黄昏に抱く冀望(下)
夕暮れに染まる丘に、立つ。
風が、彼を護るように、祝福するように吹いていた。
細い歌声が漏れ聞こえてくる。
ケルコスは、オーリからやや離れ、しかし充分に相手の様子を見ることができる距離にいた。少年を連れて行くことで、イェティスは渋々、一日に一度、高位の巫子が自分の時間を過ごすことに同意したのだ。
勿論、ケルコスがオーリを護ることができるなどと期待している訳ではない。
何かあった場合、オーリがケルコスを見捨て、勝手な行動を取ることはないだろう、という方面の信頼感だ。
それは、当事者たちもよく判っていた。かなり複雑な心境を伴いながら。
巫子の声からは、徐々に張りが失われていっているような気がする。
ぼんやりとその歌声を聞きながら、ケルコスは僅かな不安を抱いていた。
親衛隊と行動を共にしていたとは言え、彼もただの少年である。オーリにかかる責務は大きいのだろう、という漠然とした意識はあるが、具体的にどう、ということは判らない。
だが、判らないということは充分に判っていて、それが、彼を内心歯噛みさせていた。
明らかにオーリの声が掠れ、そして、咳きこむ。
「オーリ様!」
慌てて、ケルコスは主に駆け寄った。青年は背を丸め、蹲り、抑え切れない咳を漏らしている。
「大丈夫、だ、離れて……」
縋るような目で見られても、それでもケルコスは首を振り、その背を懸命に撫でた。
「……ニネミア……」
小さく、名前が零れる。
それは、彼らの、彼の崇める竜王の名だ。
オーリがどれほどに苦しみ、悩み、竜王に救いを求めているのか。胸が塞がれる思いがして、ケルコスは眉を寄せた。
「……もう少し、二人きりでいたかった……」
「それなんですか!」
ぽつりと漏れた切なげな言葉に、反射的に返す。
オーリは少しばかり不満げに見つめてきた。
「そんなことを言われても。私がここを出て行ってから、ニネミアと水入らずでいられることなんて殆どなかったんだが」
「そういうところが問題なんですかそういうところだけが」
呆れた、というか、半ば苛立った感情のまま、ケルコスが問いかける。
「それが問題だよ。私は、巫子を増やさなくてはならない事態に面している」
真面目な顔で返されて、首を傾げる。問題と言うと、それこそ二人きりでいられないからかな、と思うが、流石にそれを言い立てるのは躊躇った。
彼も、そこそこ成長している。
「私は、元々高位の巫子になる前は、殆ど下っ端も同然だった。後から入ってきた巫子たちを育てることなんて、してこなかった。巫子というものが、どうやって研鑽を積んでいくのか、さっぱり判らない。……若い頃の私の仕事は、かなり特殊なものが大半を占めていたしね。どうすれば、ニネミアに不満に思われないように仕えていく巫子を増やせるのか、判らないんだ」
「……だから、巫子になりたいと望む人たちを受け入れてこなかったんですか?」
ケルコスの言葉に、肩を竦める。
「巫子を増やせば、民へ祝福を与える人数は増える。それは確かだ。だが、それでどうなる? 不充分な能力の巫子を増やし、草原で生きる術も持たない民を多く放つのか? 国としての形も全くできていないままに」
溜息をついて、オーリは空を見上げた。
「時間が必要だ。とてつもなく。なのに、私は一体何から手をつければ上手くいくのかも判らない」
「……他に、何に困っていらっしゃるのですか?」
自分は何も判っていない。ケルコスがおずおずと尋ねる。
それを責めるつもりはないのだろう。オーリは淡々と口を開いてきた。
「今も言ったが、民はここで生きることが難しい。この土地は基本的に痩せていて、カタラクタや、イグニシアのように農業が発展しなかった。家畜が草を食む地を移動する、遊牧民となる民が大多数だった。彼らの生活がしっかりしていなくては、都市は発展しない。だが、今や、遊牧民としての技術は殆ど失われている。あれだけの民が生きていけるだけの数の家畜を手に入れることもまず無理だ。昔いた家畜は既に野生化していて、捕まえられるかも判らないし、まして、再び家畜へ戻そうなんてどれほど時間がかかることか。イグニシアやカタラクタの支援でも、全員に行き渡るような数を要求するなんて無理だ」
広い空が、ゆっくりと藍色に染まっていく。まだ赤みを残す部分に、鳥の群れが黒々とその姿を見せつけていた。
「国家もそうだ。この三百年で、氏族はおろか、貴族も、王家もその子孫がどこの誰だかさっぱりわからなくなっている。昔の法も、はっきり残っている訳じゃない。そもそも、他国との条約は殆どが破棄されている。全てを作り直し、作り上げなくてはならないんだ。しかも、早急に。だが、一体誰がその責を負うんだ? なのに、それに関しては、私は一切関与できない。竜王との戒律がそれを禁じている」
ほんの僅か、竜王とそれに連なるものに対して、悔しげな表情を見せる。
この風竜王の高位の巫子としては、常にないことだ。
「私には、殆ど何もできない。我が民を、ニネミアの子らを、安全に、幸福に導いてやらなくてはならないのに……」
搾り出すような声が、詰まる。
ケルコスに、こんな愚痴のようなことを言うつもりはなかったのだろう。
だが、彼の焦燥感が。無力感が。小さな、弱い部分から噴出していく。
ケルコスは、真面目な顔で伝説の巫子を見つめていた。
「イェティス」
夕暮れ近くになって港に着いたのは、火竜王宮の船だ。そこから、見慣れた男が降りてきていた。
「ドゥクス。よく来てくれた」
風竜王宮親衛隊の隊長は、礼儀正しく火竜王宮竜王兵隊長を出迎えた。
初対面からずっと反りが合わなかった二人だが、先の戦いでイェティスが大きな怪我を負ってからは、流石にドゥクスの対処が丸くなり、それに応じてイェティスの態度も変化している。
なれなれしくはしないが、充分好意に値する相手だ、と現在は認識していた。
「巫子は?」
大抵彼と一緒にいるオリヴィニスを捜して、ドゥクスは周囲を見回した。
「今、気晴らしに出ておられる。巫子の責務は膨大だ。誰も肩代わりできないほど」
僅かに眉を寄せ、沈痛な面持ちで、イェティスが答える。
普段、断固として高位の巫子を追い立てる隊長は、しかしそれを完全に是としている訳ではない。
「では戻られたらお目通りを願いたい。我が巫子からご挨拶を預かっている。それから、色々と資料を」
が、ドゥクスの言葉に、数度瞬いた。
「グラナティス様が?」
あの火竜王宮の高位の巫子、オリヴィニスに次いで長寿であるあの幼い巫子は、彼らがイグニシアの王都で別れて以来、殆ど個人的にはフルトゥナへ干渉してこなかった。
「オリヴィニス様の誇りを傷つけたくはなかったのだろう。だが、まあ、何というか、結局のところ我が巫子は徹底して民の父であらせられるのでな」
苦笑して、ドゥクスは告げる。
「我らもオリヴィニス様も、あの方の民ではない」
少しばかりむっとする男の背を、軽く押す。
「竜王の民は全て、あの方にとっては子のようなものだよ。三百年前から、ずっと」
三百年前に、民を放逐した巫子に意識を向ける。
対称的でありながら、彼らはやはり、竜王の巫子だ。
それでも少しばかり憮然として、イェティスは火竜王宮竜王兵を野営地へと導いた。
「大丈夫、なんじゃないですかね」
さらりと、まだ幼い声が告げる。
「え?」
オーリはその返答にきょとん、と呟いた。
彼が虚を衝かれたところは、普段の隙のなさとは裏腹な表情で、ケルコスは思わず小さく笑う。
「僕は、カタラクタにいた頃、伝言を運ぶ仕事をしていたんです。親衛隊から、火竜王宮や水竜王宮の竜王兵へ、とか。その時に、兵隊さんたちと色々お話をしていて。確か、農業に関して言えば、随分と品種改良や肥料の改良が進んでいるから、昔は痩せた土地だった場所でも、かなりの収穫が見こめるようになっている、って言っていたんです」
「……一体何だってそんな話に……?」
唖然として、オーリが問い返す。
「確かその時は、一緒に行ったのがイェティス様の直接の部下の人でした。ほら、ロポスの岩山に住んでる。あの辺りは、草原よりももっと土地が痩せているから、収穫が増やせるならありがたい、って。詳しく聞いていましたよ」
ロポスの岩山。
三百年前、イグニシア王国軍の侵攻を食い止めていた地であり、フルトゥナが呪いに覆われた後、親衛隊の生き残りが住み着き、更なる侵入を防いでいた土地だ。
オーリも、一度、そこを訪ねたことがある。
ごつごつとした、風の吹きすさぶ岩山。僅かな土地を切り開き、作物を作っていた。数少ない家畜を、幼い子供たちが草原へ放牧に出していたのだ。
「農場が大きくなれば、家畜も、遊牧じゃなくて牧場の中で飼うことができるって。そうすれば、遊牧民よりも、豊かな生活ができるようになる、って、そう言っていました」
三百年の間に、世界は眠っていた訳ではないのだと。
「それに、王様の血筋が判らなくなっている、っていうことですけど。それが、何か、困ったことなんですか?」
首を小さく傾げて、ケルコスは問う。
「何か、って」
「僕が産まれる前から、ロマに王様はいませんでした。僕たちは、みんな家族で生活していました。街に行って、他の家族と一緒に行動することもありましたけど、その時は大体一番歳上の家長が皆を纏めていたんです。そういう風にできないんですか?」
「……それとは規模が違いすぎるよ」
少しばかり呆れて、オーリが答える。
「でも、僕らはそれに慣れています。歳をとっている、ということだけでは駄目な時は、家長の中から他に選ばれますし。この先、フルトゥナに村とか、町とかを作るんでしょう? そこに住む人たちの中から、一番纏め役にふさわしい人を村長さんとかに選んだらいいじゃないですか」
「選、ぶ?」
少年の言うことは、荒唐無稽だ。
三百年前の、それなりにしっかりと機能していた国家体制を覚えているオーリには、想像もできなかったことだった。
「オーリ様は時間がない、っておっしゃいましたけど。僕には、もの凄く沢山の時間があるように思えます。これから、フルトゥナの国を、いちから作っていくんですから。きっと、何だってできますよ、オーリ様。何だって」
そうして、少年は、酷く嬉しそうに笑うのだ。
夕日の残滓が眩しくて、オーリは瞳を閉じた。
時間はない。それは、確かだ。
だけど。
「……ケルコス。もう、五年して、お前がまだ巫子になりたかったら、その時は竜王宮に受け入れてやってもいいよ」
「五年もかかるんですか?」
悲痛な声で少年が抗議する。
「幾らでも時間はあるんだろう? お前がひょっとしたら、王様になりたい、とか言い出すかもしれないしね」
「王様……には、五年じゃなれないと思うんですけど」
「その為に頑張り始めるなら、遅くないさ」
さて、と呟いて、オーリは立ち上がった。暗闇が迫る空に向けて、大きく伸びをする。
「戻ろうか」
二人は、ゆっくりと丘を越えていく。
かりそめの街へ向けて。
「明日からは、しばらく散歩につきあわなくていいから」
「え、でも、イェティス様のご命令で」
焦ったように、ケルコスが返す。が、オーリは小さく首を振った。
「私は空いた時間にアーラ宮に行ってくる。竜王宮の運営に関して、資料が残ってた筈だ。……保存状態が、ちょっとばかり不安だけどね」
眉を寄せて、つけ加える。
その辺りの保存に関しては、完全にオーリ一人の責任だ。
時間はない。
オーリがこの三百年を生きてきたのは、彼が風竜王のただ一人の民であったからだ。
つまり、今後ロマをフルトゥナの民として受け入れるに従って、彼が風竜王から受ける恩寵は少なくなっていくことになる。
いずれ、彼の長寿は失われるだろう。
それが、この先、人並みに年老いていくという形になるか。
それとも、ある時、ほんの一瞬でこの肉体が三百年の年月を経ることになるのか。
オーリには判断するだけの情報がなかった。
願わくば、ほんの一日でも、一秒でも、一瞬でも長く、我が竜王と共に在れるよう。
彼らの民の幸福を見届けることができるよう。
青年は、じわじわと迫る恐れを押し殺し、そう祈っていた。
改訂作業、終了。(2018年5月5日)




