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02

「……うああああああああ」


 軍はその日、完全にそこで停止することに決まった。一帯では、兵士たちが野営の用意をするために忙しく立ち働いている。

 その手順でまず優先されるのは、士官たちの居心地を最上に保つことだ。彼らはできる限り素早く、司令部の面々の天幕を、適度な距離を置いて張っていく。

 アルマは、ちょうど準備が整った辺りで自分の天幕に姿を見せた。ぼぅっとした表情で、慌てて敬礼する従卒たちに片手を振る。その数歩後ろから、気遣わしげについてきていたエスタが、短い言葉で彼らを遠ざけた。

 薄闇の籠もった天幕の中、更に布で仕切られた奥に、簡素な寝台が置かれている。マントも脱がずにその上に倒れこんだ少年は、低い呻き声を漏らした。

 世話役の青年は、痛ましげな瞳でそれを見つめている。

 エスタは、主人と一緒に水竜王の姫巫女がいる天幕へ入れなかった。会談の間、将軍の警護をする兵士たちと共に、少し離れた場所で待機していたのだ。

 だから、あの天幕で何があったのかを彼は知らない。

 しかし。

「……アルマ様……」

 寝台の傍らに跪き、ゆっくりと少年の頭を撫でる。ゆっくりと、決して巻いてある布を乱さないように。

 アルマは、普段は手を頭に近づけられるだけでも嫌がる。血の繋がらない人間でここまで気を許しているのは、長いつきあいであるエスタを始めとする、自宅の使用人ぐらいだった。

 ようやく呻き声が止まるが、苦しげな呼吸は続いている。

「……なあ、エスタ」

「はい」

「俺は、何で大公家に産まれてきちまったのかなぁ……」

 虚ろに呟かれる言葉に、胸が痛む。

 レヴァンダル大公家。王家に次ぐ地位を持つ家の、ただ一人の跡継ぎとしてアルマは産まれている。

 家の中ではそれなりに我が儘が通る。公の場では充分に礼に適い、隙のない言動をすることができる。

 それは、他家の子息たちに比べ、勝るとも劣らない。

 だがそれでも、彼らとアルマとでは、その扱われ方が全く違うのだ。

 それは決して、大公家の地位が高いからでは、ない。

 更に長く溜め息が落ちるのを耳にして、エスタが迷う。彼はアルマを幼い頃から知り尽くしているが、しかし細やかな気遣いができるタイプでもない。

「……将軍と、何かあったのですか?」

 ずばりと尋ねてきた言葉に、俯せになりながら小首を傾げるという、器用な技をアルマは披露した。

「いや? いつもの通りだよ。将軍は無骨だが、それなりに政治を弁えてる。若造相手だからって、うちに喧嘩を売るほど莫迦じゃない」

「では、水竜王の姫巫女が?」

 続けて発せられた言葉に、反射的にアルマは、がば、と上体を起こした。その弾みに頭に巻いた布にひっかかりそうになって、慌ててエスタは手を引く。

「いや、別に、巫女姫が無礼だったとか、そんなことは一切ないぞ! 彼女は一人きりで敵陣にいて、人質同然の扱いをされていて、ちょっと余裕がないだけなんだ! あんな小さな体で負うには責任が大きすぎて、だから」

「落ち着いてください、アルマ様」

 呆れ顔で世話役の青年は宥める。

 僅かに上目遣いで、大公子は呟いた。

「……だって、お前、前にコルムバ伯爵家の次男坊の家令を半殺しにしたじゃないか……」

 その言葉に、エスタは溜め息をつく。

「落ち着いてくださいって。あれはあの家令が、大公家主催の舞踏会のど真ん中で、貴方を侮辱したからですよ。取るに足らないとはいえ爵位を持っている身で、莫迦な真似をしたものです。大公閣下ご自身が出てきたって不思議はなかった。私に鼻を折られる程度で済んで、彼はまだ幸運でしたよ」

 あの騒ぎを思い出したのか、眉間に皺を刻んで告げる。

「それに私だって、少しは政治を弁えています。例えば貴方が侮辱されたとして、敵国の竜王の姫巫女に決闘を申し込むとかできるわけがないでしょう」

「それは、そうだけど」

 まだ不安そうな目で見つめてくる。こういう時のアルマは、実際よりもやや幼く見えて、エスタは彼の要求に折れてしまうことが多い。

「それで、姫巫女は、そんなにお小さい方なんですか?」

 さらりと話題を変えるが、アルマは特別不審にも思わずに乗ってきた。

「いや、俺よりは幾つか年下だとは思うが、明らかに子供ってほどじゃない。ただ何というか、小柄で、華奢で、国の命運を一人で背負うにはあまりに儚げだというか」

 アルマよりも年下ならば、充分子供だ。

 そう認識しながら、しかしエスタは言明を避けた。

「ああ! そういえば、姫巫女の天幕は狭くて机と椅子しかなかったんだが、ひょっとして、彼女には寝台もないんだろうか。エスタ、何なら俺のを姫巫女に譲っても」

 慌てて寝台から降りかける主人を、肩に手をおいて諫める。

「ですから落ち着いてくださいってば。先ほど会見に向かった時のものは、仮の居場所として張られた天幕だったのでしょう。居住のための天幕と寝台ぐらい、予備は幾つかありますよ。ここは軍隊なんですから、戦闘になった場合に幾らかの損害を受けることは、充分折り込み済みのはずです」

 忍耐強く言い聞かせる言葉に、少々不安そうだがアルマは納得したようだった。

 ……本当にまだまだ子供でいらっしゃるのに。

 このような戦場へ向かわざるをえなかった事情と、その戦場を一足早く離脱することへの政治的損失を彼はよく判っていたが、しかし内心、心底安堵してもいたのだ。

 決して、その思いは外に出せはしなかったが。




 街道を、軍隊が進む。

 その数二百五十。故郷を離れた時の人数が二十五万であったにしては、桁違いの数だ。だがそれは敗残兵ではなかった。

 人数が少ない分、隊列の乱れや落伍者は少ない。それこそ桁違いに早く進めるようなものだが、彼らは隊列の中央近くに配された一台の馬車を護ることが任務である。

 街道の整備は充分で、石畳は殆ど剥がれたり割れたりはしていない。が、あまり揺れてはご婦人方に負担がかかるために、二頭立ての馬は並足で歩かせている。

 自然、軍隊もその速さについていくこととなり、劇的に速度は上がらない。まあ歩兵には優しい状況である。

 アルマは、馬車のやや後方、一目でその状況が把握できる位置で馬に揺られていた。

 水竜王の姫巫女に仕える侍女として、二人の女性が野営地にやってきたのは、会見から二日後のことだった。

 元々竜王宮にいた者たちらしく、姫巫女も気心が知れていていいだろう、と判断されたようだ。

 その更に二日後、一隊はイグニシア王国へ向けて出立した。


 進軍を停める以前、四日ほどは戦闘もなかった。街道沿いの大きな街を一つ落とし、周辺の小さな村を幾つか焼き払ったのはそれよりも前のことだ。

 彼らがその場所に辿り着くのは、やはり三、四日ほどかかるだろう。

 戦闘から十日ほどが経つことになり、逃げ出した住民も戻っているかもしれない。恐怖と絶望が怒りに変わるには、充分な時間だ。

 そしてそれは、この先街道を逆行していくにつれて、より多くの時間という余裕を住民たちに与えている。

 姫巫女が申し出た降伏と停戦は、確かにカタラクタ王国軍に周知されていた。フリーギドゥムにも、充分な数の軍隊が街を護っていたが、現在、それは沈黙を保っている。

 しかし、それは統制が取れている軍隊だから成しえることだ。怒りと恐怖で自暴自棄に陥った民が暴徒と化すことは止められない。

 まして、彼らの祀る水竜王の姫巫女が護送されている隊を、見逃し続けるなどと期待はできない。

 そのことは、出立前にハスバイ将軍からくどいほど忠告されていた。充分に訓練された兵士たちは、慎重に前方の偵察を続けている。

 それを疑っている訳ではないが、姫巫女を連れて、この先ずっと続く戦場跡を通って行くのが賢明だとは、アルマには思えない。

 だが、街道を離れて行軍することの安全性・利便性の低下を考えると選択の余地などはなかった。馬車が外せない要素である以上は、特に。

 自然、アルマは気むずかしげな表情を崩さず、前方を見据えたまま二日を過ごしていた。



 午後も半ばを過ぎた辺りで、停止する。

 陽が沈むにはまだしばらくあるが、暗くなる前には作業を全て終えておかねばならない。

 街道から数十メートル離れた辺りで、彼らは野営の支度を始めた。

 天幕の準備ができるまで、姫巫女たちは馬車の中で待っている。アルマと兵士たち十数人は、その周囲で辺りを警戒していた。

 やがて、滞りなく準備が整ったと報告を受け、馬車へと声をかける。

 扉が開き、侍女の一人が足元に置かれた壇に用心深く足をかけた。そして、次に姿を現したペルルがその手を支えに地面に降り立つ。

 近くに控えてはいるが、彼女はアルマと視線を合わせようとしない。

 昨日までは。

「……アルマナセル様」

 覚悟を決めたような声で呼びかけられて、きょとんと視線を返す。

「はい」

「あの……、少々、お話したいことがあるのですが。宜しければ、お時間を頂けますか」

「ええ、それは勿論です」

 慌てて一歩寄った。内心少しばかり迷ったが、掌を上にして差し出す。

 躊躇いを、少なくとも表向きは全く見せず、少女はその上に自らの指先を置いた。

 ゆっくりと、大きな天幕へ向けて足を進める。

「しばらく後を頼む、エスタ」

 腹心に一言告げて、二人はその中へ姿を消した。



 無骨な机の上には既に蝋燭が灯されていて、周囲をぼんやりとした光で照らしていた。

 椅子を引き、ペルルを座らせる。

 アルマが隣の椅子に座っても、しばらく、ペルルは口を開かなかった。

「……何か、不自由でもございましたか?」

 黙っていては嫌な予感だけが沸いてきて、とうとうアルマが口火を切る。

「いえ、あの……」

 小さく唇を噛んで、そして少女はきっぱりと頭を下げた。

「先日は、酷く失礼を致しました。申し訳ありません」

「え?」

 心底呆気に取られて、その姿を見つめる。が、我に返ると慌てて声をかけた。

「姫巫女には、何も失礼など受けておりません。私に頭を下げられるなどとんでもない」

「いいえ! アルマナセル様は、初めてお会いした時からずっと、敵国の巫女である私に礼儀正しく接して下さっています。なのに私は……、私は、恥ずかしくて」

 ペルルの声が、僅かに震えている。自分の方がいたたまれなくて、アルマは必死に考えた。

「判りました。謝罪をお受けします。ですから、どうぞ顔を上げてください」

 とにかく、彼女の気が済むように状況を動かした方がいい。そう判断して返事を返す。

 おずおずと視線を上げて、アルマが怒っていないということを見て取り、ようやくペルルは小さく微笑んだ。

「ありがとうございます」

「いえ。やはり、姫巫女は笑顔の方が似合っていらっしゃる」

 この程度の言葉、宮廷にいればさらりと出てくるものだ。言われた貴婦人は気にも留めまい。

 だが、王都から離れた竜王宮で暮らしていた姫巫女には慣れない言葉だったのか、僅かに頬を染めて俯く。

 却ってその反応にどぎまぎして、少年は僅かに視線を逸らせた。

「あの、アルマナセル様は、本当にあのアルマナセル様なのですか?」

 おそらくずっと気になっていたのだろう。ペルルがおずおずと訊いてくる。アルマが苦笑を浮かべた。

「フルトゥナ王国で破壊の限りを尽くした、〈魔王〉アルマナセルですか? 身の丈は十メートル、筋骨隆々の大男で、頭には巨大な山羊の角を生やし、口を開くたびに牙からは炎がしたたり落ちたという?」

 口を大きく開き、子供に対するような判りやすい威嚇の仕草を見せる。ちょっと驚いたように瞬いて、姫巫女はくすくすと笑みを漏らした。

「三百年前の戦いに参加したのは、確かに私の先祖です。父親が九代目になりますね。先祖の肖像画を見る限りは大柄で強面ですし、〈魔王〉、と呼ばれていたのは確かなようですが、実際のところはどうなのか……。彼の妻が亡くなって、数年後には後を追うようにこの世を去ったと言われています。本当に魔王であれば、人並みの年齢で死んだりはしないと思いますよ」

 この件について問われることは珍しくない。アルマは、さらりといつもの説明を披露した。

 まあ、と呟いて、ペルルはもう一度軽く頭を下げた。

「不躾なことをお伺いして申し訳ありません」

「いいえ。……安心されましたか?」

「はい」

 気恥ずかしそうに笑う少女は、先ほどよりも落ち着いて見える。

「私は、国はおろかフリーギドゥムからも出たことが殆どないものですから。大公家のお噂もそれほど伺うことはなくて。……イグニシアは、北方の土地ですね。やはり、寒いのですか?」

「そうですね、夏はなかなか快適な気候です。が、冬場は王都でも一メートル近く雪が積もりますね。おそらく降り始める前に到着できるとは思いますが。雪山を越えるのは、少々厳しい」

 イグニシア王国は、南は巨大な内陸湖に、東はカタラクタ王国との国境である山脈に、北と西が海に面している。王都は南方の湖の傍の土地にあるが、それでも冬は厳しい。国全体で見れば、凍死者、餓死者がでる年も珍しくはない。

 彼らが火竜王を祀るのは、温暖で豊かな気候を望むからだ。

 その望みが、二度に渡る他国への遠征に繋がったのだろうか、と考えたこともある。

 しかし。

 ジジ、と獣脂の蝋燭が音を立てた。ふと気づくと、蝋燭の長さがかなり減っている。

「長居を致しました。どうぞごゆっくりお休みください」

 立ち上り、礼儀正しく一礼すると、アルマは天幕を辞した。

 馬車に戻り、二人の話が終わるのを待っていた侍女たちに声をかける。彼女たちが姫巫女の天幕へ向かうのを確認して、アルマも自分の天幕へと足を進めた。

「……アルマ様」

 一歩後ろを付き従うエスタが、小声で呼びかけてくる。

「何だ?」

「兵士たちの目があるところで、そうにやにやとお笑いにならないでください。しめしがつきません」

「お前は本当に口煩いな」

 呆れた口調で返して、アルマは楽しげに笑い声を上げた。


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