無限の春
それは、うららかな春の朝のことだった。
「花見に参りましょうか!」
突然部屋に現れた知人は、両手に大荷物を持って、楽しげにそう言い渡してきた。
「……お前は一体何を言い出すんだ、イフテカール?」
呆れた顔で、エスタが呟く。
「ああ、これは失礼。花見などという高貴な娯楽は、所詮下層階級育ちの貴方には縁がないものでしたね」
「どうでもいい娯楽だが、お前に言われると苛々するな……」
むっつりと返してくる〈魔王〉の裔に、イフテカールはにこやかな顔を向けた。
「さあさあ、花の命は短いものなのです。早く参りましょう」
そう言って、片手のバスケットを当然のように青年に押しつけると、龍神の使徒は、そのまま無造作に転移した。
次の瞬間に目の前に現れたのは、巨大な一本の樹だった。
通常、若葉が生い茂っているところに、薄桃色の花が咲いている。そよ風にさやさやと揺れるそれは、まるで光が踊っているように煌いていた。
目を開き、ただ無言でそれを見つめているエスタを、満足そうにしばらくイフテカールは眺めている。
「ほら、朝食としましょうか、エスタ」
やがてそっと促されても、青年はまだ呆然として頷くだけだった。
樹の下には薄手の絨毯が敷かれ、小ぶりな食卓と椅子とが用意されている。
「周到だな……」
エスタの感想に、イフテカールはそっと手にした荷物を卓に置いた。
「伊達に長く生きてはいませんよ。イグニシアとカタラクタの名だたる名所には全て、もうとっくに標を設置済みです」
「お前の生き様にはかなり無駄が多いだろう」
誇らしげに言う相手に呆れて呟くと、黒髪の青年は持たされたバスケットを卓に置き、開いた。中には数々の軽食や菓子、ワインなどが詰められている。
イフテカールは、いそいそとワイングラスを三客、取り出している。
そしてその一つを、自分の隣の席に置いた。
その前には、高さ三十センチほどの、黒い石像が鎮座している。
「……その扱いは、かなり不敬に当たるんじゃないのか?」
どう尋ねていいか判らずに、とりあえずエスタは思ったところを口にする。
全く、この金髪の使徒は、本当に常識はずれだ。
「年に一度しか楽しめないのですよ。我がきみにも、この世界をよく知っていて欲しいのです」
はらりと落ちてきた花びらを、そっと石像から摘み上げて、イフテカールは告げた。
復活した暁には、その世界の全てを破壊してしまうこの主に。
「お前なら、この季節のうちに何回でも楽しめるだろう。それに、一体今まで何百年を過ごしてきているんだ?」
皮肉げに放たれた問いには、柔らかく微笑んだだけで、言葉を返さない。
そしてイフテカールが身を起こしたところへ、エスタは慣れた手つきでグラスにワインを注いだ。




