09
闇は、アルマの創り出した光球である程度はカバーできた。
だが、石壁から染み出てくる地下水はじっとりと壁を濡らし、床に水たまりを作っている。
「きゃ……!」
おそるおそる進んでいたペルルだが、ある時うっかり足を滑らせてしまう。片手をアルマに預け、もう一方の手は聖服を摘んで裾を引きずらないようにしていた。当然、バランスは悪い。
アルマが慌てて片腕を支える。後ろを歩いていたノウマードが反射的に背中から反対の腕にかけてを受け止めた。
「大丈夫ですか?」
「……ありがとうございます、アルマ様、ノウマード」
ペルルが引きつった顔からいつもの柔らかな笑顔に戻って、二人の男はほっと安堵の息をついた。
「ノウマードも、久しぶりですね。今までご挨拶できなくてごめんなさい」
「お気になさらず、姫巫女。ご健勝のようで何よりです」
ペルルがしっかりと立ったところで手を離し、うやうやしく一礼する。嬉しげな彼女の笑みに、アルマは少しばかり眉を寄せた。
「しかし、どこへ連れて行かれるのでしょうね。ペルル様はお聞き及びですか?」
歩みを再開しながら、さり気なくノウマードが尋ねた。
「いいえ。夜になってから、グラナティス様が出かけることになるからと伝えてこられたので、そのまま」
「随分と簡単なんですね」
さほど他意はなさそうな言葉に、ペルルは僅かに俯いた。
「侍女たちの面倒は見てくださるとのことでしたので。私は、どこにいても、同じですから」
やや自嘲気味に呟く。
ノウマードが、もの問いたげにアルマに視線を向けた。微妙な話題ではあるし、この場で説明できる訳もない。アルマは、ペルルに気づかれないように僅かに首を振ってみせた。
「それに、アルマ様がご一緒だとお聞きしていましたから。何も不安なことなどありません。そうでしょう?」
笑顔で見上げられて、息を飲む。
「も、勿論ですとも、ペルル様」
勢いこんで返すが、ペルルの表情はやや不満げに変化した。
「……ペ……、ペルル」
何とか言い直したところで、水竜王の姫巫女は嬉しそうにまた笑みを浮かべた。
「……ねえ」
更に何か訊きたそうというか、言いたそうなノウマードを、眉間に皺を寄せて睨みつけた。
背後からは、特に興味もなさそうな顔でクセロが歩いてくる。
三十分ほど歩き続けて、ようやくグランは足を止めた。通路の片隅に、石造りの階段が地上へと延びている。
心得たように、クセロが軽くそれを登っていった。また出口に蓋がしてあったのか、蝶番が軋む音が長く響く。
「クセロ?」
外から、小さく声がかけられた。心細そうな、弱い声が。
「プリムラか?」
「うん」
「カンテラを。床だけ照らしてくれ。ああ、旦那、その光は上に出ないようにしておいてくれないか。誰かに見られるとやばい」
途中から振り返って告げてくる。グランがアルマに向かって頷いた。
天井近くに浮遊させていた光球を、明るさを弱めて数メートル後退させる。周囲が薄ぼんやりとし、反対に出口近くが僅かに明るくなった。
「上の方の段がちょっと崩れてるから、気をつけてくれ。上がれますか、大将?」
「平気だ」
グランが答えたが、石段に足をかけたところでふらついた。
普段竜王宮から出ることもない少年だ。この三十分を歩ききったのは、思えば随分と負担だったのかもしれない。
だが、その後はさほどひやりとすることもなく、グランは出口の外へ姿を消した。頭上から命令が降ってくる。
「アルマ。お前は最後だ」
必然的に、手を引いているペルルも一緒になるだろう。グランは、どうしてもノウマードを彼らの視界から外したくないらしい。まあ、彼には一度逃げられているのだし、無理もない。
肩を竦め、ノウマードが階段を登っていった。途中、楽器が入っていると思われるケースをどこかにぶつけたらしく、ごん、という音に次いで小さく舌打ちが聞こえた。
そしてアルマとペルルが後に続く。随分暗く、ペルルは足元がおぼつかないのか、ゆっくりと一段ずつ確実に登っていた。
出口の外は、小さな部屋だった。木箱が周囲に幾つか積んであり、生活感はあまりない。
全員が地上に出たところで、クセロがその木箱を引き摺り、閉じた床板の上に乗せた。二つ目を上に乗せようとしたのか、しかし持ち上げかけて断念した。贔屓目に見ても、彼は筋肉がついていない。
「俺がやろうか?」
つい、アルマが申し出た。意向を伺うように、ちらりとクセロはグランに視線を向ける。
よく躾られている。どう見ても生え抜きの部下ではないだろうに。
ここまでグランに恭順するまで、一体彼がどんな目にあったのか、想像しかけてアルマは止めた。
巫子は特に咎めなかったのか、クセロは頷いて箱の一方に手をかける。
〈魔王〉の血は、魔術が使えるというだけではなく、身体能力も高くする。この程度の箱、一人でも持ち上げられそうだが、一応金髪の男の自尊心を尊重して、アルマはもう一方を持った。二人でゆっくりと一つ目の箱の上に乗せる。
残りの箱は適当に周囲に置いて、クセロが汗を拭った。労うでもなく、無情にグランは踵を返す。
「では行くか。プリムラ?」
「あ、はい。外に用意してあります、グラナティス様」
答えたのは、先ほど部屋の中から発した声の主だった。
何気なく視線を向けて、次の瞬間、唖然とする。
そこにいたのは、グランよりもやや小柄な少女。どう見ても十歳は超えていない。カンテラの弱い光に、赤銅色の髪が照らされている。漆黒の瞳は緊張していたが、生命力に満ちていた。
グランが今気づいたように、初対面の三人に向き直る。
「ああ、これはプリムラ。ペルルの世話を任せることになる」
「え、でも、そんな小さな子が……」
やはり驚いているのか、ペルルが声を上げた。
だが、ぴょこん、と一度頭を下げて、プリムラは真っ直ぐペルルを見上げた。
「大丈夫です、お嬢様。あたし、料理は得意だし、服の着付けも入浴のお手伝いもできます。それに、髪を結い上げるのは腕がいいって姉さまたちにいつも褒められてたんですよ」
「あの、でもね、プリムラ……?」
「お任せください。きっとお役に立てますから」
にっこりと笑う少女に、ペルルは言葉を失う。どちらにせよ、彼女の立場でグランに抗うことは難しい。
「大将。俺の紹介はしてくれてねぇよな」
ちょっと不服そうに、クセロが呟いた。
「お前の役割は世話係じゃない」
冷たく返されて、鼻を鳴らす。だがそれ以上言い募ることはなく、男は部屋を横断してプリムラの髪をくしゃりと撫でた。
声を上げずに嬉しげに笑い、たっ、と軽く床を蹴ると、小走りに少女は扉を開けた。冷たい夜気が流れこんでくる。
周囲は暗く、木々のざわめきが聞こえる。
地下道は、割と真っ直ぐに延びていた。方向と距離から推測して、王都の西門から通じる街道が、森を通っている辺りだろう。
そして、小屋のすぐ傍に、二頭立ての馬車が用意してあった。塗装もされていない、簡素な馬車である。
クセロが無造作に扉を開いた。カンテラを寄せて、足下を照らす。
グランはさっさと先に乗りこんだ。特に指示もなかったので、ペルルの手を取って中へと誘導する。
姫巫女はグランの前に座り、次にアルマが促したノウマードはその隣に座った。
最後に、アルマがグランの横に腰を下ろす。
クセロが扉を閉め、御者台に座る。プリムラが隣に勢いよく飛び乗ったらしく、僅かに馬車が傾いだ。
ゆっくりと馬が歩き始める。
舗装もされていない夜の森の中だ。ここまで馬車を運んで来た以上、通る道はあるのだろうが、そこを速度を出して走れる訳はない。
馬車の中には、小さな灯りが設えられていた。重いカーテンを下ろして、外からは中の様子は窺えないようになっている。
グランが小さく息をつき、柔らかなクッションに背を預けた。
「さて、我々はとりあえずオーラレィの街へ向かう。さほど遠くはないし、朝には着くだろう。小さな街だが、竜王宮はしっかり機能しているから安全だ。そして、何のために王都を出たのかだが」
一旦言葉を切って、その場の全員を眺め渡す。
「僕たちは、これから、世界を救いに行くことになる」
唖然として、幼い巫子を見下ろす。
訝しげな表情を浮かべ、グランは再度口を開いた。
「どうした、変な顔をして」
「変な顔は余計だ! っていうか、いきなりとんでもないことを言い出すなよ!」
「とんでもないこと、だと? 竜王の高位の巫子と〈魔王〉アルマナセルがここに揃っていて、他に世界を救うことができる人材などいないだろうに」
「いやいやいや、世界を救うことが前提かよ! そもそも」
更に反論しかけて、途中で言葉を止める。
この場にいるのは、〈魔王〉の子孫と、火竜王の高位の巫子と、水竜王の高位の巫女だ。
視線が、ゆっくりと一点に集まる。
渋い顔で、ノウマードはそれを見返していた。
「自分から話すつもりはないか?」
グランが、余裕のある声音で促す。
「……私は、〈大将〉が『真実を告げる』というから、何もかも放り出してここまで来たんだ。こちらから話すことなど、何もない」
固い声で、ノウマードが返した。
「どういうことだよ」
眉を寄せ、アルマが問いかける。ひらりと片手を振って、グランがそれを流した。
「ならば、そちらを先に済ませてしまおう。認識が違うと、今後の協力関係も難しいからな」
少年の勝手な言葉に、しかしこれ以上抗うことなく、ノウマードはじっと待っていた。
「そうだな……。三百年前の、フルトゥナ侵攻についてだが。歴史書や伝承で、あの当時何があったかは、皆、大体知っているな?」
グランの言葉に、戸惑いながらもアルマとペルルが頷く。
満足そうに、少年は先を続けた。
「うん。実は、あれは嘘だ」
「嘘ぉ!?」
いきなりの爆弾発言に、大声を上げる。銀髪の少年が、僅かに眉を寄せた。
「……アルマ。一応、今は隠密行動中なんだ。少しは静かにしてくれ」
「う……、いや、でも」
「静かにしろ」
重ねて命令されて、渋々口を噤む。
「ですが、歴史書ですら嘘だ、というのは一体どういう訳ですか?」
小首を傾げて、ペルルが問いかける。
「そうだな。まず最初の前提として、フルトゥナには、攻め入られるだけの大義名分はあまり無かった。確かに盗賊は多少いたが、軍が出るほどの脅威ではないし、自国内にだって同程度の山賊はいたからな。
それから、〈魔王〉アルマナセルの召喚だ。おかしいとは思わなかったか? 本当にあの国が悪逆非道だったとして、自分に仕える巫子を成敗するために、風竜王自らが〈魔王〉の召喚に力を貸すなど。まして、他の火竜王、水竜王までが」
ノウマードは、きつく唇を引き結んでいた。膝の上に置かれた拳が、小さく震えている。
「それは……思ったことはありますけど」
「お前を見ていたら、竜王でも巫子に選んだことを後悔する人間もいるんだってことぐらい、納得できるけどな」
アルマがしみじみと告げ、グランはじろりとそれを睨め上げた。
「三百年前のあの時、フルトゥナを侵略するために、わざと噂を流し、理由を作り上げた奴がいる。〈魔王〉を召喚し、民を虐殺し、風竜王を封じこめるためだ。それは[奇襲王]イーレクスが主体となった謀ではないし、勿論僕も同じことだった」
「責任逃れか。世迷い事を……」
軋むような声で、ノウマードが呟いた。
殆ど初めてと言っていいほど、この青年が発する憎悪の視線を目の当たりにして、アルマが怯む。
しかし、グランは動じない。
「都合がいいように聞こえることは判っている。しかし、それが真実だ。三百年前、僕はその謀の渦中にいた。その中心だったものの名は、ベラ・ラフマ。……龍神だ」




