12
「ただいま」
暖かな談話室に、プリムラが足を踏み入れる。
「お帰り」
「お帰りなさい」
「遅かったな」
口々に、仲間たちが声をかけてくる。
「いいじゃない、別に。はい、ちゃんと手紙貰ってきたわよ」
僅かに拗ねたような口調で、プリムラがクセロに手紙を手渡す。
「オーリは?」
警護という名目で同行していた青年の姿が見えなくて、クセロが問いかける。
「先に部屋に戻ってるって」
「部屋に?」
訝しげにアルマが尋ねた。この宿の造りでは、談話室を通らなくては各々の部屋に入れない。
「外から窓を開けて入るってさ」
「何やってんだよあいつ……」
呆れて、少年が呟いた。
クセロが、じっとプリムラを見下ろす。
「お前は何をやったんだ?」
「別に」
膨れたような少女の言葉に、溜め息を漏らす。
「よし、じゃあ大将に報告に行くぞ」
プリムラの肩に手をかけて促した。
「え? クセロが一人で行けばいいじゃない」
「お前が受けた仕事だろうが。ほれ、ついてってやるから」
「絶対他のこと目当てでしょ! あたし、何もしてないからね!」
「判った判った。……姫さん、報告が終わったら行かせますから、先に部屋に入っててくれますか。遅くまでつき合わせて申し訳ない」
肩越しに気遣うと、二人の盗賊はグランの部屋へと足を向けた。
「……どうしますか?」
小声で、アルマが尋ねる。困ったような表情で、ペルルは口を開いた。
「グラン様がどう、ということではないですけど、ちょっと心配ですね。あの子が出てくるまで待っています」
「そうですね。では、お茶をもう一杯いかがですか?」
「ありがとうございます、アルマ様」
嬉しげな笑顔を見て、アルマは席を立った。暖炉にかけてある小さな薬缶を取りに行く。
小さな軋みと共に、扉を開く。窓側の寝台の影が、少しばかり動いた。
「……君か。アルマはどうした?」
夜の闇を憚るように、その声は酷くくぐもっている。
「旦那には不寝番を代わって貰った。まあ、若いんだし一晩ぐらい平気だろ」
クセロが軽く言って、空いている寝台にどさりと腰を下ろす。
「君の部屋は向こうだと思っていたけど」
嫌みを気にも留めないように、男はブーツの紐を解いている。
「ついでに部屋も代わって貰ったんだ」
「察しておくべきだったよ」
小さく呟いたあとで、長く溜め息を漏らす。押し殺したようなそれは、明らかに震えていた。
「できれば一人にして欲しいんだけど」
「できない相談だ。あんたから目を離すなと言われてる。まあ、大人しく部屋に帰っててくれてありがたかったよ。下手をすると、夜の街を捜し回らなきゃならないかと覚悟してたんだ」
「ああ、自由な夜よりも暖かなベッドの誘惑に負けるとは、私も歳を取ったものだね」
ブーツの拘束から解き放たれて、クセロが両足を寝台の上に投げ出した。のんびりと足をくつろがせている。
「まあ、おれのことは気にしないでいてくれ。ここにいないと思ってくれればいい。実際、おれは別に何も興味はないからな」
そして、男は生欠伸を発した。
「……恨まれていると思っていたんだ」
十数分ほどの沈黙のあとで、低く言葉が漏れる。
クセロは、先に言ったように全く興味も持っていない顔で、天井を見上げている。
「怨まれて、憎まれて、呪われていると思っていた。忘れられていればいいと望んでいた。許されているなんて、考えもしなかった」
ノウマードは、ロマではない。
彼らの、怒りも嘆きも、全て寄る辺なき身であることからきている。それは、ノウマードの行為から発したものであって、決して彼自身が共有できるものではないのだ。
「許されて、いる、なんて」
喉の奥が、ひくりと蠢く。
ぎゅぅ、と冷え切ったシーツを握りこんだ。
切れ切れに吸いこむ息が、口腔内を冷やす。
「ニネ、ミア。……ニネミア……っ」
喉の奥で、唇の内で、絶対なる竜王の名前を呼ぶ。
ニネミア。
あれが、あなたの民だ。
我々の、誇るべき民だ。
そしてオリヴィニスは、この冷たい夜に風に吹かれる全ての人々の平安を、祈った。
朝早くに、扉が叩かれる。
ブラシを置き、プリムラは扉を開けた。
「おはよう」
そこに立っていたのは、マントを羽織った吟遊詩人の青年だった。
「……オーリ」
僅かにいたたまれない気持ちで、名前を呼ぶ。
「ちょっと、朝食前に散歩に行かないか?」
「え?」
だが、思いもしなかった言葉に、きょとんとして青年を見上げた。
「ノウマード?」
訝しげな声が、奥からかけられた。さらりと衣擦れの音がして、ペルルが顔を見せる。
「おはようございます、姫巫女」
「おはようございます」
優雅に一礼して挨拶するオーリに、明るい笑みを向ける。
「お忙しいとは思いますが、貴女の侍女をしばらくお借りしても宜しいですか?」
少しばかり驚いたような表情を浮かべたが、すぐにペルルは頷いた。
「いいですとも。気をつけてくださいね」
「お嬢様!?」
プリムラが半ば抗議するような声を上げるが、既にもうペルルの身支度は整え終わっている。取り立てて彼女を必要とする用事はない。
「じゃあ、下で待ってるから」
あっさりと告げて、オーリは踵を返した。
玄関の扉から前庭に出る。
「どこに行くのよ」
少しばかり不機嫌な声でプリムラは尋ねた。
「んー。朝だし、外に出たら、流石にちょっと人目があるかな。馬の様子でも見に行こうか」
くるりと厩の方へ足を向ける。すたすたと歩き出す青年の後ろから、数歩遅れて少女はついていった。
「……謝らないわよ。あたし、悪くないもの。その、つまり、そんなには」
「え?」
振り返ると、マントの袷の辺りで口元を隠し、プリムラはそっぽを向いていた。
「ああ。うん、別にそんなつもりはないよ。だって君は悪くないだろ」
あっさりと返されて、目を見開いて青年を見上げた。
「あ。ひょっとして、クセロか誰かに責められたのか?」
ここで思い至ったように、問いかけてくる。
「別に、そんなことないわよ。ちょっと、その、時と場所と言い方を考えろって言われただけ。……あんたが臍を曲げたら後が厄介だ、ってグラン様が」
「あの人は……」
呆れたように、困ったようにオーリが呟く。
「後でちゃんと言っておくよ。君は何も悪くない。だって、君はイグニシア人だから確かに彼の民だけど、フルトゥナ人に育てられたんだから、私の民でもあるんだし」
言われた言葉の意味が判らなくて、数度瞬く。ゆっくりと理解するにつれて、プリムラの顔が真っ赤になった。
「プリムラ?」
「な、何よ! 別になんでもないわよ! 大体、何であんた一人だけそんなすっきりした顔してんの!」
八つ当たり気味に怒鳴られる。いや一人だけって、と呟いて、オーリは再び前を向いた。
「まあ、悩みごとなんて、大抵の場合は一晩寝れば何とかなるか、どうでもよくなるもんなんだよ」
「……よく似たこと言ってるようで凄く駄目なこと言ってない?」
僅かに自分を取り戻したプリムラに指摘され、青年は小さく笑った。
その姿は、確かに昨日までのように余裕を持っているように見えるが、しかし明らかに何かが違う。
プリムラには判らない。他の誰にも、判らないだろう。
それは、一度手放した民を、再び取り戻した高位の巫子ゆえの余裕だ。
そんな経験をした者が他にいない以上、彼の想いは誰にも判らない。
厩の扉を開ける。馬の世話はもう終わっているらしく、下男の姿は見えない。
「……じゃあ、一体、あたしに何の用があるの?」
彼らの乗ってきた馬に近づき、その鼻面を撫でていたオーリが、口を開いた。
「アルマナセルのことだ」
その名前を告げられて、プリムラの顔が僅かに引きつった。
「この間、山の中の廃墟に泊まった日から、君の態度がおかしいとは思ってた。君、アルマが魔力を制御できなかった時に、『あれを知っている』って言ってたよね」
「何で、あんたがそれを知ってるの……?」
少しばかり怯えたように呟く。
あの時、この青年は馬の世話をするために別の部屋にいた。彼らの間には壁が何枚も立ちはだかっており、あの程度の声が聞こえる筈がない。
オーリは小さく肩を竦めた。
「私は耳がいいんだ。その気になれば、街中の噂話だって全部集められる」
少々誇大しているが、事実である。それが、風竜王からの特別な『賜り物』だ。
勿論、四六時中そんな聴力でいる訳ではない。何もない時はかなり近距離の音しか拾わないし、それも無意識に取捨選択している。
だがあの時、グランはアルマの魔力が制御できなくなったことをいち早く察していた。
その時の行動を不審に思い、周辺の音を精査した結果、聞き取った言葉だ。
「君は、あれを、家族から聞いたのか?」
静かに、しかし威圧的に見下ろしながら、尋ねる。
ぎゅ、と唇を引き結び、プリムラは小さく頷いた。
……厄介だ。
それと判らない程度に眉を寄せる。
〈魔王〉アルマナセルは、フルトゥナ侵攻に際してその能力を存分に発揮している。生き残った民が、それを恐怖の名の下に流布することを、予測できていなかった訳ではない。
しかし、この状況で彼女がその恐怖に捕らわれているのは、非常に都合が悪い。
「プリムラ。今、私たちと共にいるアルマは、〈魔王〉とは別人だということを、まずちゃんと判らなくちゃいけない。そりゃまあ〈魔王〉は、確かに戦場では悪逆非道で血も涙もなく、破壊の限りを尽くしていたけれど。アルマはついこの間まで、人を殴ったこともない紳士だった訳で」
「ええと……」
何だかもの言いたげに少女が口ごもるが、更にたたみかける。
「何より、今、彼は君の味方だ。竜王たちと、イグニシアの民と、カタラクタの民と、そしてフルトゥナの民の、味方でいる。彼の力を目の当たりにして、怖い、と思ってしまうのは仕方がないかもしれない。だけど、彼は決して君に危害を加えたりしない、ということを判ってくれないか」
「……どうして、あんたがそこまであいつの肩を持つの」
少しばかり拗ねたように、少女が呟いた。
「不思議かい?」
「だって。仇なのに」
「言っただろう。アルマは、〈魔王〉とは違う存在だ。それに、状況に応じて最適な選択をする、それが高位の巫子の役割だからね。個人の好悪の情なんて、障害にすらならないよ」
グラナティスとペルルが、そうしているように。
それは民と竜王を護るための思考であるのだ。たとえ、現在、オリヴィニスに護るべき民がいないとしても。
「だって、気に食わないんだもの。あいつ。お嬢様に色目使うし」
ぼそり、と続いて零されて、オーリは数度瞬いた。吹き出すのを堪えて、ぎりぎり苦笑する。
「いや色目って。アルマが聞いたら落ちこむよ」
「見てたら判るわよ。紳士ぶってるくせに」
つん、とそっぽを向く。
彼女を育ててくれたロマの家族には、姉がいた、と言っていた。その少女とペルルを重ねているのだろうか。
そして、水竜王の高位の巫女という憧れも加わっているに違いない。
「まあ、それに関しては二人の間のことなんだから、尚更君が口を出すことじゃないよ。ただ私が見るに、ペルル様もまんざらではないように思えるけどね」
頬を膨らませて、プリムラはオーリを見上げた。
「先刻から、あたしにばっかりあれしろとかこれしろとか、狡くない?」
「そう?」
ちょっとばかり意表を衝かれて、問い返す。
「そうよ。あたしの頼みだって、少し聞いてくれたっていいわよね」
「まあものに拠るけど。……何だい?」
勝ち誇ったような笑みを浮かべ、少女は、びしっと彼へ人差し指を突きつけた。
「額のエメラルドを見せてちょうだい」
思いがけない頼みであることは、確かだった。
この旅の一行の前で額の布を外したことは何度かあるが、そういえばこの幼い少女はいつもその場にいなかった気がする。
用心深く周囲を見回し、人の気配がないことを確認する。
厩の土の床に跪き、少女と視線の高さを合わせた。
手慣れた手つきで、額に巻いた布を解く。
片手で軽く前髪を上げて、真っ直ぐプリムラを見つめた。
「これが、『風竜王の瞳』……?」
そう呟く少女の瞳には、深い緑色の光が映っている。
「……綺麗」
プリムラは、無意識に表情を和らげた。
「触ってみる?」
問いかけるが、少女は慌てて首を振る。その様子が何だか微笑ましくて、オーリはまた笑みを浮かべた。
車輪の音と蹄の音が、規則正しく響く。
隣を進むアルマが時折舟を漕いでいるのを、注意深く見守る。
若い、とはいえ、一晩まるまるの不寝番はきついだろう。
といっても、夜半からでも代わろうという行動に出なかった大人たちが心配することではないが。
すぐに馬から落ちるようなことはなさそうだ、と判断して、オーリは少し馬を進める。馬車から十数メートル先行していたクセロに追いついた。
「よう」
「やあ」
軽く挨拶を交わして、そのまましばらく歩く。
「大将から伝言でも?」
不審に思ったか、クセロから水を向けてきた。
「いやそうじゃなくて。……昨夜は君に迷惑をかけたから、ちょっと謝っておこうと思ったんだよ」
男が面白そうに視線を向ける。
「気にする必要はないさ。昨夜も言ったが、おれには関係ないし、関心もない。むしろ久しぶりに一晩ゆっくりできたから、こっちがありがたいぐらいだ」
「……君は不思議な男だな」
どうにも形容しづらくて、そう告げる。
「そうかね。おれはただ、竜王に信仰を持ってないだけなんだが」
しかし、そう返されて、呆気に取られた。
竜王信仰は、人々の生活に根ざしている。
国によって司る竜王は確かに違うが、日々の巡りの中に、それぞれの竜王の加護が等しくあるのだ。
ロマでさえ、自然から受ける竜王の影響からは逃れられない。
全く何の信仰も持っていないなどという人間に会うのは、初めてだった。
「それは……、どういうことだ?」
「別に。単純なことだ。おれは竜王の加護を感じたことはないし、必要としたこともない。そもそも竜王の姿を見たこともないんだから、実在を信じる段階ですらない。勿論、信じている奴らをとやかく言うつもりはないがね」
眉を寄せ、オーリはその言葉について考えこんだ。
「グランは承知していることなのか?」
「ああ。おれは大将が竜王に仕えやすくするために色々手を貸すことになってる。幸い、大将はおれの生き方に文句を言ったことはないよ。それに、おれは元々は盗賊だからな。こういう仕事をするには、人生はシンプルでないとやってられないんだ。ちょっと考えてみればいい。何も束縛されない、自分の意思で自分の人生だけに責任を持って生きるってことを」
促されて、目を閉じた。真剣に思い浮かべてみようとするが、十数秒もしないうちに音を上げる。
「私には無理だな」
溜め息をつきながら、そう答えた。喉の奥で笑いながら、クセロが見返してくる。
「だけど、そもそも君は、グランに束縛されてるんじゃないか?」
つい根本的なところを指摘してみると、金髪の男は今までの上機嫌が嘘のように落ちこんだ。




