そして、君を見つけだす。(中)
翌朝、イフテカールが下階に降りていくと、二人の男が隅のテーブルで話しこんでいた。
一人はアルトス。もう一人にも、彼の面影がある。兄だという宿の主人だろう。
挨拶を交わし、アルトスが厨房から朝食を持ってくる。
「帰るのか?」
傍らの椅子にかけられたマントを目にして、尋ねた。
「いや。ちょっと、街に出てくる。夕方には戻るよ」
兄弟に気を使ったのか、そそくさと食事を済ませて宿を出て行くイフテカールを見送り、主人はアルトスに視線を向けた。
「荷物も何も持っていないのに、まだ出て行く訳がないじゃないか」
「あ、いや、でも」
兄の言うことはその通りだ。
だが、荷物、という言葉に、何やら奇妙な気持ちがしたのも、事実だった。
夜の間に凍りかけた雪が、靴の下でさく、と潰れていく。
がらがらと、馬車が傍らを通り過ぎていった。
この街は、郷司の居城があった街ではない。それでも、イフテカールは昔何度か訪れたことはあった。街並みがさほど変わった訳でもなく、彼は懐かしげに周囲を見渡した。
「どうしたものかな……」
だが、気持ちの方は、まだ整理がついていない。
この地を発って、四十年ほど。幾つかの街に住みつき、地盤固めを続けていたが、ここしばらく、彼は小さな失敗を立て続けに経験していた。
幸いなことに、いずれもさほどの被害は受けていない。そもそもが、彼は未だ大して地位を広げられていないのだ。被害があっても小さなものだった。
彼の主人は、特にそれを咎めはしなかった。彼はかなり鷹揚だ。幾らでも時間はある、と思っている。
よほど、彼の存在に関わるような失態を犯さない限りは今のままだろう。
それでも、ひっそりとイフテカールは落ちこんだ。
それで、ふと思い立って、あの屋敷へと転移したのだ。
彼が、本格的に陰謀を仕込まれた、あの地へと。
もうそこに誰がいるとも思ってはいなかったが。
暗く頭上を覆う雲を見上げる。
彼の指には、龍神の指輪は嵌っていない。
何となくだが、このようなところを知られたくなかったのだ。指輪は、小さな袋に入れ、首から提げている。
そんなことをしても、本当は彼の主人から逃れられないことは判っていたが。
しかし、少なくとも放っておいてくれている。
そのことにほっとすべきか、それとも寂しく思うべきかすら、イフテカールは迷っていた。
その夜、かなり遅くなってから、イフテカールの部屋の扉が叩かれた。
「すまん。ちょっと、飲まないか」
アルトスがワインの壜とグラスを手に、立っていた。
「これは俺が奢るから」
「そんな訳にはいかないよ。失礼だが、経営が苦しいんだろう?」
部屋に入り、小さな卓の上でワインを注ぐ。
「それは……そうだが」
「昨日の奴らが来ているのか?」
寝台に座り、尋ねる。迷った末に椅子にかけた料理人は頷いた。
「俺は雇われだからな。下にいても、邪魔なだけだ」
「家族なのに?」
「家族でもだ」
寂しげに笑うと、男はワインを口に含む。
「この街を実質的に支配してるのは、グリロスって男だ。郷司もそれを承知してる。だが、流石に歳を取ってきたから、後釜を狙って息子や幹部たちが色々騒がしいのさ。この街で商売している人間は、誰だってグロリスに多少の借金はある。今までは、よほどのことでもなければここまで催促されることもなかった。ある意味、客だからな。だが、今後の地盤を固めたいから、いろんな奴らが顔を出してくるんだ」
「地盤固め、か……」
小さく呟く。
「どうかしたか?」
「あ、ああ。いや。私は、若い頃に商人の元で働いていたんだが。ずっと懸命にやってきたつもりなんだけど、何というか、最近、仕事が上手くいかなくてねぇ」
足を床に投げ出し、イフテカールが溜め息をつく。
まだ二十歳を幾らも過ぎていない青年が若い頃、と言うのに、アルトスは僅かに笑む。
十歳になるかならず、という年齢で、職人などに徒弟に入るのが当たり前だ。きっと彼も、それぐらいの頃の話なのだろう。
「どこも大変なんだな」
「全くだよ。私の、その、雇い主はさほど厳しい人ではないけど。それでも、甘えてはいけないと思うし」
アルトスは知らないが、イフテカールが愚痴をこぼす、ということは、実際珍しい。
昔に来たことがある土地、という安心感と、所詮行きずりの相手であるという油断があったのか。
「利益を差し出しても、信頼を差し出しても、頷かない人間がいる。彼らを動かすのは、一体なんだろうね?」
首を傾げて、イフテカールは問う。
頷かない兄を持つアルトスは腕組みして考えこんだ。
「……気持ち、かな」
「気持ち?」
更に訝しげに、金髪の青年が繰り返す。
「相手が、あからさまに自分の利を得ようとしていて、しかもその為に手段を選ばないようだと、関わることが嫌になる人間がいるんだ。保身もあるかもしれないが、どちらかと言えば嫌悪感、かな」
「嫌悪、か。もう少し、こう、割り切って考えて貰えないものかな」
難しい顔で、イフテカールは呟く。アルトスが困ったように笑った。
「それは本当に人によるからな。どうやって頷かせるかは、そっちの仕事だ、イフテカール」
その後、互いにワインを注ぎながら、彼らは色々と語り合った。主に、自分の思い通りにいかないことに関して。
アルトスがやってきて、一時間ほどが過ぎようという時に。
階下で、がたん、という鈍い音がした。
「何だ?」
訝しげにイフテカールが呟く。
「言い争いになってしまったかな。少し見てこよう」
よっ、と小さく声をかけて、アルトスが立ち上がる。かなり酔いが回っているようだ。
イフテカールの耳が、扉を開閉し、ばしゃばしゃと水音を立てて街路を走っていく小さな音を捕まえる。
「待て。様子が変だ」
「大丈夫だよ。あんたはここにいてくれ」
部屋の扉を開き、ふらふらと姿を消した男は、数秒後に驚きの声を上げた。
反射的にイフテカールがその後を追う。
アルトスは、廊下の突き当たりで立ち竦んでいた。その先の階段の下が、やたらと明るい。
光と、熱。ぱちぱちと爆ぜる音に、上がってくる煙。
「火をつけられたか……?」
「アレウラ!」
我に返った男が、その炎の中に飛び込もうとする。ぎりぎりで、イフテカールはその腕を掴んだ。
「莫迦、君が死ぬぞ!」
「下でアレウラが寝ているんだ!」
一気に酔いが醒めたか、必死の形相でイフテカールを振り払おうとする。
「ああ、もう!」
金髪の青年は短く毒づくと、足元を凝視した。
「下へ!」
瞬間、二人の身体が重力の枷から解放されて、大きく傾ぐ。
驚愕に吸いこんだ空気が、男の胸を焼いた。
宿屋の外壁は石でできているが、内装は木造だ。どこが火元かは判らないが、彼らの周囲も既に炎に囲まれている。煙がたちこめ、視界があまり利かない。
「イフテカール、お前……」
呆然とした顔の男に、苛立たしげな視線を向ける。
「子供がいるんだろう。早く!」
はっとして、アルトスは見慣れた一階の廊下を駆けた。
正直、標もない場所への転移はやったことがない。
極めて短距離だったことが有利に働いたのか。
イフテカール自身はともかく、アルトスは下手をすると転移の影響で生命を落とすかもしれなかった。
まあ、あのまま階段を駆け下りていたら、余計にかかった時間で確実に彼は死んでいただろう。
簡単に結論づけて、イフテカールは男の後を追った。彼は一枚の扉を蹴破るように押し開けている。
「アレウラ!」
狭い部屋だった。
寝台にかけられた、薄い布団にさえ火がついている。
アルトスは一足飛びに駆け寄り、小さな身体を抱き上げると炎に巻かれた布団を剥ぎ取った。
「もういいな?」
返事も待たず、イフテカールは男の背に手を置いた。
しん、と冷えた空気が、身を冷やす。
外は雨が降っていたようだ。この季節には珍しい。雪にならないだけ暖かいのかもしれないが、氷のような雨に打たれてはそんな実感は持てない。イフテカールは、さっさと建物の軒下に避難した。
「アレウラ……、目を開けてくれ」
すすり泣くような声が、微かに流れては雨音に吸いこまれるように消えていく。
イフテカールが燃え盛る宿屋から転移した先は、遥か昔の養父の別邸だった。
ここには標を設置してある。転移に際しての安全性は確かだ。
泥と化した荒れた庭の地面に膝をつく男の腕にかき抱かれた少女は、目を開かない。
脈はまだある。イフテカールは冷静にそれを見て取った。
だが、既にあの部屋は煙に巻かれていた。しかも、全身に火傷を負っている。時間の問題だ。
せめて、急かすようなことをしないでいるのが、イフテカールの判断だった。
「……イフテカール」
低い声で呼びかけられて、瞬く。
「何だい?」
「アレウラを、救けてくれ……。頼む!」
「何故私に言う。私は別に医者では……」
「お前は魔法使いだろう! こうして、私たちをあの炎の中から逃げ出させてくれた! 頼む、この子を、救けてくれ!」
小さく溜め息を落とす。
「あんなことは児戯だよ。どうということはない。だが、死に瀕した人間の生命を救うということは、そう簡単にはできることじゃない。代償が必要になる」
「何でもする! 私の生命でも魂でも持っていくがいい!」
父親は涙に濡れた顔を、真っ直ぐにイフテカールに向ける。
全く、子を持つ親というものはいつの時代も度し難い。
すっ、とイフテカールが男を指差す。
「君の生命一つでは足りないよ。まだ若い、純粋な子供を死の淵から引き摺り出すんだ。どれほどの困難があるか、想像できるのか? 下手をすれば、私が共に黄泉へ引きこまれかねない。そこまでの危険を犯させるだけの何が、君にあるんだ?」
絶望に染まるアルトスの顔を見据える。
雨は徐々に激しさを増し、煤で汚れた父親の顔に流れ落ちる水で縞を描いている。
「……何でも、する……。頼む。この子を救けてくれ……! 私の、ただ一つの希望だ!」
イフテカールが溜め息をつく。
「では、君が、生涯をかけて私に仕えることが条件の一つだ。どれほど手を血に染めようと、どれほど魂が汚濁に塗れようと」
「構わない」
即答に、掌を向けて制する。
「もう一つ。その子が十三歳になったら、彼女の肉体も魂も、わが主に捧げることになる」
その言葉に、アルトスは酷く怯んだ。
「どうする? この場で、焼け焦げたまま死なせてやるか? 五体満足で生き延びて、十年後にもう一度喪失するか?」
子供を抱く手が、酷く震えている。
「脈が弱くなってきている。その子は、もう幾らも保たない」
ぎゅぅ、と、固く、幼い子供を胸に抱き締める。
「……頼む。生かしてやってくれ」
イフテカールが、泥の中へと踏み出す水音が、響いた。
一瞬で暖かく乾いた場所へ転移して、アルトスは呆然として周囲を見回した。
暖炉に火の入った、居心地のよさそうな部屋。それは絨毯も卓も椅子も、全てがとてつもなく金がかかっていた。
「何してる。早く、その子を寝かせて」
イフテカールの声に、恐々と革張りのソファへ娘を横たえる。
その間に、手早くイフテカールは上着を脱ぎ捨て、シャツの首元を緩めていた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
音もなく開いていた扉から声をかけられて、アルトスが慌てて振り返る。ぴしりとお仕着せを着こんだ初老の男が直立不動の姿を見せつけていた。
「ああ、トリスティス。風呂を用意してくれ」
「かしこまりました」
「風呂?」
こんな時に、とアルトスが繰り返した言葉に、上の空で青年は頷いた。
「この子は冷え切ってる。生き返っても、また酷い病気になっては元も子もないだろう。君も同じだけど」
その間に、トリスティスと呼ばれた男はまた音も立てずに姿を消している。
イフテカールが、服の下から引き出した小さな袋を掌の上で開いた。ころり、と出てきた銀の指輪を左手の薬指に嵌める。
『よいのだな、吾子よ』
「ええ。我がきみ」
アルトスには聞こえない、自らの主の雄雄しい声を耳にして、イフテカールは弱まっていた自信が瞬時に蘇るのを感じ取った。




