07
調理用の暖炉は大きい。内部に人も入れるようになっているアルコーヴの中で、暖かな炎が音を立てて燃えている。
だが、その場の者たちは、大して安心感を覚えているようでもなかった。
「あの時に、アルマ様を落ち着かせた方法を、私に教えて頂けませんか」
思い詰めたように、ペルルが続けた。
「駄目だ」
だが、考えることもなく、グランは拒絶する。
「ですが、今後、もしもまた何かがあったら……」
懸命に説得しようとする少女を、片手を振って宥めた。
「いや、ペルル、貴女の気持ちはありがたい。勿論、この先、僕が対処できない状況になる可能性もあるだろう。しかし、それは無理なことなんだ」
きょとん、とペルルが見返してくる。どう説明したものか、とグランは腕を組んで数秒考えた。
「僕がアルマを管理し、ある程度の支配権を持っているのは、僕が火竜王の高位の巫子だから、という訳じゃない。僕が、三百年前に〈魔王〉アルマナセルと契約を結んだからだ」
「……契約」
小さくペルルが繰り返した。真面目な顔で、グランが一度頷く。
「彼が王女レヴァンダと婚姻し、王家の一員となること。つまり、彼を王国の組織に組みこむことで起こりえる弊害を抑えるために、僕と〈魔王〉との間で結んだものだ。大公家よりも火竜王の高位の巫子の方が立場が上であり、絶対的にそれに服従する、というのが大雑把な内容だ。そうでなくては、〈魔王〉に対する恐怖と嫌悪が強すぎて、とてもではないがイグニシア王国は彼を受け入れることなどできなかった。……オリヴィニスはああ言うが、正直、今のアルマが置かれている状況など、当時に比べれば軽いものだ」
僅かに憮然として、最後に一言つけ加えた。
その契約故に、グランはアルマが行使する魔術の状態を、傍にいなくてもある程度は把握できている。流石に、従軍している間は遠すぎて不可能だったが。
「つまり、私には無理だ、とおっしゃるのは、私がその契約を結んでいないからですか?」
考えながら、ペルルが問い返した。
「そうだ。実際、これから貴女が改めてアルマと契約を結べば、もしかしたらうまく支配権を取れるかもしれない。だが、現世に降臨した〈魔王〉は、歴史上アルマの先祖ただ一人だけだ。三百年間の、血筋に依る契約が現在どう働いているか、新しい契約がどう動くか、正直、前例がなさすぎて判断がつかない。率直に言えば、その危険を侵す必要はないと僕は考えている」
きっぱりと断言されて、ペルルは肩を落とした。
グランは再びパンを手に取る。もう、話し合う気はないのだ。
「まあ、確かにかなり頼りないとはいえ、アルマは一応紳士に育てたつもりだ。あいつは心底貴女を護る心意気だろうが、貴女に護って欲しいとは思っていないだろう」
とりなすつもりで口にしたのだが、ペルルはそれに小さく笑った。
「グラン様は意外と古いお方ですね。私を、貴族の姫君たちと同じに扱われても少々困ります。私は竜王フリーギドゥムに仕える高位の巫女で、竜王と、カタラクタの民と、世界に対して責任を負っています。ただ護られているだけで事態が好転するのを待つつもりはありません。そのために、私を伴われて来たのでしょう?」
少しばかり意外そうに、グランはペルルを見つめた。
彼は、ペルルが民と国土を護るために、単身イグニシア王国軍へ投降したことを勿論知っている。だが、その時の彼女に会った訳ではない。
大陸を横断し、イグニシアの王都へ着いた頃にはもう覚悟も決まり、彼女は冷静になっていた。従順であった、と言い換えてもいい。
「そうだな。頼りにしている」
薄く笑って、グランはそう告げた。
目が覚めた時には、もう陽が昇っていた。
鎧戸の閉められた窓から、細く光が差している。
廊下に出たところで、途方に暮れた。彼はこの屋敷の中を殆ど知らないままだ。
「確か、コンウェニエンティア様式って言ってたっけ……」
数年前、授業で習った内容を思い返す。
玄関を入って右側に居住区ならば、厨房など裏方の場所は左側の奥まで進んだ辺りにあるはずだ。ぶらぶらと足を進めていくと、やがて空腹を刺激する匂いが漂ってきた。
大きな扉を開いた先には、仲間たちが集っていた。視線を一斉に向けられて、たじろぐ。
「おはようございます、アルマ様」
明るい笑みでペルルに迎え入れられて、ようやくアルマは安堵した。
「おはよう、アルマ。よく眠れたか?」
椅子に座りかけたところで、グランに問いかけられる。
「まあまあだ。夢はまた見た」
「そうそう上手くはいかないか……」
湯気を立ち昇らせるカップを片手に、ノウマードが呟いた。
「そうでもないよ。後ろから殴られた後、倒れないで殴り返した気がする」
まだ少し、思い出すと背筋が冷えるけれど。
それでもさらりと告げたアルマの言葉に、二人の巫子は揃って絶句した。
「……血筋だねぇ」
ノウマードが、呆れたように、少し楽しげに笑う。その顔には痣のひとつ、切り傷のひとつも残っていない。
心配して損したな、とちょっと考えたところで、目の前に皿が置かれた。
視線を向けると、顔を強ばらせたプリムラが立っていた。
「ありがとう」
礼を言うが、彼女は急いでその場を離れ、ペルルの隣に座る。訝しげな視線を同席者に向けたが、それに答える言葉はなかった。
とりあえず空腹を納めることにして、アルマはシチューにスプーンを差し入れた。
「予定はどうなりそうだい?」
「一時間程度で出発できるなら、警備兵とかち合わずに済みそうだ。クセロも、そろそろ街に着いた辺りだろう」
ノウマードとグランの会話に、周囲を見回した。
「そういえば、クセロはどうしたんだ?」
あの斜に構えた男の姿が、今朝は見えない。
「夜が明けたところで、麓の街まで走らせた。今日中には警備兵が山賊を捕らえにやって来る筈だ」
「……引き渡す、のか?」
おずおずと問いかけるのに、グランは僅かに眉を寄せた。
「ここに残って、という意味なら違う。手配書が回るとしたら、まずは為政者側からだからな。出回っている場合、顔を合わせたら、即座にこちらが捕まるだろう。ただ、結果的にはその通りだ。僕らはさておき、他の民に迷惑を及ぼしている山賊を放置する気はない」
きっぱりと言い放つ。顔を曇らせたアルマを宥めるように、ノウマードがそれに続ける。
「大体、彼らを放置していったら、ここで身体を拘束されたままで餓死するのが落ちだよ。それを望むだなんて、君も意外と野蛮だよね」
「そんなことは望んでねぇよ!」
青年がわざとらしく曲解する言葉に、怒鳴り返す。
「申し訳ありません。私がもう少ししっかりしていれば……」
少しばかりしょげたように、ペルルが呟いた。
「それに関してはもう気にしないということで話は終わったんじゃないですか?」
ノウマードが、気遣うように軽く声をかける。
「なんの話だ?」
首を傾げて、アルマが尋ねた。
「あ、そうか。あの時、君は意識がなかったんだっけ」
青年が呟くのに、ペルルは急いでアルマに向き直った。
「あの、私が使うことができる水竜王の御力の中に、人の身体の不調を知る、というものがあるのです。人の身体は、かなりの部分が血液という液体に関わっているので、それに依るものだと思うのですが」
「そうなのですか?」
グランは、そんなことはできなかったように思う。自分にできることは、他の高位の巫子にも大体できる、と言っていたが、大体の範疇に入らないものもあるということか。
「はい。それで、昨日に会ったあの女性ですが、足が悪いようには見えませんでした」
「え?」
アコニートゥが、自分では歩けないと言うからこそ、アルマは彼女を連れて行くことを強弁したのだ。
呆れた視線が、改めて周囲から降りかかる。それに気づかないように、ペルルは続けた。
「ですが、私はまだ御力を身につけてからさほど経っておりませんし、そもそも、何となくこの部分が悪いのではないか、というようにぼんやりと見えるだけなのです。あの時は、その、少々、気持ちも落ち着いてはいませんでしたし、私の見間違いかと思っていたのですけど」
それでも、それを知らせていれば、ここへ誘いこまれることもなかったのに、とペルルは呟く。
慌てて、アルマは僅かに身を乗り出した。
「そんな、貴女が悪いことなど何もありませんよ」
「うん、君が全部悪いよね」
間髪を容れずにノウマードが割りこむ。
「僕が少しばかり反省したら、お前が増長するんだな……」
呆れたように、グランが意味の判らないことを漏らした。
ゆっくりと、考えながら食事を終える。
「……ちょっと、頼みがある」
仲間たちを見回して、アルマは口を開いた。
身体が芯まで凍えている。
申し訳程度に身体を毛布でくるんでいるが、夜明け前の冷気は、そんなものは易々と突破した。まして、冷たい石造りの床を自らの体温で暖めるなど、不可能だ。
それでも多少うとうとしていた少女が、扉が軋む音に目を開けた。
ぼんやりとした光を背に、立っている少年の姿が映る。
「……エスタ様」
アルマは、内心安堵の溜め息をついた。
彼女に、彼の本名は告げていない。彼らが狙われたのがもしも手配書が回っていたためだとすると、それはもうばれている。彼女が未だごまかし続ける意味はない。
なのに偽名で呼ばれたということは、昨日この地で起きたことは、ほぼ、単なる偶発的なトラブルだったのだ。
「アコニートゥ」
傍らに膝をついた。
手足を拘束され、横たわったままで見上げてくる少女の視線は、酷く心許ない。
「お救けください、エスタ様! 私、気がついたらこんなところに押しこめられていて……」
瞳を潤ませて訴える少女の言葉を、仲間たちから話を聞いていなければ確実に信じていただろう。
いや、聞いていてさえ、直接目にしたこの状況では信じていたかもしれない。
だけど。
「……脚。本当は悪くないんだって?」
小さくかけた言葉に、アコニートゥはぴたりと口を閉じた。
そのまま、沈黙がその場を支配する。
「それが、一体どうしたって言うんだい」
耐えきれなくなったか、視線を逸らして、少女は一転して投げやりな口調で告げた。
「いや。よかったよ。脚が悪いのならこの先心配だったんだけど、悪くないんだったら大丈夫だな」
小さく微笑んで、アルマが告げる。驚いたように目を見開いて、アコニートゥは再び顔を上げた。
「うん。まあ、何て言うかさ。このあとは、上手くやれよ」
僅かな希望を得て、少女は縋るように少年を見つめた。
「救けて……、くれる、の? 逃がしてくれるの?」
「え、いや、それはないけど」
だが、あっさりとアルマはその言葉を否定した。
「もう何時間かしたら、街から警備兵がやってくる。一人たりとも、ここから逃げ出すのは不可能だ。まあ、有無を言わさず死罪とはならないだろうから、罰を受けたらその後の人生は上手くやれ、ってことだよ」
「なに……、よ! 気を持たせるようなこと言って! あんたに、お坊ちゃんのあんたに何が判るの!」
アコニートゥが、顔を紅潮させて怒鳴りつける。
「父さんは三年前の冬に、森で狼に殺された。ただでさえ飢饉だったのに、食べるものを手に入れられなくなって、母さんも春が来る前に病気で死んだのよ! うちだけじゃない、村の殆どの家で誰かが死んでいった。あたしが、あたしたちがどうやって生きていけばよかった、って」
「俺の仲間にさ。ロマがいるんだけど」
激昂する少女の言葉を、さほど強くもなく遮る。
その内容が、会話というにはあまりにかけ離れていて、うっかりアコニートゥは口を噤んだ。
「そいつが言うんだよ。困窮の末に他者から奪うことを選ぶのは、ただの怠慢だ、って」
この廃墟に巣くっていた山賊は、二十七人。その全てが、十代から二十代の男女だった。賊としては、まだ若い。
確かに困窮の末のことだろう。彼女が言うように、両親を亡くしたのかもしれない。単純に故郷を飛び出して都市へ出て、上手くいかずに食い詰めたのかもしれない。
だけど、根を張るべき大地も、庇護をもたらす王家も、加護を授ける竜王も持たず、それでも略奪に走らずに、我が身を恥じることなくロマは生きている。
そりゃ、全てのロマが清廉潔白だとは言えないさ。中には罪を犯す者もいるだろう。
だけど、その大半は、他者から奪うことを拒否している。
私はね。そんな彼らのことを、実はこっそり誇りに思っているんだよ。
「両親が亡くなられたのは、お気の毒だ。だが、両親がもしも小作だったのなら、土地は残っただろう。土地を維持できなくても、村には村人に責任を持つというしきたりがある。村が頼りにならなかったとしても、竜王宮はいつだって孤児の面倒を見ている。一時的に世話になって、きちんと独り立ちすることはできたはずだ」
淡々と告げるアルマの言葉に、アコニートゥは、ぎし、と奥歯を噛みしめた。
「……あたしを恥じるような人間は、もういないよ」
小さく、捨て鉢に呟く。
「じゃあ、俺がお前を誇りに思うよ。アコニートゥ」
軽く言って、アルマは、少女の金髪を軽く撫でた。
「よほど残虐なことをしてなければ、罰はさほど重くない。お前はまだ若いしな。だから、この先の人生、俺に誇りに思われるように生きてくれ」
ゆっくりと、ゆっくりと撫でてくる手に、視線を伏せる。
「何よ。あたしよりも子供のくせに、偉そうに」
「もう十六だぜ。従軍だってできる」
そう言うと、アルマは屈託なく笑った。
暗い屋内から、陽光眩しい前庭へと足を進める。
珍しく陽が照っているせいか、また、元々雹の粒が大きくなる、というのがアコニートゥの嘘だったこともあったためか、前日に降っていた雹は既に跡形もない。
既に馬車に馬はつけており、すぐにも出発できる状態になっていた。
「気は済んだか?」
馬車の窓を開け、グランが尋ねた。
「ああ。悪いな」
アルマはマントを纏い、手袋を嵌め、剣を腰に佩いていた。昨夜脱ぎ捨てたものを、投げ捨てたものを、奪われたものを、再び身につけている。
クセロがいないので、ノウマードが荷馬を連れている。クセロの扱いが悪い訳ではないが、心なしかいつもよりも馬たちが従順に見えた。
「じゃあ、行くか」
身軽に、自分の馬に跨った。軽く首を撫でて、崩れた門へと向かう。




