07
「なんですか? これは」
午後を過ぎて訪ねてきたペルルが、部屋に入るなりきょとんとした顔で訊く。
「いえ、グランに課題を出されまして」
「課題?」
苦笑しながら答えるアルマに、再度問いかける。
今日も窓から見えるのは曇り空だ。自然、部屋の中は昼間でも薄暗い。
その室内の、彼らの頭上三十センチほどの高さに、光球が一つ浮いていた。金色の暖かみのある光が降り注いでいる。
「高位の巫子が御技を行使されるのは、竜王の御力が巫子を通して現世に発現するからだ、と言われていますね」
ペルルを座らせ、自分はその傍の椅子に腰を下ろし、アルマは口を開いた。
「ええ」
まだ腑に落ちないような表情で、姫巫女が頷く。
「ですが、〈魔王〉の魔術というのは違います。この肉体に、この血に、この魂に宿る魔力を基に現世に発現させる」
厳かに、少年は告げた。その殆ど全てがグランからの受け売りだが。
「とはいえ、引き出し方が違うだけで、使うためのコツは大体一緒だろうとうちの高位の巫子は判断していましてね。この光を、できるだけ長時間維持し続けるように、との命令です」
制御と持久力。
それを鍛えるには、少々簡単すぎる術ではある。
だが失敗した時の反動は小さい。慣れるにつれて、徐々に数を増やすようにとも指示を受けている。
「魔術を使うたびにお前の手が黒焦げになるようでは困る」と、あの見かけだけは幼い巫子は言い切っていた。
あまりぴんときていないようだったが、感心した表情で少女は光球を見上げた。
「綺麗ですのね」
中央の光球が安定した光を放ち、周囲を巡る小さな粒がきらきらと光を撒き散らす。
アルマはごく普通に作りだしていたものだが、他者から見るとそう思えるのか、とちょっと新鮮な気持ちで見つめてみる。
「そういえば、ペルル様に謝らなくてはならないことがありました」
ふとアルマが話を変えるのに、ペルルが小さく首を傾げた。
「何でしょう?」
「王都に着いた時に、できるだけ早くお伺いするとお約束していましたが、今まで来ることができなかったことです。申し訳ありません」
軽く頭を下げる。
「いえ、そんなこと。アルマナセル様はお役目でお忙しいのですし、お気になさらないでください」
慌てて返してくる言葉が予想通りで、顔を上げられない。
疚しいことはとにかく先手を打っておくという打算。
一日前まではただ時間をもて余していたということへの罪悪感。
そして、彼女の前からひっそりと姿を消そうという、決意。
ペルルはそのどれも知りはしないのに。
「それに、今後しばらくは竜王宮に滞在されるのでしょう?」
ペルルの声に嬉しげな響きが混じって、ようやく頭を上げた。
「ええ。急なことで、荷物の一つもありませんが、まあここにはよく泊まりますし。しばらくはやっていけるでしょう」
そこでもう一つ、忘れていたことに気づく。
「王都に戻ったら、姫巫女に一抱えの薔薇の花束を持って来るともお約束していたのに、できませんでしたね」
くすくすと、ペルルが笑う。
「では、それはまた次の機会に」
「はい」
自然に笑みが浮かんでくる。
大丈夫。
高望みをしなければ、大丈夫だ。
このまま、傍にいたとしても。
「竜王宮では、不自由ありませんか?」
ずっと気になっていたことを尋ねてみる。
「ええ。グラナティス様も、巫子の方々も、とてもよくして下さいます。……けれど」
僅かに表情が陰った。
「何か?」
「いえ、不満がある訳ではないのです。私の立場も、よく判っております。ですが、王都に来て、竜王宮以外の場所へ行けないとなると、私がここにいる意味があるのだろうか、と……」
ペルルは、敗戦国の姫巫女だ。
イグニシアが彼女を連れて帰ったのは、半分は人質として利用するためであり、もう半分は勝利者としての敗者への見せしめだった。
だが、ペルルがそれに応じたのは、敗者として勝者に従っただけではない。
王都へ来て、イグニシアとカタラクタの間で結ばれる協定に多少なりと干渉し、少しでも有利に運べないか、と望んだのだろう。
それは、王家や貴族に働きかけなければ果たせない。
しかし、グランは頑なにペルルを竜王宮から出そうとしていなかった。
個人的には、アルマは上司のその決断を支持している。我が国の貴族階級に関わっても、心底ろくなことはない。
とはいえペルルはそれを知らないし、知っていても揺らぐ決意ではないだろう。
「そうですね……。私からグランにちょっと言ってみましょうか」
結果としては無駄な努力になりそうだが、意義としてはやりがいのある努力だ。だが、ペルルは慌てて手を振った。
「いえ、そんな、アルマナセル様のお手を煩わせるなんて」
「大した手間ではありませんよ。どうせ毎日顔を会わせるんです」
ちょっと困ったように、ペルルが見返してきた。
数秒おいて、その表情がぱぁ、と明るくなる。
「あ、では、私、アルマナセル様にひとつお願いがあるのです。そちらを叶えて頂けますか?」
「ええ、それは私にできることでしたら」
うっかり安請け合いをしてしまった。
そのことに気づく前に、嬉しそうに少女は再び口を開いている。
「私とお話しするときに、もっと、自然にしてくださいませんか?」
「……え?」
咄嗟に意味が判らなくて小さく呟く。
「以前は、仕方がないかと思っていたのです。ほら、例えば、私とノウマードとは、アルマナセル様と知り合った時期はほぼ一緒ですけど、それぞれに対する態度は全然違いますよね?」
「いやそれは違います。当たり前ですよね、違うんですから」
慌てているために会話がおかしくなっているが、言いたいことははっきりしている。
水竜王の姫巫女たるペルルと、風来坊であるロマのノウマードとでは、同じ対応になる方がおかしい。
だが、ペルルは自信に満ちてそれに頷いた。片手を胸に置いて続ける。
「はい。ですが、アルマナセル様は、グラナティス様に対して、何の遠慮もなく接していらっしゃいますね。私も、同じ高位の巫女です。初めてお会いしてから三ヶ月ほど経っておりますし、そろそろそんなに堅苦しく接しなくともいいのではないかと思うのですけど」
僅かにくらりと目眩がする。
いや確かに高位の巫子という点では一緒かもしれないが、ペルルとグランでは、色々と諸々のことが違うのだが!
というところを反論したいが、簡単にできない辺りがやはり態度が違うと言う点だろう。
「しかし、ですね、姫巫女……」
とりあえず説得を試みてみるが、それでも、期待に満ちてこちらを見つめてくるペルルに、言葉を失う。
「……姫巫女に、そのような失礼をする訳には」
「あら、私がそうして頂きたいとお願いしているのですもの」
何とか弱々しく切り返してみたが、あっさりと阻まれる。
淡い亜麻色の髪が、小さな顔の周りをふわふわと縁取っている。華奢なその身体は、乱暴に掴んだだけで折れてしまいそうだ。
……いや、小さいという点ではグランの方が勝っているかもしれないが、しかしだからといってあの不死の巫子を護ってやりたいと思っている訳ではなく。
とはいえ、大公家としての主な役割は、火竜王宮に対する守護でもある。
何だか自分に対する反論すら訳が判らなくなってきて、アルマは長く溜め息をつきつつ俯いた。
「アルマナセル様?」
不思議そうに、少女が問いかけてくる。
頭に角を戴いた少年が、それを見上げて力なく笑みを浮かべた。
「……善処します」
「はい。お願いしますね。アルマ様」
嬉しげにそうペルルが返してきて、アルマは完全に逃げ場を失った。
「無理に決まっているだろう」
翌朝、一度ペルルを王宮に連れていってやれないか、と切り出してみたが、グランはそれを一言で切り捨てた。
「……ですよねぇ……」
小さくアルマが呟く。
露骨に眉を寄せて、グランは〈魔王〉の裔を睨みつけた。
「どうした、先刻からその話し方は」
「う、え、いや、別に。最近、貴方に対して、ちょっと態度が不敬だったかなぁと思っただけ、……ですよ?」
あからさまに狼狽え、視線を彷徨わせながら答える。グランが溜め息を落とした。
「どうせ、昨日、ペルルにお願いされたことに困り切っているのだろう。僕に対する態度を改めれば、ペルルへの態度は変えずに済むとでも思いついたか」
「だから何でお前はそんなことまで知ってるんだよ!」
表向きだけ取り繕っていた礼儀正しさをかなぐり捨てて、叫ぶ。
少しばかり満足そうな笑みを浮かべて、グランは口を開いた。
「こと、竜王宮において、お前にプライバシーなど存在せん」
「うわぁぶん殴りてぇ」
指を鉤爪状に曲げ、アルマが呻く。
それをあっさりといなすように、グランは片手を振った。
「それはさておきだ」
「いや置くなよ」
「昨夜遅く、一度、光球が消えただろう。どうかしたのか?」
深夜、寝室でのことを言い当てられて、うんざりと前髪を掻き上げる。
この火竜王の高位の巫子は、〈魔王〉の魔術が発動しているかどうかまで察知できる。
充分判っていたが、彼の管理下において、アルマには本当にプライバシーなど存在しないのだ。
「……別に」
「光球の維持程度、お前は七歳の時に三日三晩は保持できた。今の実力がそれに劣っている訳がない。……傷がよくないのか?」
角につけられた傷の経過は、夜に一度、巫子が手当てを施し、朝にはグランが直々に様子を見に来る。今朝も見ているし、その時には何も異常はなかったようだ。
「何でもねぇよ。ちょっと、……気が逸れただけだろ」
探るような視線を無視する。
「まあ、いい。僅かな違和感でもあれば、全て僕に話せ。僕には、火竜王宮には、……世界には、お前が必要だ」
「……大仰だな」
真っ直ぐに告げられて、少しばかり怯む。
「だが、事実だ」
さらりと認めてくるのが、居心地が悪い。こういうところが、グランは実に老獪だ。
その当人は、ふと指先に視線を落とした。
「どうした?」
「いや。爪が割れていた」
「ちゃんと手入れしておけよ。らしくないな」
いつも身なりに気を使っている竜王宮の長としては意外で、アルマが言う。
「そうだな。……時間がないんだ」
指先を握りこんで、多忙を極める火竜王の高位の巫子は呟いた。
そろそろ、陽が沈む時間が早くなってきた。
室内を照らすのは薄ぼんやりとした夕陽の名残のみで、そこここから暗がりが勢力を増している。
「……そうか。予想はしていたが、また酷い道を選んだものだ」
その、暗い影に身を隠すように、彼は言葉を零した。
話している相手の方は、全く姿が窺えない。
「強引にでも連れ出せ。多少、気を悪くさせてもやむをえないだろう。抵抗するようなら、魔法の言葉を教えてやる」
次いで発せられた言葉を理解するだけの間、沈黙が続いた。
「了解。あんたのお望みのままに、大将」
ひそやかにそう返して、相手は気配すらも完全に消した。
部屋の中は清潔で、埃の一つも存在を許されてはいない。
その各所に巧妙に隠された燭台が、幾つも、淡い、ぼんやりとした光を放っている。たゆたう空気には、麝香の香りが満ちていた。
そして、低い、呟くような歌声が途切れることなく流れている。
部屋へ通じる扉の一つが細く開いていて、その向こう側からは温かな湯気と、水音とが漏れてきていた。
歌声は途切れない。彼女の頼みだ。
誘うような、挑発するような水音に背を向けて、だらしなくソファにかけていた青年の首筋に、突然冷たい銀色の光が突きつけられた。
「動くなよ」
小さく囁かれるが、もとよりそんなものは存在しないかのように、青年は身じろぎ一つしない。
ただ、その唇から、甘い歌声が流れ続けている。
「うちの大将が、ご足労願いたいそうだ。おとなしくついてきてくれれば、手荒な真似はしない」
青年の反応は、変わらない。
数十秒待って、背後に立つ侵入者は小さく溜め息をついた。
「大将の予想通りだな。……あんたに、伝言を預かってる。『親愛なるニネミアの名にかけて、真実を告げる準備ができている』と。どうする?」
ぴたり、と青年の口が閉じた。
最初の警告など気にもしていないように、ゆっくりと、肩越しに背後を振り返ってくる。
栗色の髪の青年は、強い意志を持って相手を睨め上げていた。
「……いいだろう。乗ってやる」
低く流れていた歌声が止まって、彼女は不満げに声を上げた。
「ノウマード? せめて、私が傍にいない間はずっと歌っていてとお願いしたじゃない」
片時も離れたくはないから。その存在を感じていたいから。
まあ簡単な手管である。
それが本心であれば、傍を離れて入浴などしていなければいいのだ。
しかし、最初から呼びかけに応じて姿を見せることなど期待はしていなかったが、それにしても全く何の応答もないのに訝しさを覚える。
「……ノウマード?」
水音を立てて、湯船から上がった。濡れた体に薄いガウンを羽織り、室内履きに足を入れる。
隣の部屋へ戻った彼女が、呆然と立ち竦む。
そこで自分を待ち、歌っていてくれている筈だった吟遊詩人は、その姿を消していた。




