彷徨うものたちに、安らぎを。
僅かに不審な目で、青年は部屋の中にいる相手を見つめた。
「そろそろお休みになられた方が宜しいのではないですか、王女」
少し離れた椅子にかけて、ぼんやりと手にした本に視線を向けていた少女が、はっとしてこちらを向く。
「嫌よ。帰らない」
拗ねたような、挑発するような言葉に、イフテカールは首を傾げた。
「最近のお気に入りはもう壊してしまわれたのですか?」
「違うわよ」
物騒な問いかけに、ぶっきらぼうに返す。その態度が常の彼女らしくなくて、イフテカールはそっと立ち上がった。彼の名目上の主人、まだ若き王女ステラの傍に跪き、真っ直ぐに視線を捉える。
「一体何がお気に召さないのです、美しい方?」
「……一人で部屋に帰りたくないの。誰かを呼ぶと、その、周囲がちゃんと見えない時があるし」
珍しく言葉を濁す。
「見えないことが不安なのですか?」
穏やかに、イフテカールは重ねて問う。ステラは小さく頷いた。頼りなさげにさまよわせた白い手をそっと両手で包みこむ。それに勇気づけられたように、彼女は口を開いたのだ。
「あの、ね。私の部屋に、……いるのよ」
「……で、どうして私が呼び戻されるんだ?」
憮然として、黒髪に長い角を頂いた青年がぼやく。
蝋燭を手に王宮の廊下に立っていた金髪の青年が、呆れたように相手を見上げた。
「私が面倒な仕事をやっているのに貴方が楽をしているなんて、苛々するじゃないですか」
「ああその辺はもうどうでもいいけどな……」
色々と諦めて小さく溜息を落とし、そして目の前の扉を見つめる。
王女の寝所など、一生入ることなどないと思っていたし、入りたいとも思っていなかったが。
「幽霊だって?」
「ステラはそう言っています」
疑わしげな言葉に、あっさりとイフテカールは頷く。
「まあ、いても不思議はないだろうな。この王宮は古いし、今まで幾らでも死人は出た筈だ。噂半分で聞いても、王女自身が色々と怨みを背負っていても不思議はない」
「あまり主君を誹謗するものではありませんよ、エスタ」
やんわりと咎めて、イフテカールは扉を開いた。
室内は閉め切られていて、昼間の熱気がまだ少し籠もっている。窓から薄明かりが射しこんでいるが、それでも部屋の隅には闇が蟠っていた。
「何か判りますか?」
声を落とすでもなく尋ねられて、エスタは肩を竦めた。
「いや。何の気配も……」
言葉を返しかけたところで、唐突に口を噤む。
不審な音が、耳に入ってきたのだ。
微かに、しくしくと泣く、声が。
エスタが反射的に剣を抜く。油断のない視線で、室内をぐるりと見回した。
「物騒なものを出さないでください。まだ子供の声じゃないですか」
呆れたように、イフテカールがその腕に手を置いた。
「本当にお前は何のために私を呼んだんだ?」
眉を寄せるが、とりあえず抜き身の剣を構えることはやめておく。
周囲の空気が、ひやりと首筋に触れた。
「……さま……、と……さ……」
泣き声に混じる言葉が、少しずつ明確になっていく。
イフテカールが暗い隅の方へと足を向けた。
「……ああ。貴女でしたか」
そこにいたのは、闇に溶けて消えてしまいそうなほど儚げな、幼い少女だ。
「おとう、さま……」
両手で顔を覆い、ただ嘆くように、請うように繰り返し、呼ぶ。
無造作に手にした燭台をエスタに押しつけると、イフテカールはその傍らに跪いた。
「さあさあ、心配なさらないで。もうすぐ、貴女とお父上が同じところにいられるようになりますからね」
「……ほんとう、イフテカール?」
「イフテカールは嘘をつきませんよ。我が姫君」
穏やかな笑みを浮かべて、優しく告げる。
空々しさに、エスタが視線を逸らせた。
その間に泣き声が途切れ途切れになり、そして、いつの間にか、消えた。
「結局お前のせいだったのか?」
「人聞きが悪いですね」
さらりと返ってくる言葉に、睨みつける。
「じゃああの子供の死にお前は関係してなかったとでも?」
「私を何だと思ってるんですか、貴方は」
それは肯定でも否定でもない。
「嘘つきだな」
きっぱりと放たれた言葉に、イフテカールは笑う。
「嘘ではありません。我が主が解放されさえすれば、竜王の元へ還った魂も、地に彷徨う魂も、全て等しく消滅するのですから」
艶やかに、まるで、それが本当に救いなのだと信じてやまないように、笑う。
「……まあいい。これからは用事もないのに私を呼び出すな」
「充分役に立ってくださいましたよ」
苛立たしげに言った言葉に、だが、意外な返事が返ってきた。
きょとん、として、龍神の使徒を見つめる。
「……何が?」
「燭台としては、充分です」
「斬るぞ」
不吉な口調で、エスタは手にしたままだった剣を軽く突きつけた。




