桜の樹の下には
その男がいきなり寝所に押し入ってきたのは、まだ肌寒い夜明け前だった。
「騒ぐなよ、大将」
「……何のつもりだ」
僅かに非難を籠めて問いかける。
金髪の男は、声に聞き慣れた笑みを滲ませて、答えた。
「ちぃと遠出しようぜ。こっそりと」
クセロが竜王宮から忍び出るのは、慣れたものだった。例え、マントの下に幼い子供を一人、抱えていても。
実際、場所さえ間違えなければこの男は宝物庫を荒し尽くしていたのだろうな、と皮肉げに考える。
勿論、当時と今は事情が違うが。竜王宮に仕えることになってからは、彼は竜王兵に見咎められも誰何されもしない。
「寒くねぇか、大将?」
馬の手綱を握る男が、問いかけてくる。鞍の前に座り、厚手のマントに包まり、背を男の腹に持たせかけているグラナティスは小さく、いや、と応じた。
「どこに行く気だ?」
「街の外だよ。もうじき、門が開く時間だ」
何時間か、街道を進み、横道へ入り、そして道は森の中の杣道に変わった。樹が茂る場所では、クセロは馬を下り、手綱を持って歩いたりもする。
この男がそこまでするのが意外で、グランは目的をあまり問い質していない。
やがて、未だ枯木と暗い常緑樹の色が広がる視界に、鮮やかな花弁が舞い散ってきた。
「……これは」
「ちょっとしたもんだろ?」
息を詰めて見上げる幼い巫子に、謙遜するようにクセロが呟く。
頭上を覆う、天蓋のような枝。その節々に、ふわふわと、もこもこと咲く、淡い桃色の花。未だ冷たさを残す風がそれを揺らす度に、ざあ、と小さな花弁がその軌跡に乗る。
魅入られたように、グランはその手を伸ばした。馬の上からならば、容易に柔らかな花に触れることができる。ふわり、と、まるで溶けるように、その花びらは掌に落ちた。
「散りかける時期になっちまったのは残念だけどな。昨日までは、もっと寒かったからさ」
男の、気を使ったような言い訳に、笑みが浮かぶ。
珍しいその表情に、一瞬きょとんとして、そしてクセロはこちらも珍しく破願した。
次の春に、この風景は共に見れぬだろう。
二人は、何も言わずとも、それを予感していた。




