく肩を引き寄せる。
無理矢理に作ったような笑みで、ペルルは少年を見上げた。
「そして、水竜王様が私の目の前に降りてこられました。額にその御力を触れさせて、消えてしまわれたのです。その時、私は次の高位の巫子に選ばれました。……先の高位の巫子の葬礼が済み、私が高位の巫子として任ぜられる時に、もう一度拝謁が叶いましたが、それきりです。竜王様と共に在ることは疑いませんが、何といいますか……」
言葉を探しあぐねて、数秒間沈黙する。やがて小さく溜め息を漏らした。
「……ノウマードと風竜王様のような、あれほど近く、仲睦まじい関わりを、羨ましいと思ってしまうのです」
ぽつり、とそう零す。妬みにも似た感情を恥じているのか、力なく肩を落としている。
「いやあ、あれはちょっと特殊なんじゃないですか? 聞けば、三百年間二人きりだったようですし。俺が知る限り、グランだってそんなに火竜王と親密じゃないですよ。大体、高位の巫子になった時に会うぐらい、というのが普通なら、あいつは三百年以上前に火竜王に会ったきりだってことになりますからね」
わざと明るく、考えすぎだというように言葉を強調する。
それを察したのか、今度は自然に、ペルルは笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。アルマ様」
その距離の近さに、どきりとする。
思わず逸らした視界の片隅に何かが引っかかって、アルマは目を凝らした。
「少し離れても大丈夫ですか?」
不思議そうに頷くのに笑いかけて、足を進める。
背の高さほどもある岩の南側、日当たりのいいそこに、蔓薔薇の茂みがあった。もう時期は過ぎているのだろう、殆どは散っているが、一つだけ、まだ蕾に近い花がついている。
そっと、できるだけ長い茎を残すようにそれを折り取る。
手袋をはめた手で丁寧に棘を除いていると、ゆっくりとペルルが近づいてきていた。
純白の薔薇を、ペルルに差し出す。
「……綺麗」
嬉しげな少女を見ていると、こちらまで嬉しくなってくる。
「お約束していた、腕一杯の薔薇とはいきませんが」
「いいえ。ありがとうございます」
彼女は、共にいる時間の殆どを笑ってくれているが、それでも、それが全て本心からだなどと自惚れてはいない。
不安を、悲しみを、苛立ちを、苦しみを堪えて笑っていることだって、あるに違いないのだ。
このまだ幼ささえ残る少女には、あまりにも酷なこの運命に。
ペルルは、目を細めて小さな蕾を見つめている。
彼女が、できるだけ多くの時間を、本心から笑っていてほしい。
「……ペルル」
小さく、名前を呼ぶ。
顔を上げて、少女は小首を傾げた。
「貴女が、好きです」
声と共に、吐息が口から出終わって、その感覚に頭が冷えた。
……今、何を言った?
どくん、と鼓動が大きく響く。
一瞬で冷えた頭は、次の一瞬で一気に血が上る。
莫迦なことを。莫迦なことを。莫迦なことを!
この失態をどう取り繕えばいいのか、頭が回らない。
何かを言わなくては、と思うのに、口の中が乾いてしまって、声が出そうにない。
あまりにも、鼓動が大きすぎる。すぐ隣に立つペルルには、完全に聞こえてしまっているに違いない。
すぐ、隣に。
小首を傾げて見上げてきている少女を見つめて、覚悟を決める。
こんなことを言って、どうなるかだなんてことは、充分予想がついていた。
そして、彼女はにっこりと笑う。
「ありがとうございます。私も好きですよ」
その、含みも邪気も全くない言葉に、膝が崩れそうになるのを何とか堪えた。
ああ、そりゃこういう展開だって、予想がつかない訳じゃなかったけどさぁあ!
大声を上げたくなるのを押し留める。
……まあ、仕方がない。彼女はまだ十四歳で、姫巫女で、純粋で、世間知らずだ。
そう、自分の真意が伝わっていないことは、状況から考えてさほど悪い事態でもない。
ぐるぐると考えて、何とか立ち直ろうと足掻いているアルマに冷静さを取り戻させたのは、空高く鳴く鳥の声だった。
周囲をぐるりと一瞥する。遠くに幾つかの岩山を見つけ、眉を寄せた。
「アルマ様?」
訝しそうに、ペルルが声をかけてくる。
「何でもありません。少し冷えてきましたね。そろそろ戻りましょうか」
にこやかにそう告げて、手を差しのべる。珍しく、少女は僅かに不満そうな表情を見せた。
「ですが……」
「陽が落ち始めると、暗くなるのは早いですよ。足元が確かなうちに、戻った方がいい」
歩き慣れない土地で、しかも周囲は整備された道という訳ではない。不承不承、彼女は頷いてアルマの手を取った。
半時間ほどかけて、砦へと帰り着く。
その頃には、やはりもう空は薄暗くなりかけていた。
通用門を抜け、砦の中へ入る扉が視界に入った辺りで、唐突に足を止める。
「どうされました?」
ペルルが尋ねるのに、空いた方の手を向けた。
「いえ、手袋をどこかで落としてきてしまったようです」
先ほどまではめていた革の手袋は、なくなってしまっている。
「まあ。どの辺りかお判りですか?」
「多分、薔薇を摘んだ辺りではないかと。捜しに行ってみます。見つけたらすぐに戻ると、皆に伝えておいてください」
さり気なくペルルが同行すると言い出す前に、それを防ぐ。
疑う素振りもなく了承する彼女に背を向けて、小走りに来た道を戻る。
ざざ、と草を掻き分け、薔薇の茂みの傍に立った。毎日馬には乗っていたが、自分で身体を動かすほどの運動量ではない。少しばかり息を切らせ、周囲を見回す。
当たりをつけていた岩山を認めて、息を整えつつ歩み寄った。
指を唇に当て、高く口笛を吹く。
それは、まるで鳥の鳴き声のように、空に響いた。
岩の、べったりと地に落ちる影の中から、ゆらりと一つの人影が歩み出てくる。
「……ご無事で。アルマ様」
フードを深く被っているためにその顔は判別できなかったが、しかし懐かしい声が僅かに語尾を震わせて発せられる。
知らず、笑みを浮かべ、アルマは答えた。
「ああ。久しぶりだな。エスタ」




