そして、君を見つけだす。(上)
がんがんと、扉が叩かれる音が響く。
砂が入ったように重くざらざらする瞼をこじ開けた。おそらくはまだ深夜だ。
むっつりとした顔で、暗い部屋の中を戸口へと向かう。
乱暴に扉を押し開いたが、可愛げのないことに、相手は顔をぶつけるなどという失態を演じはしなかった。僅かに身を引いた姿勢で、食えない笑みを浮かべてこちらを見上げている。
「やあ、アルトス。空腹なんだ。何か作ってくれないか」
「……どうしてあんたはいつも時間を選ばないんだ、イフテカール?」
厨房の竃の火を掻き起こしている間に、イフテカールは調理台の横の椅子に勝手に座っていた。ぶらぶらと足を揺らしている。子供か。
「こんな時間に来たって、パンは焼けないぞ」
慣れた口調で釘を刺す。パンを焼くには、生地を発酵させなくてはならない。朝の予定では、焼き始める時間は、もっと先だ。
「いつも、と言うのなら、少しは早めに焼くようにしてくれたっていいだろう」
手際がなっていない、と、金髪の青年は言い放つ。
「普通の貴族は、大抵昼まで起きてこないものなんだよ」
新しい蝋燭に灯りを点す。隣の、半地下になった食料庫へ行かねばならない。こんな時間では、灯りがなければ何も見えないのだ。全く、余計な出費を強いる青年である。
「私を普通の貴族だなんて思っていないくせに」
アルトスの後ろ姿を見送りながら、イフテカールが言葉を投げかけた。
それは全くその通りだ。鼻を鳴らし、アルトスは扉を閉める。
蒸しパンに火を入れ、温かなスープを作っているところに、軽い足音が響く。
「あ、やっぱりイフテカール様だ」
扉を開けて顔を出した少女が、大きく笑う。年齢は十二歳。大きな青い目が、嬉しげにきらめいている。質素だが清潔な衣服を身につけていた。
「やあ、アレウラ。おはよう」
イフテカールが柔らかく笑う。
「おはようございます。いつも早いですね」
「こいつが来るのはむしろ夜中だ」
不機嫌そうな顔で、男ははぼやく。
小さく笑いながら、アレウラはそのまま姿を消した。水汲みに行くのだ。
「大きくなったねぇ」
目を細めて、イフテカールが呟く。
「ああ」
小さな心の痛みを感じながら、それでも同じようにしみじみとアルトスは頷いた。
車輪の音に、雪を踏みしめるきしきしとした音が混じる。
荷車を引く馬の体から立ち上る湯気を、アルトスはぼんやりと見つめていた。
しんしんと雪は降り続けているが、幸いなことに風は強くない。街道ではないが、そこそこ広い道だ。道の傍数十メートルは木が切り払われ、風を遮るものは左手に続く石造りの塀ぐらいだった。
前方に人影を認め、訝しげに目を眇めた。
一人だ。暗い紺色のマントを纏い、フードを被っている。
ちょうど、鉄の棒を組み合わせて作られた門扉の前で、じっとその向こう側を眺めているようだ。
進路の邪魔にはならないが、アルトスはその手前で手綱を引いた。
行き過ぎると思っていたのだろう。相手は、意外そうな顔でこちらを見上げてきた。
まだ若い。二十代半ばぐらいか。フードの下から、細い金髪が覗いていた。白い頬には、赤みが全くない。どれほどの間、ここに立っていたのか。周辺には、足跡が全く見られなかった。
衣服は、見るからに上等だ。地位のある人間だろう。
「どうかされましたか」
声をかけると、ちょっと困ったように青年は笑んだ。
「いや。この、屋敷は」
細い声が返ってきて、アルトスは視線を塀の中へ向けた。
瀟洒な館が、奥の方に見える。冬の最中だというのに、煙突からは煙の一本も立ち昇ってはいない。広い庭に植えられた木々は、その枝を奔放に伸ばしていた。とても手を入れているようには見えない。
「ああ。昔の、郷司が使っていた別邸だそうですよ。六十年ぐらい前か。若い貴族たちを集めて、小さな社交場のようなことをなさっていたらしい。その方がお亡くなりになって、郷司が代わられた後、あまり使われなくなったということです。少し、街から離れているから」
「そうか」
小さく呟いて落とした溜め息が白く濁って、少しほっとする。このような寒い所にじっと立ち尽くしているなど、その白皙の青年が、ひょっとしたら人間ではないのではないか、などと思えてしまったのだ。
「街へ行かれるなら、乗っていきますか?」
アルトスの丁寧な言葉に、彼は驚いたような顔を向けてきた。
「そのうち陽が暮れる。ここから歩いて街に辿りつくのは無理でしょう。私はこれから街に戻るところだし、よければ」
青年は、ちょっと躊躇ったようだ。まあ、いきなり強盗に豹変する、という懸念もあるだろう。それはこちらも同じではあるが。
だが、金髪の青年はすぐに柔らかく笑んだ。
「そうだな。それでは、お願いしようか」
御者台の真ん中に座っていたのを、少し端に寄る。そして、青年が乗りこむのを待って、馬を進ませた。
アルトスは、固く閉じられた門扉の向こう側に幾つもの足跡が残っていることを、ついぞ気づかないままだった。
青年はイフテカールと名乗った。
「何故あんな所に?」
どうにも不思議で問いかける。近隣の街でちょっと尋ねれば、もうあの館には誰も住んでいないことぐらい判る筈だ。
「うん。私の、親戚がね。昔、あそこで世話になっていたらしくて。近くに行ったら寄ってみるといい、って言われていたんだ」
六十年も前の話だ。その親戚はかなりの老齢だろうし、あるいは、もう存命でなくても不思議はない。
「あれから全く使われていないとか、考えてなかったものだから。泊まっていこうか、と思っていたのにあてが外れたよ」
さほど深刻ではないように、言う。近辺には全く人家もないというのに。
「それじゃ、うちに泊まるかい?」
アルトスの申し出に、きょとんとした視線を向ける。
「いや、うちというか、俺の兄のやってる宿なんだが。俺は、そこで料理人として働いてるんです。今日は、仕入れに村まで行ってきたところで」
背後の荷台に置いてある荷物を顎で示す。麻袋に詰められて乗っているのは、日持ちのする野菜や燻製肉だ。
毎日、必要な分を市場で買っていては高くつく。しかし、買いだめをするほど、宿に場所はない。そこで、近隣の村で買いつけておき、必要な分を時折取りに行くのだ。
農夫は、倉庫をいいように使って、と毎回文句を言っている。
と、思い立ってアルトスは手近な布を取り払い、その下の籠を同乗者に示した。
「腹は減っていませんか? 大したものじゃないが、どうぞ」
そこにはパンの塊と、ワインの壜があった。
「それは、貴方の食事なのでは?」
遠慮するようなイフテカールの言葉に、軽く笑う。
「吹雪だとかで夜まで戻れなかった時のための食料なんだ。ここからなら、もう充分帰ることができるから、気にしないでいい。あんなところに立っていて、寒かったでしょう」
覚束なげに頷いて、青年は掌大のパンを手に取った。冷たいそれを一口かじる。
と、驚いたように目を見開いた。
「……美味しいな」
小さく呟かれた言葉に、破顔する。
「そうか。それは、俺が焼いたんだ。元々はパン屋に徒弟に入ってたから、なかなかのもんだぜ」
「うん。その方がいい」
薄く笑いながら見返される。意味が判らなくて、首を傾げた。
「喋り方、だよ。丁寧なのは、慣れないんだろう?」
図星を指されて、うろたえる。
「私は貴族じゃないから、別にお咎めもない。……宿屋の食事も、これに負けないんだろうね?」
「勿論だ」
どう返していいのか判らずに、アルトスはぶっきらぼうに告げた。
その宿屋は、街の中でも割と中流階級の住む地域にあった。
案内された部屋に入り、吐息を落としてマントを脱ぐ。イフテカールは、薄手の上着という、この冬の最中に旅をするには少々心許ない服を着ていた。
手荷物すらないことを、あの料理人が気づかなくてよかった、と、薄く笑みを浮かべる。
流石に、この姿で下階へ降りるのはまずい。イフテカールは何か適当に衣類を取り出そうと、空であるはずの手近な櫃の蓋を持ち上げた。
宿屋の一階に設けられた酒場は、結構人が入っている。
長い冬の間、イグニシア人は暇を潰すためによく酒を飲む。騒がしい男たちを避け、イフテカールは厨房横のカウンターに独り座った。
「いいのか?」
厨房に入っているアルトスが、騒ぐ客たちを顎で示してくる。そちらに混ざらないのか、と訊いてきているのだ。
「君がいるだろう。寂しくないよ」
さらりと返された言葉に、肩を竦める。
実際、近隣の住人たちは専ら酒を飲むばかりで、料理を注文することは稀だ。食事をするイフテカールが混じっても、ペースが狂うだろう。
冬場は旅人も少なく、アルトスはあまり腕を振るうことができていない。
イフテカールが代金を弾んだこともあり、厨房にはなかなかいい匂いが立ちこめている。
やがて供された料理は、贅沢に慣れたイフテカールの舌にも心地よいものだった。
「凄いな」
呟いた言葉を耳にして、アルトスはにやりと笑む。
もっといい素材を使わせれば、どれほどのものが作れるのだろう。
イフテカールはぼんやりとそんなことを考えた。
そう、これは、ただの時間潰しだ。
この時点では、まだ。
がたん、と酒場に音が響く。
鱒のフライを口に運びながら、アルトスと世間話をしていたイフテカールは、吹きこんできた冷気に振り返った。
三名の男たちが、入り口の扉を大きく開いて立っている。
酒場の中の喧騒が、見る間に低くなった。
「……扉を閉めてくれないか」
抑えた声で、アルトスは告げる。
にやにやと笑いながら、男たちは扉から離れた。手から離れたそれはしっかりと閉まらずに、隙間風が入ってきている。
客たちが、視線を合わさないように、しかし男たちの動向を見落とさないように、微妙な視線を向けてきていた。
「主人はいるか?」
イフテカールの座るカウンターの手前で立ち止まると、一人の男が声を上げる。
「今夜は出かけている。明日、出直して貰えるなら伝えておこう」
料理人の答えに、他の男が床に唾を吐いた。
アルトスは表情一つ動かさない。どのみち、床には藁が撒かれている。さほどの被害はない。
「金の算段にでも行ってるのか? 期限はとっくに過ぎてるんだがな!」
酒場の空気が、不穏に蠢く。
「俺は雇われてる身だ。その辺は、主人と話せ」
きっぱりと会話を拒絶するが、最初に声をかけてきた男がカウンターに手を置き、身を乗り出した。やや空間が圧迫されて、イフテカールが身体をずらす。
「なあ。お前さんからも言ってやってくれよ。あれだけの借金をチャラにしてやってもいいんだぜ? 悪い話じゃないだろう。ちょっと、カリガの方を支持する、って言ってくれりゃあさ」
「たかが宿屋の主人に、それだけの力がある訳ないだろう」
僅かに呆れた声音で、アルトスは返した。
「勿論だ。だが、人数が集まれば無視できない。ここいらは大事な縄張りだからな。他に人を集めて貰ったら、もうちょっと色をつけてやってもいいって、言ってくださってる」
「だからそういうことは」
じわじわと顔を近づけていく男に、アルトスは眉を寄せて断り続ける。
「あの、ちょっと」
そこへ、横合いから、とんとん、と、つついてくる指があった。
男たちと、アルトスとが視線を向ける。
一般的に優男、と評される部類の青年は、屈強な男たちを見上げ、小さく首を傾げた。さらり、と細い金の髪が揺れる。
「お連れさんの顔色が悪いけれど。大丈夫?」
「あ?」
どすの利いた声を漏らすと、男は振り返った。一歩下がったところに立っていた連れの二人は、特に変わったところなどない。
……いや。
言われてみれば、と言ったように、眉を寄せ、片手で腹を押さえ始める。
「おい。どうした?」
「いや、何か、気分が……」
男たちは覚束なげに、腹や胸をさすっている。
「何か、妙なものでも食べたか飲んだかしたのかな? 貴方は? 彼らと同じものを食べていない?」
見慣れぬ青年に、善意の塊のような視線で見上げられて、怯む。
何やら、胸がむかむかして、腹の具合がおかしい、ような気がする。
「む……」
僅かに顔をしかめた男に、イフテカールは更に心配そうに声をかけた。
「早く帰って休んだ方がいい。こんな寒い夜に道で倒れたら死んでしまうよ」
三人が顔を見合わせる。と、周囲の客たちと視線が合って、口を引き結んだ。
「まあいい。明日、また来るから主人にそう言っておけ!」
わざとらしく胸を張り、足音を立てて出口へと向かう。その背中が扉の向こう側に消えるときに、イフテカールは軽く手を振った。
「何をしたんだ、あんた……」
再度皿へ向き直った青年に、アルトスが胡散臭げな視線を向ける。
「私に何ができたか、目の前にいた君がよく知ってるだろう。あんな、暴飲暴食しか食の楽しみを知らない奴らなんて、ちょっと揺さぶれば幾らでも心当たりがあるものだよ」
肩を竦めて、イフテカールは冷めかけたフライにフォークを刺す。
「気のせい、だというのか?」
訝しげに更に問うてくる男を、呆れ顔で青年は見上げた。
「それよりも、後ろの子を何とかしてあげなよ」
慌てて振り返ると、厨房の奥にあった樽の影に、小さな身体が蹲っている。
「アレウラ!」
「……とーしゃ……」
たどたどしい口調で、幼い子供は慌てて近寄ってきた男に手を伸ばした。大きな手が、やすやすとそれを抱き上げる。
「君の子供?」
「ああ」
頬を僅かに緩ませて、答える。
「こっちに来ないようにと言っておいただろう。怪我をしたらどうする」
「う……」
しかし窘められて、アレウラは泣き出しそうな顔になった。
「あんな怒鳴り声がしたんじゃ、怖かっただろう。仕方ない」
が、イフテカールの声に、父親は驚いた視線を向けた。
「怖いのに、来るのか?」
「怖いから来たんだよ」
苦笑して返してくるのに、首を捻る。
「にーちゃ。なに?」
いきなり話しかけられて、イフテカールは瞬く。
「なにって?」
「こわいの、いっちゃったの。にーちゃ、なに?」
「ほら、もう寝てきなさい」
一応イフテカールは客である。困り顔で、アルトスがあやす。
「そうだな。私は、魔法使いだよ」
だが、青年は面白そうに小声で告げた。
「まおうつかい?」
「魔法使い。内緒だからね?」
舌足らずに繰り返すアレウラに、悪戯っぽく笑う。
「ないしょ!」
楽しげに笑う娘とイフテカールを、アルトスは呆れ顔で見比べた。




