そして、君を見つけだす。(下)
翌朝、イフテカールは、ある館の前に立っていた。
時間はまだ早朝だ。このような手合いに対するには、夜よりもむしろ今の方がいい。頭がうまく働かないからだ。
胡散臭そうな顔をした家令が近づいてくる。
「何のご用件でしょうか」
「朝早くから失礼致します。グリロス様にお目通りを願いたい」
礼儀正しく接してくるイフテカールに、四十代半ばほどの年齢の家令は、傲慢な表情を崩さない。
「主人はまだ休んでおります。後日出直して頂きたい」
文字通りの門前払いだ。だが、イフテカールは柔らかく笑んだ。
「ケイリス様のところにいたイフテカールだとお伝え頂けないか。おそらく、覚えていてくださるのではないかと思うのだが」
その名に、家令は僅かに覚束なげな顔になった。
しばらくの間待たされた後、イフテカールは家令に連れられて廊下を歩いていた。
「グリロス様はお加減がよろしくないのです。寝室での面会となりますが、ご容赦ください」
主人から何を言われたか、先ほどよりは丁寧な言葉遣いとなっている。
静かに頷くイフテカールの衣装は、もう何十年も前に流行したものだった。館に通され、マントを預けたところで、この家令はあからさまに侮蔑の表情を浮かべていた。
やがて、頑丈な扉の前で家令は取次ぎの声を上げる。
室内は、薄暗かった。窓のあるらしい壁には重い幕がかけてあり、ただでさえ弱々しい冬の陽光を遮っている。部屋の片隅にある暖炉が、唯一の光源だ。
「イフテカール様……?」
細い声が、部屋の奥の寝台からかけられた。金髪の青年が、足を進める。
寝台の上には、皺だらけの老人が横たわっていた。枯れ木のように細い手を、懸命に持ち上げようとしている。その顔色は、一目見ただけでも病に冒されていると知れるものだった。
「よく、見えぬ……。灯りを」
か細い命令に、家令が慌てて応じる。枕元の卓に燭台を置かれ、老人は眩しげに目を瞬かせた。
「おお、イフテカール様……」
「ああ。私だよ、グリロス。随分と久しぶりだね」
グリロスは、もう四十年以上も前、イフテカールの養父であったケイリスが使っていた組織に属していた。当時は下っ端もいいところで、主に伝言を運ぶ役目を負っており、イフテカールとも顔なじみではあったのだ。
「お前がこの街の頂点に立つとはね。祝いが遅くなって悪かったよ」
「いいえ、いいえ……。ご無事で何よりで」
目に涙を浮かべ、荒い息を繰り返していたグリロスは、軽く咳きこんだ。ぜいぜいと喉を鳴らす男の手を、優しく握る。
「無理をしてはいけないよ、グリロス。お前は大事な存在なのだから」
ぼんやりとした視界で、老人は青年を見上げた。記憶と変わらぬ、絹糸のような金の髪。白い肌。懐かしい服。左手に嵌められた、奇妙な竜の指輪。
グリロスはもう七十歳は超えているだろう。ここ数年、病と老衰で臥せり、夢と現実と過去が入り混じった意識で過ごしていた、と聞く。
そして今、彼は、まだ若く、無鉄砲で、何の不安も持たなかった頃の気分が僅かに戻ったような、そんな気持ちになっていた。
心配げな家令も引き下がるように命じられ、イフテカールとグリロスはゆっくりと懐かしい話を始めていた。
失われた過去の共有。
上位者からの気遣い。
イフテカールは、ゆっくりと、巧みに老いたグリロスの心を解いていく。
そして。
「そう言えばね、グリロス。昨日の夜、私の泊まっていた宿屋が火付けにあってしまったんだよ」
ほとほと困った、というように、イフテカールは嘆く。
さっ、とグリロスの表情が引き締まる。
この街で、恩人に危害が加えられた、という事実に、彼は支配者の顔に変わった。
「何でも、借金の返済で揉めていた、と聞いたんだけどね。ええと、カリガ、とかいう人の部下だったかな」
「カリガ、ですか」
険しい顔で、その名前を繰り返す。
「ああ。私は何とか逃げ出せたが、気の毒に、他の者たちは救からなかったようだね。私も一歩間違えば危なかった」
「申し訳ございません、イフテカール様。けじめはきっちりとつけさせて頂きますので」
「お前を信用しているよ。グリロス」
鷹揚に笑んで、イフテカールは後始末を彼に一任した。
その後、アルトス親子は一度も故郷へ帰らなかった。
あの日、燃え盛る宿屋に置き去りにした、兄一家のことも話題に出したことはない。
彼は選んだのだ。娘だけを。
今、アルトスはイフテカールが持つ拠点のひとつで働いている。主は時折ふいにやってきては、こうして食事をねだっていくのだ。
無論、それだけが彼の仕事ではない。イフテカールの元に下っている者や、これから篭絡しようとしている者たちに対し、会食を供する場合は勿論駆り出される。その他にも、ある貴族の下に手の者を忍び入れさせようとして、まずアルトスをその館に勤めさせたことがある。料理の腕で信用を得てから、数人、新たに雇わせたのだ。
アルトス自身は、今のところ、非道な行いに直接手を染めたことはない。
だが、彼が歩いた後に何が残ったか、彼は努めて知らないようにしてきた。
イフテカールが温かな蒸しパンを割る。手が汚れることを気にしてか、銀色の竜の指輪はきちんと畳まれたナプキンの上に置かれていた。
「後でまた、ちゃんとした食事を出してくれよ。何より君のパンは絶品だ」
珍しく、嬉しそうにイフテカールは注文をつける。
結果的に自分の腕を磨くことができている現状に、アルトスはあまり文句をつける気はない。
ただ。
「……アレウラは、来年十三歳になる」
「もうそんなになるのか。早いものだね」
表情を変えることなく、イフテカールが返してきた。
「あの子の、将来のことだが」
低く搾り出されたその言葉に、青年は苦笑した。
「全く男親って奴は。いつだって、娘の心配ばっかりするんだな。気に病まなくても、私だって考えているよ。まさか婿に爵位が必要だとかは言わないだろう?」
「え?」
思いもしなかった返答に、まともにイフテカールの顔を見つめる。きょとん、として、金髪の主人は見返してきた。
「……いや、イフテカール。お前、最初に言っただろう。あの子を、生贄にするって」
口に乗せたくもない言葉であったが、問いただす。徐々に、イフテカールの顔に理解が浮かんだ。
「ああ、そういえばそんなことも言ったね」
「おい、そんなこと、って」
「うん。ごめん。あれは、嘘だ」
遮るように謝罪されて、開いた口が塞がらない。
「おい……」
「いやまあ、私としてもあれほど酷い状態を癒すのはそこそこ手間がかかるからさ。それなりに、君の覚悟と恩が欲しかったというのもあるし」
「おい」
「そもそも、私の術というのは我がきみからお預かりしているようなものなんだから、そうそう簡単に切り売りできる訳じゃないんだよ」
「おい」
「大体、いくら若くて綺麗で純粋な乙女だからといって、ただの人間の身で我がきみに捧げられるなんて名誉を得られるとか思わないで欲しいんだけど」
「そこか!」
色々と我慢できなくて怒鳴りつける。
「お前な……。俺が、この九年、どんな気持ちであの子を育ててきたと」
「それが君の代償だ、アルトス。何もかも忘れて、めでたしめでたしで幸せに暮らせるなんて思うな」
僅かに低く響いた声に、怯む。
その様子を満足げに眺めて、イフテカールは話題を変えた。
「さて、じゃああの子ももうすぐ適齢期だし、婚約者のことも考えないとね。職人がいいか? それとも商人? そこそこ裕福に暮らせる人材ぐらい、私も把握しているよ」
「駄目だ」
だが、父親はきっぱりと拒絶した。
「アルトス?」
「駄目だ、嫁になど行かせるか! アレウラはこれからもずっと俺と暮らすんだよ!」
「うわぁまた別な方向に駄目な親がいる」
「うるさい!」
アルトスは器に注いだスープへ、細かく刻んだ香草をその大きな手で思うままに一掴みぶちこんだ。




