11
夜気に、吐息が白く流れる。
「いーい夜だねぇ」
大きく腕を振り上げ、ノウマードが呟いた。ちらりと隣を歩くプリムラが見上げてくる。
「嬉しそうね」
「まあね」
鼻歌でも歌い出しそうな青年に、呆れたように視線を逸らせた。
「下手な真似をして目をつけられたりしないでよ」
「大丈夫大丈夫」
軽く返すノウマードは、見るからに浮かれている。一人でもできることだったのに、とプリムラは少しばかりむくれた。
酒場の扉を開いた二人連れに、中にいた者たちの視線が集まる。
「仕事は困るよ」
カウンターの中にいる、前掛けをつけた男が声をかけてきた。
「いや、酒を一杯。あと、この子に少し食事を貰いたい」
ロマのマントを身につけ、フードを被り、背にリュートを負った青年が小さな声でそう返してくる。
「金はあるのか?」
胡散臭そうな声に、青年は懐から小さな革袋を出した。ちゃり、と中身を鳴らすのを確認して、店主は顎で中に入るように示した。
「どこにいる?」
小声でプリムラに囁く。ノウマードがやりとりしている間に素早く店内を見渡していたプリムラは、青年のマントの裾を摘んで奥へと歩き出した。
「おいおい、ロマが何でこんなところにいるんだよ?」
だが、幾つかのテーブルの横を通ったところで早くも絡まれる。
「そりゃお前、故郷に帰るためじゃねぇの? さっさと川向こうに戻れってんだ」
「可哀想なこと言うなよ。国境越えたら死んじまうじゃねぇか」
げらげらと野卑な笑い声が上がる。
そっと片手を庇うようにプリムラの背に置いて、ノウマードは無言でそこを通り過ぎた。
空いているテーブルに座ると、店主がジョッキと鉢を一つずつ置いていった。
「早いとこ帰ってくれよ」
「悪いね」
飄々と、ノウマードが硬貨を手に握らせる。
フードを外し、ジョッキを手にしたところで、横合いから青年の顔にぬるいエールが浴びせかけられた。
「早いとこじゃねぇだろ! 今すぐ、だ!」
無言のまま小さく頭を振り、マントの端で顔を拭う。
ぎゅ、と小さな拳を握る少女の肩を、軽く叩いた。
「おい、その娘、イグニシア人じゃねぇのか?」
ふと気づいたような声がかけられる。
「何だ、人攫いか?」
「はん、やっぱりロマなんて碌な奴らじゃねぇな」
「そうじゃない。私の恩人の娘だ。少しの間預かっている」
穏やかに、ノウマードが返す。
「ロマに恩情をかけるような人間がいる訳……」
「いい……っ加減にしなさいよ、あんたらっ!」
更なる罵声が、甲高い怒鳴り声にかき消された。
談話室で、明らかにペルルはそわそわしていた。
膝に置いた温かなティーカップの中身を、何度もスプーンでかき回している。
グランはとっくに部屋に引き取っていて、他にその場にいるのはアルマとクセロだけだった。
「そこまで心配しなくても」
苦笑しつつ、クセロが声をかける。
「貴方は心配ではないのですか?」
「おれはあいつの世話を二年見ています。あいつができることとできないことぐらい把握してるし、できないことを無理にやらせているつもりはない」
責めるような少女の言葉に、男はあっさりと応えた。
「二年ねぇ。今でもちっこいのに、もっとだよな。何で、そんな小さい時から?」
アルマの問いかけには、面白そうに笑う。
「おれがこの世界に入ったのは、いつからなんて覚えてないぐらい昔だ。産まれた時からって奴が大半だろう。そういう世界にいる親から産まれたら、そうなるもんだよ。あんたらと同じだ」
莫迦なことを言ったように思えて、少年は口を噤んだ。
だが、クセロはそのまま続ける。
「でもまあ、プリムラはちょっと特殊だ。そうだな、別に話しておいてもいいだろ」
ここまで心配して貰えてるんだし、と、金髪の男は更に悪戯っぽく笑った。
がたん、と椅子が倒れる音が響いて、喧噪が一瞬静まる。
「まったくもう、大の男がぐちぐちぐちぐちと鬱陶しいわね! ロマが酒場に来たからなんだって? これだから西部の男は肝がちっさいって言うのよ!」
両手を腰にあてがい、少女は一息に啖呵を切った。
数秒間、しん、と静まった酒場は、すぐにどっと沸き返った。
「気の強い娘っ子だな、おい!」
プリムラの突拍子もない行動に唖然としていたノウマードが、我に返る。
「ちょっとプリムラ、落ち着いて」
「あんたもあんたでしょ! なにあんなこと言われて黙ってるのよ!」
かれらの行動は目立たないことが最優先だった筈だが、既に彼女の頭からはそれは消えてしまっているらしい。
「そりゃあロマが言い返せる訳がねぇだろうよ」
嘲笑は止まることなく、彼らに浴びせかけられる。
きっ、とプリムラが男たちに視線を向けた。
「あたしもロマよ!」
片手を胸に当て、幼い少女は誇らしげに宣言した。
「……プリムラ?」
赤銅色の髪を持つ少女の意図が判らなくて、小さく呟く。
「おいおいお嬢ちゃん、幾ら何でもそりゃ無理があるってもんだろ」
一方男たちには、このいきり立つ少女を構うことがいい娯楽になってしまっている。
「どうせ上手いこと言われて、各地を旅する生活が素敵だとか思いこんでるんだろ。そんな甘いもんじゃねぇぞ」
「そもそも、ロマの女ってのぁ、もっとこう、色気があるもんだよなぁ?」
呆れる者、諭す者、茶化す者と、反応は様々だったが。
「……言ってくれるじゃないの」
低く呟くと、少女はマントを脱ぎ捨てた。首に巻いていたスカーフを手早く解き、右手首に長く結ぶ。どこからか小さなナイフを取り出すと、スカートを膝下辺りから、足首近くまである裾まで切り裂いた。
「ちょっ、プリムラっ!?」
ノウマードの驚く声を気にもせず、がっしりと作られたテーブルに飛び乗る。
「それ、寄せて」
無愛想に指示されて、反射的にテーブルに置かれていたジョッキと鉢を天板の隅まで移動させた。
既に周囲の男たちは、無責任に口笛や野次を飛ばしている。
しかし一切動じた様子も見せず、プリムラはノウマードを見下ろした。
「オーリ。『紅い花冠の乙女』、できるわね?」
「それはできるけど、でも」
「早く!」
肩を竦めて、リュートを手に取る。ここまで注目を浴びてしまっては、もうどうしようもない。
早いリズムの旋律が流れ出す。
プリムラの小さな足が、たん、と鋭い音を立てた。
『紅い花冠の乙女』とは、フルトゥナに古くから伝わる歌だ。清純で麗しき乙女が、野で花を摘み、冠を編み、愛しい青年に渡すことを夢見ている。
ノウマードが奏でるリュートが、その甘い声が、切なく心を揺らす乙女を歌い上げる。
プリムラは軽々と複雑なステップを踏み、ひらひらと手を翻した。
手の動きにつれて長く結ばれたスカーフが惑わすように流れ、くるりと回る毎にスカートがふわりと膨らむ。
まだ十にも満たない少女の指の動きに、仄かな艶が滲んだ。
踊り出す前に浴びていた野次は、じきに手拍子と歌声に変わる。
さほど長くもない歌が終わり、プリムラがぴたりと動きを止めた。その場をぐるりと見回して、ゆっくりと一礼する。
どっと歓声と口笛が沸いた。
「やるな嬢ちゃん!」
「兄ちゃん、次はアレだ、アレやってくれよ、ほれ」
口々に騒ぎ立てる酔客たちは、既に十分ほど前まで持っていた敵意が霧消している。所詮は酔っ払いだ。
プリムラの足元に次々に硬貨が置かれるのに、ノウマードが慌てた。
「いや、金は受け取れない。マスターに仕事は止められてるから」
カウンターの中に立つ無骨な男に視線を流す。マスターは小さく肩を竦め、目を逸らした。
「ほら、次だ! 次!」
周囲から拍手が上がって、プリムラは上気した顔に笑みを浮かべた。
酒場を出たのは、随分と経ってからだった。
客に乗せられ、披露した曲は更に五曲。なんとかそこで止めたものの、その後は何故か酒を奢られたり色々と絡まれたりで抜けだしにくかったのだ。
その騒ぎに乗じて、プリムラは首尾よく待ち合わせの相手から手紙を受け取っていたが。
足音が、静かな街路に小さく響く。
「プリムラ」
小声で呼ばれて、少女は夜空を見上げた。
「……あたしが、どうしてあそこで踊れたのか、不思議に思ってるんでしょ」
とん、と数歩、前に出る。ノウマードに背を向けたまま、プリムラは続けた。
「あたしね。ロマに育てられたの」
「イグニシアのどこかの山の細い道で、あたしの両親らしい人たちが死んでたんだって。山賊に襲われたんだろう、って言ってた。そこを通りかかったロマの家族が、まだ赤ん坊だったあたしを拾ってくれたの」
淡々と、プリムラは言葉を口にする。
「ご両親の身元とかは?」
ノウマードが何とか口にした、ちょっと的外れの言葉に、プリムラは小さく首を振った。
「判らない。あたしをくるんでいた布に、貴族の紋章が縫い取られてたぐらい」
「貴族の?」
くすくすと小さな笑い声が上がる。
「あたしを貴族の出だとか思った? 残念だけど違うよ。多分、古くなったお仕着せを使ってただけだと思う。……ロマの家族は、あたしを子供と一緒に育ててくれた。歌も踊りも、姉様たちに教えて貰ったの。馬の扱いだって、旅をするコツだって、全部」
少女が遠く、何かを懐かしむような目をする。
「そのまま旅をし続けててもよかったんだけどね。二年前に王都に着いて、あたしだけそこに残ることにしたの。貴族のことは、それぞれの領地に行くしか調べられない。でも、王都なら、各地の領主のことを一個所で調べられる。……あの時、道ばたで死んだ親のことが、ちょっとでも判ればいいと思って」
「……まあそんな経緯でね。あいつが世話になってたロマの頭領が、うちの親方とちょっと懇意だったから、預かったんだ」
「グランと?」
クセロの説明に、腑に落ちなくてアルマが訊き返す。面白そうに、男は声を上げて笑った。
「違う違う。大将の方じゃなくて。その頃、おれは大将とは全然関係なかったからな。……そのまんまでいりゃよかったとつくづく思うよ」
小さく溜め息を漏らす。僅かに同情しかけるが、しかしクセロは気を取り直して続けた。
「これは王都に限った話じゃないんだが。ある程度人が集まった場所には、それを支配する層ができる。王とか貴族、竜王宮。これが上から支配する奴らだ。それとは別に、下から支配する奴が必ずいる。うちの親方は、まあ、その中の一部だよ」
「オーリ。ロマの、死者に対する扱いって知ってる?」
ふいに話題を変えられて、戸惑う。
ノウマードは、厳密にはロマではない。彼が棄て去った民が流浪の民となるまでの間、独りフルトゥナに残っていたからだ。封印された故郷から脱出してからも、故意にロマとは接触しないよう努めていた。
ただ出自が同じ民であり、同じ文化であり、ロマの新たな習慣や歌曲を風の噂で聞いて身につけていたに過ぎない。
「いや」
「ロマはね、ずっと旅をしているから、どことも知れない場所で死を迎える。残った人たちはその場で死者を埋葬し、祈りを捧げて、……そして次の一歩を踏み出した時には、もうその死んだ人のことは忘れている」
「……え?」
理解が及ばなくて、小さく呟く。
いや、そうではない。
「忘れるの。最初からいなかったことにするの。今までもいなかったし、これからも覚えてなんかいない。そういう存在になるの」
理解をしたくないだけだ。
「判る? そうしなくちゃいけない生活が、何故なのか」
彼らがそうしなくてはならなかったのは、全て、彼らを棄て去った高位の巫子とその竜王の行為にあるのだから。
言葉を発しないノウマードを不審に思ったのか、肩越しに見上げてくる。
表情を取り繕えていたのかどうか、自信がない。
ぱっと視線を逸らせて、プリムラが続けた。
「なのに、あたしを育ててくれたロマは、あたしの親のことを教えてくれた。感謝してるんだ」
「……そうだね」
気まずい沈黙の中、数分歩く。
歩幅は明らかに違うのに、ノウマードはプリムラに追いつこうとはしない。
強く息を吐いて、プリムラはくるりと青年に向き直った。
「もう一つ、ロマが覚えている人がいたの。誰だか判る?」
「さあね」
短く言葉を返す。
理解を、したくない。
それでも、ロマに育てられたという少女は、躊躇を微塵も見せずにその言葉を突きつけた。
「貴方よ。オリヴィニス。親を、子を、伴侶を失っても全て忘れることにしているロマが、貴方のことは覚えていた。事あるごとに貴方を悼み、その平安を祈っていた。自分たちを追放することで、一身に全ての災厄を受けた貴方を」
子供には似合わない言葉を使う。それが、もうずっと長い間、彼女がこのことを考え続けていたことを示している。
真っ直ぐに見つめてくる少女から、目が離せない。
「あんたが、あのオリヴィニスだなんて、あたし、信じたくなかった。みんなが戻りたくて仕方がなかった故郷をあっさりと棄てているなんて、知りたくなかった。みんながあんなに負い目を背負って、心を痛めているのに、その相手が、へらへら笑いながら旅をしてるなんて、見たくなんてなかった!」
言葉が出せない。
必要ならば、いつだって空々しい美辞麗句を並べられる自信があったのに。
彼の言葉を待っていた少女は、やがて目を伏せ、踵を返すと夜道を再び歩き出した。




