08
小一時間を費やして、ようやく彼らは調理担当者の満足できる程度に厨房を清潔にした。
アルマとクセロは即座に追い出され、寝床の確保を命じられる。
オーリが教えていった部屋の扉を開ける。室内に一つ、光球を発生させた。
「……まあ、ここだけが綺麗になっている訳はないよな」
明るく照らし出された、やはり埃にまみれた室内を見渡して、クセロが肩を落とす。
「ペルルとプリムラは、寝台が一つでも大丈夫だろう。寝具は馬車に積んでいるやつを使うとして。俺たちはまあ、寝台を使うのはグランだろうな。俺とお前は床に寝るしかないだろ」
「床っていうか、岩の上だぜ?」
踵で、がつん、と床を蹴りつけてクセロが言う。確かに、毛布があっても硬さと冷たさは辛いだろう。
「……あ。厩に、まだ干し草あったよな」
「ああ」
それがどうした、と言いたげにクセロが返した。
「あれを敷き詰めて、寝台の代わりにならないかな。寝台と同じぐらいの高さとはいかないまでも、ある程度積めば寝るのもまだ楽だと思うんだが」
続けたアルマの言葉に、ふむ、と金髪の青年は考えこんだ。
「行けそうだな」
まずはその前にざっと埃を除けばいい。二人は作業に取りかかった。
「……旦那さぁ」
屈んでいたために固まりかけた腰を伸ばして、クセロが小さく呟いた。
「あ?」
箒を手にしていたアルマが振り返る。
「この先も、今日みたいなことが続くと思うかい?」
「今日って?」
男の言うことが今ひとつ判らなくて、問い返した。
「だからさ。あの、気色悪い呪いに襲われたりとか」
「呪いは全て祓ったって言われただろ。もうないさ」
「……竜王が直接目の前にいたりとか」
軽く、クセロの不安を振り払おうと告げるが、更に続けられる。
「あー。まあ、確かにあの存在感はキツいな……」
自分が好意を持たれていなかったせいもあるが、竜王が目前に存在するのは、かなり神経をすり減らせた。苦笑して、アルマは同意する。
「おれみたいな、裏通りをこそこそ生きてる小悪党には、ああいうのは場違いなんだよな。本来なら、旦那やオーリにも気安く口をきけない立場なんだし」
「……お前がそういうこと気にしてるとは思わなかったよ」
人生を不敵に生きている、と思っていた男の弱気な言葉に、少し驚く。
「おれは途中で、同行を遠慮しようかと申し出ただろ。おれの謙虚な気持ちを察しろよ」
「あれ以上階段を登りたくなかっただけじゃないのか」
驚いただけ損だった気がして、遠慮なく指摘した。クセロが溜め息をつく。
「まあ、逃げようったってもう逃げられない場所だしな……。腹ぁ決めるか」
自らに言い聞かせるような口調で、男は低く呟いた。
ロマの冬は、厳しい。
放浪し、定住することのない彼らは、突き刺すような風を逃れるための分厚い壁も、深い雪を積もらせる強固な屋根も殆ど手に入れられない。
ならばせめて、と、冬を過ごしやすい場所へと移動する。
山よりは平地へ。平原よりは都市へ。北よりは南へ。……イグニシアよりは、カタラクタへ。
しかし、今年はイグニシア王国はカタラクタ王国と戦争中である。いや、休戦にはなったが、国境は封鎖されたままだ。
単騎で山を越えるならともかく、あのクレプスクルム山脈を一団で越えるのは人目につく。見つからない訳がない。
そのため、イグニシアに取り残されたロマたちは、越冬のためにカタラクタへ移動することもできず、動ける限り南の都市へと入っていった。
王都、アエトスは、その最たるものである。
「お断りだね」
低くしゃがれた声が、とりつく島もなくそう告げる。
「そう言わずにさ。少し、考えてみてくれよ。あんたは、ロマの中でも最長老に近い。あんたが承諾してくれれば、他の者だって従うだろう」
そこは、王都の幾つかある広い公園に停められた、ロマの馬車の中だった。馬車と言っても貴族の乗るようなものではなく、荷車の荷台部分を箱形に作り、中で生活できるようにしたものだ。それらを幾つか並べ、間の壁を取り払えば、広い部屋としても使える。
しかし、今は一台のみだ。狭い部屋の中、獣脂で作られた蝋燭が、ほんの一本、焦げた匂いを出しながら燃えている。その灯りに照らされているのは、椅子に座った老人が一人。そして、それを半円形に囲むように、男たちが五人、床板に座していた。
老人は子供のように小柄で、背も丸くなっている。だが、その存在感は、壮年の男たちの比ではない。
「ふん。いつからロマは、互いに連携をとるようになったんだね。そんなことが王国に知れたら、脅威と見なされて更に締め付けがくる。そんなことは、わしらは最初の百年に思い知った」
「だから、王国なんて関係なくなるんだよ! 俺たちを救ってくださる方がいるんだから」
焦れたように、男の一人が割りこむ。
しかし、じろり、と鋭く睨めつけられて怯む。
「わしらの竜王は風竜王のみ。わしらの巫子は、ただ一人だ。わしらが守るべきは、巫子の御言葉一つ。『何があっても、生き延びろ』と」
「竜王が俺たちになにをしてくれたよ!」
更に激昂して、一人の男が怒鳴る。
周囲の殆どの男たちが同意し、さらに口を開こうとしたとき。
「いのちを与えてくださっただろうが」
静かに、老人は答えた。
再度、男たちは黙りこんだ。
「お前たちのいのちを繋ぐために、あの方がどれほどの犠牲を払われたと思っている。わしらは、巫子に対して、どれほどの恩を背負っていることか。その手に何も持たずに産まれてきたくせに、一体何を握って死んでいけると吹きこまれたんだね?」
老人の言葉が進むにつれ、男たちは次第に視線を逸らせる。
一人、老人の正面に座し、激情に駆られていなかった男が、咳払いをして顔を上げた。
「しかし現実問題、我々に竜王の加護はないし、王国の庇護もない。この先ずっと、子や孫にもこのような辛い生活を送ることを強いるべきではないだろう。確かに、旨い話かもしれない。我々はその代価を払わなくてはならなくなるかもしれない。だが、子孫が、豊かに幸福に暮らしていけるのなら、石を投げられることもなく、食べるものに苦労することもなく、暖かな家で眠れるのならば、その価値は充分にあると、私は思う」
ざわざわと、同意の呟きが漏れる。
「先刻も言った。わしらは連携をとるべきではない。お前たちが信じて進むことを止めはせんよ。だが、少なくともわしの家族は、風竜王とその巫子にのみ膝を折る。これは変わることはない」
「どうしても?」
再度尋ねた言葉に、老人は重々しく頷いた。
「竜王も巫子も……、どうせ言い伝えじゃねぇか。俺たちを助けてなんてくれねぇ。いないんだからな」
一人の男が、吐き捨てるように言う。
老人が、低く呟いた。
「おられるよ。巫子は、まだ、この世界におられる」
遠く、男たちの向こうを透かし見るような目をして。
そして、ふいに、興味を惹かれたように訊いた。
「それで、お前たちを拾い上げようと言い出したのは、どこの竜王だね?」
「厳密には竜王、ではないんだよ。龍神と名乗ってる。龍神、ベラ・ラフマ、と」
翌日は、よく晴れて暖かくなった。
この時期、イグニシアではこんな天候になったことはない。ほんの一日で一ヶ月の道のりを踏破した、と聞かされてはいたが、しみじみとそれを実感する。
裏庭に出て、胸壁にもたれ、ぼんやりと外を眺める。
冬枯れた草原は、どこまでも広い。青く澄んだ空には、ところどころ、白くちぎられたような雲が浮いている。ぽかぽかと日光で温められた石が心地いい。
のどかすぎて、大きく欠伸をした。
背後で扉が開く音がする。
「こちらにいらっしゃったのですか、アルマ様」
振り返ると、微笑みながらペルルが立っている。
「ペルル。すみません、お探しでしたか?」
少女はケープの下に、久しぶりに水竜王の姫巫女の正式な衣装をつけている。その純白の衣装と、額のアクアマリンのサークレットが陽光にきらきらと光っていた。
「用事がある訳ではないのですが。外は暖かいですね」
こちらへ歩み寄りながら、答える。
流石にここしばらくは強行軍だった、ということで、今日はアーラ砦でゆっくりと身体を休めることになった。
第一の目標だった風竜王の封印を解くことが首尾よく終わったことと、オーリが午後を過ぎてもまだ降りてきていないことも要因ではある。
しばらくとりとめのないことを話していた後、話題はその巫子へと移った。
「ノウマードは大丈夫でしょうか」
僅かに気遣わしげに、ペルルが口にする。
「何か?」
「いえ、ノウマードは昨日から何も食べてはいないでしょう? プリムラが心配していて。上で、倒れているのではないかと」
あの青年は、それほど柔ではないと思うのだが。
ともあれ、プリムラの心配も判る。二つの意味において。
「そうですね。俺が様子を見てきましょう。あの子に上まで上がらせるのは、酷だ」
軽く体重をかけていた胸壁から身を起こすと、砦の入口に向かって歩き出した。ペルルもあとからついてくる。
小さな光球がきらきらと光を零す通路を抜け、中央の広間に出る。上階から少々光は差しこんでいたが、それでも最下層は暗い。
アルマが階段に足をかけると、当然のようにペルルがそれに続いた。
「ペルル?」
「私も参ります。心配ですし、少しお訊きしたいこともありますから」
「ですが、この階段を登るのは……」
アルマは、昨夜グランを背負って登っていた。その重みがないだけ、まだ楽な筈だ。それでも、こうして吹き抜けを見上げると少々うんざりする。
だが、ペルルはあっさりと続けた。
「私でも、昨日登り切りましたわ。今日だって大丈夫です」
「いいえ、下で待っていてください。用件なら、俺が代わりに尋ねてきますから」
二人が押し問答を続けていると、その傍らで、ふわりと風が舞った。
視線を向けた先に、緑色の光が浮いている。
「これは……」
「まあ」
それは、昨夜風竜王が彼らを祭壇の間から降ろすために創り出した光球だった。人数を考慮したか、昨夜のものよりも少々小さかったが。
「お見通しなんですかね」
「竜王宮ですもの」
苦笑して呟いた言葉に、にこやかに微笑んでペルルが返す。差しのべた手に、白い指先が乗せられた。
二人は慎重に光球の中に入り、そしてゆっくりと広間を浮かび上がっていった。
とはいえ、風竜王の加護に甘えられるのも、祭壇の間の一層下までである。そこから先は、階段しか上がるための通路がない。
竜王の力であれば、そこも運んでいけるのかもしれないが、しかし二人を乗せた光球はしずしずとテラスの上に移動して、消えた。
風竜王を信用していない訳ではないが、この高さまで虚空を登ってくるのはやはり緊張する。肩の力を抜いて、小さく息をついた。
「湖が見えますね」
楽しそうに、ペルルが口を開く。砦の、外に通じる開口から、眼下に広がる草原と、その向こうに煌めいている湖の水面を臨むことができた。その更に遠くにうっすらと黒い影が見える。
「あの辺りがアエトスですね」
「フリーギドゥムはもっと東の方だから、あちらでしょうか」
胸壁から身を乗り出しそうになりながら、互いの故郷へ目を凝らす。
「クレプスクルム山脈ははっきりと判りますね」
一際高くなっている影を認めて、告げる。対岸の方では、空もどんよりと暗い。
ここからは、ペルルと出会ってから、ここまで来た道のりを、正確ではないがほぼ一望できる。
彼女と出会ってからの、四ヶ月の時間を思い返す。
二人は、その場でしばらく佇んでいた。




